戦いの後に
「先森君に対し、異常な執着心を見せるデクスターというアビス・ウォーカーに伊藤さん相手に、数を活かした遅延工作を行い、自ら空間を開けて逃走した女王蟻型アビス・ウォーカーは知性個体と見て間違いないだろう」
上への報告の為にほとんど、判明していない事柄をまるでカルピスの原液 十 mlに対し、水 二百 mlで薄めるが如き、かさ増しをしながらレポートを作る。
スーツの報告もあるけど、こういう事を一々考えてしまう辺り自分の研究者根性を自覚するよ。
「……先ずはデクスターというアビス・ウォーカーだけど、先森君に殺されたがる素振りが確認できている。この事から、彼限定ではあるけど脅威は極めて薄いと言っていいかな。問題は彼以外に対しては、本気を出させる為に殺そうとする事か」
ある程度の理性は持ち合わせているようだけど、対話が成立するタイプじゃないなアレは。
先森君の事を気に入っているからこそ、彼との会話をしてくれるがアレの思考回路はどう足掻いても、先森君と戦い殺される事に行き着く……言葉を操るせいで余計に面倒だと言えるね。
「報告書には人の輝きとやらに執着があるみたいだけど……なんなんだろう」
他の生物に比べて知恵が発展している種ではあるけど、それを欲するのならキチンとした対話や読書を好み、戦いに執着する理由にはならない。
……そもそも何故、アビス・ウォーカーは人間を襲う?
過去の観察や研究において、連中には食べ物を消化するような器官は備わっていない事が判明している事から考えて、食事という線は薄く態々サードアイを優先的に狙いに行く理由も自ら天敵に襲い掛かるようなもので、生物として合理的な行動ではない。
「……そういう面で考えれば女王蟻型アビス・ウォーカーの行動も妙だね。伊藤さんの力に勝てないと悟ったとしても、怯える個体は居たが逃げの一手を打つ個体はコレが初めてだ。捕食者が被捕食者から手痛い反撃を受けて、逃げるという事は自然界でもある事だが、アレは最初から別目的があるみたいな事を伊藤さんは言っていたな」
『儂が決定打に欠けていたのは自覚するが、あやつの兵隊運用は上手かった。自身から最も遠ざける様に兵隊を動かしつつ、儂の動きをよく見て屋上へ向かうのを阻止していた……初めてだったわ、アビス・ウォーカーから微塵も殺気を感じないのはな』
そして、目的が不達成だと悟るや否や撤退と。
恐らく女王蟻は土御門 音夢の支配下にある様なものなのだろう……デクスターの出現により作戦が失敗になったからこそ、逃げ出すというのは個という命に執着がなければ行えない。
「そんなものがアビス・ウォーカーにあるとは考えもしなかったが、知性個体には強い目的があるのかもしれない。デクスターは、先森君に殺される事。女王蟻は己の生存……自らの方針を強く決定づける感情の様なものが彼らにはあるのかもしれない」
もはや、カサ増しでしかない報告書を書く手は完全に止まり、思考の海に沈んでいた僕は今まで考えていた事からある結論を導き出し、即座に頭を横に振った。
感情を糧にし己の力を引き出すその姿は──
「──サードアイと似ているなんて、少し飛躍しすぎたよ」
東京都内、喧騒の多い人通りから少し離れた裏路地にある黒い木造建築のカフェ『ドストエフスキー』にて、彼らは向かい合う様に座っていた。
個室形式であるために、疎にいる客達は気が付いていないがその席に座る一人、白髪が所々に混ざった髪を短く纏めている初老の男性──茂光の纏う雰囲気は和やかなお茶をしようとする者のではなく、戦場に立つ兵士の様にピリピリとしていた。
「──ふぅ、良い豆を使ってるわね。香りと深みが私好みよ、貴方もそんなに怖い顔をしないで飲んだらどう?」
それに対面するのは艶やかな黒髪をポニーテールに纏めて、茂光の雰囲気など意にも介していないと云った風に優雅な立ち振る舞いで、珈琲を口に運び妖艶な笑みを浮かべる女性であり、そんな彼女の態度に真剣なままの茂光はその名を呼ぶ。
「日輪先生……いえ、今は壱与さんと呼ぶべきですか」
「相変わらず諜報はお手のものね。流石は真実をひた隠しに裏から世界を守る組織だけの事はあるわね」
「……ご謙遜を。元を辿れば、貴女の手によって生まれた組織です。これぐらいは褒められることでもありませんよ」
「私が創ったのはただの研究室であって、政治とは程遠い立ち位置に居たはずなんだけど」
「えぇ──人の次なる進化のため、そう言ってサードアイの研究室を立ち上げた貴女の背中に着いて行ったのは、他ならぬ私ですからよく知っていますよ。現在、解明されている殆どの事象は貴女の手によるものですから」
サードアイやアビス・ウォーカー、それらに関連する全ての研究は茂光の目の前にいる一人の女性によって行われていた。
当時は戯言としてしか、受け取られていなかった彼女の研究は皮肉な事に彼女が表舞台からその姿を消してから、初めての日の光を浴びる事となり、行方を眩ましていなかった茂光や後輩に当たる桜井などにADとしての責務が回ってきたのだ。
カチャリと静かに、壱与が持っていたコーヒーカップが置かれる。
「それで?自らの無能を宣言しに来た訳でもないのでしょう?」
「耳が痛い言葉ですね……今の貴女と彼女、土御門 音夢さんの関係を教えてほしいのです」
懐からどう考えても盗撮と思われる角度で撮影された、先森と並び楽しげな笑顔を浮かべている音夢の写真を取り出す茂光。
そこへチラリと一度だけ視線を向けると、壱与は再び茂光の顔を逸らす事なく見る。
「友人の忘れ形見を引き取るのが不思議かしら?」
そこに嘘偽りの色はなく、ただ淡々と事実を告げる者の姿があった。
だからこそ、茂光は一度大きく息を吐くと、手元にある少し冷えた珈琲を僅かに含み舌を濡らしてから口を開く。
「壱与さんしか知らなければ何も疑問には思いませんよ。日輪先生」
「くっ、ふふふ。なるほど、確かに君であればそうでしょうね。そうね……私と土御門 麻理の関係は間違いなく、友人と呼べるものであった事は事実と言っておきましょう。まぁ、パトロンという意味合いもありましたが」
パトロン……つまり、土御門 麻理は友人であると共に表舞台を去った彼女には用意の難しい、研究資金を渡していたということだ。
だが、それが全てではないだろうと茂光は追求の手を止めない。
「なるほど。気まぐれで引き取った彼女に予想外の才能、サードアイがあった事は理由ではないと?」
「……ふふっ、早く本題に入ったらどう?直接、君が此処に足を運んだ理由、あるんでしょ?」
余裕綽々と言った微笑みのまま、急かす壱与の姿は完全にこの話における優位を勝ち取っている者の姿であり、その一切揺るがない立ち振る舞いに茂光は、自身の不利を悟りながらも守るべき者達がいる立場として自らを鼓舞する。
「分かりました。では、本題ですが貴女はサードアイを利用し、何をする気ですか?」
その言葉を口に出した瞬間、壱与の纏う雰囲気が一瞬にして切り替わる。
余裕綽々とし何処か、掴み所のない飄々とした雰囲気から今すぐにでも、傅き平伏したくなる様な女王の如き、他者を捻じ伏せる圧倒的な雰囲気へと。
「ッッ」
その圧は一人の男、戦士としてこの場に座っていた茂光であっても心臓を握り潰されたのではないかと、錯覚する冷や汗を流し息苦しくなるもので……常人が発して良い気配ではなかった。
「私の抱く願いはあの頃から何も、何一つとして変わっていないさ。人はいい加減、進化をするべきだ。どれだけ歴史と文明を積み重ねても、恒久的な平和には程遠く、常に己以外の他者を憎み妬み、自らより上でいる事を許せず、またどうして自分はそうではないのかと僻みから、上の者を引き摺り落とさんと争いを起こす……いつまでこの様な事を繰り返すんだ我々、人類は」
その声にははっきりと今を生きる人類への絶望、諦めが表れており能面の様に動かなくなったその表情も、ありとあらゆる感情がぶつかり合ったが故の無であった。
それほどまでに、壱与と名乗る人物は人類という生命体に絶望していた。
「──故に切っ掛けを私が与える。そこで進化を選べぬ人間は、もはや生きる価値などないと私は断じる。この様な行為は本来、神が執り行うべき事柄だが怠惰かつ、無責任な神とやらでは何年、何百年かかるか分かったものではない……だからこそ、私が代行するのだよ。人という種の選別を」
夢を語るのではあれば、そこには自分すら焦がす熱がある筈である。
事実を語るのであれば、そこには淡々とした冷たさがある筈である。
では、確かに熱を感じながらも、冷えている壱与のこの言葉は何と表現するのが正しいのか。
その答えを茂光は導き出しはしたが、彼女の異様な空気と己の内側にある憧れからソレを口にする事は出来なかった──狂気だと、言えなかった。
「……その様な権利が貴女にあるのですか?」
絞り出した質問は掠れていたが、それでも茂光という男の矜持が宿った言葉であったが、彼女に届くことはない。
そんな陳腐でありきたりな問い掛けなど、とうの昔に自らの中で終わらせているのだから。
「あるとも。……だが、チャンスは誰の元にも等しくあるべきだ。こうして、私の前に現れた君の勇気と無謀を称賛し、一つ教えてやろう。私を阻止したければ、先森 綾人と土御門 音夢を殺したまえ」
「ッッ!?世迷言を!?」
「そう断ずるのなら構わんよ。決めるのはお前だ」
そう言い残し、立ち上がる彼女を茂光は追いかける事ができず、ただ無言ですっかり冷え切った珈琲へと視線を落とすのだった──黒いその液体には何も映し出される事は無いというのに。




