例え暗い闇であったとしても
何もかもが黒に染まり、溢れる涙は止まる事を知らず、それでも目に映るもの全てが殺したくて、憎くて身体を動かして、全てを壊していないと胸でも、首でも自分すら掻きむしって殺したくなるほどの、黒い感情に支配されていた俺の耳に、その音は優しく語りかけてきた。
『もう泣かなくて良いよ、辛かったね、苦しいね、全部全部、私が受け止めて慰めてあげるから』
ただの音の筈なのに、抱きしめられてる様な熱と安心感を覚え、黒い感情がきっと良くない悪いものが、全て洗い流されていき、それでもなお残る苛立ちや怒りが、その音によって包まれて気が付けば消えていた。
顔を覆っていた黒い霧が、溶けてゆっくりと消えていくと瞬きすらしてきなかった瞳に、月の淡い光が飛び込んできて──その光を纏う様に、夜に馴染む黒髪と初めて見た時より僅かに、赤くなっている頬と潤んだ瞳が、微笑みを携えて彼女が俺を見つめていた。
「──音夢?」
「──うん。そうだよ、綾人」
掠れた声で、力なく彼女の名を呼ぶと聞くだけで安心出来る声で彼女は自分が、土御門 音夢だと肯定した。
どうして此処に?と聞きたかったが、今なお血が流れ力を過剰使用した結果なのか、もはや立って何かを考えるだけでも、辛い疲労感と睡魔が襲ってきており、眠らずに済んでいるのは驚きとボタボタと血を流す痛みのお陰だった。
「色々話したい事はあるけど、とりあえず傷の手当てをしよっか。おいで、綾人?」
歩くのすらままならないであろう俺の状態を察してくれたのか、まるで姫をエスコートする騎士みたいに俺に向かって、右手を差し出す音夢。
その手を取るのがなんだか、恥ずかしいと感じた俺は強がって足を一歩動かそうとして──ただ、それだけでグラっとバランスを崩し、手を取るどころか音夢の胸元へ顔を埋める様な結果になってしまった……ダサすぎるだろ俺。
「わっ……ふふっ、そんなに疲れたのなら、見栄を張らずに素直に甘えれば良いのに。でも、そういうところもかっこいいよ綾人」
格好良くはないだろ……って、そうじゃねぇ……と、取り敢えずこの日野森よりは小さいが、柔らかくて心地よい胸から離れねぇと色々と危ない!?
「思ったより外傷は酷くないね……でも、凄く痛そう」
離れようとした俺の後頭部を、優しい手つきで撫でる事で逃げるのを阻止した音夢は、そのまま空いている手で軽くEPSスーツを捲り、肩の傷を確認し懐から取り出したハンカチで、血に汚れるのを厭わず傷口押し付けた。
「ッッ」
「痛いよね。辛かったら、私を抱きしめても良いから今は、少しでも血を止めないと」
どこまでも優しい声と手つきで、器用に俺の肩の傷口を押さえたまま俺を公園にあったベンチまで運ぶ音夢。
……本当にどうして、こんなに俺の事を好いてくれているんだろう?他人の血なんて、汚いし触れたくない筈だ、しかも今の俺はそれに加え、戦闘で汗もかいているし臭いだってするだろうに……
「横にするよ。少し痛いかもだけど、ごめんね」
音夢によって一度、ベンチに座らされた俺はそのまま、頭をゆっくりに横に向けられて……彼女の膝の上に乗せられた。
「……なぁ、音夢」
「なぁに?」
何処から取り出しのか全く分からないが、いつのまにか包帯やら何やらを手に持って、俺の傷を手当てしてくれている音夢を見つつ、ずっと気になっていた事を質問する。
「……俺と、一度でも……会ったことあるか?」
ピタリと音夢の動きが止まった。
耳には、緊張から高鳴る自分の心臓の音と、夜の少しひんやりとした風が草木を揺らす音しか聞こえない……やっぱり、これは聞いちゃいけない事だっただろうか?
沈黙の時間が続く中、思えば他にも聞くべきこと……例えば、見張りがいる筈なのに音夢がこの場所に来れている事、どうして出血している理由を聞かないのか──君が茂光さんの言っていた異なる組織の人なのかとか。
「……あるよ。でも、それしか教えない。私は、何があっても綾人の理解者だけど、綾人にも私の理解者であって欲しいから。きっと、全部を思い出して私を選んでくれるって信じているから」
──ポタリと、一雫だけ涙が顔に落ちた。
誰のものかなんて、考えるまでもない、此処には俺と音夢しか居ないんだから。
「ご、ごめんね?顔、濡らしちゃ──」
無事な左手を震えながらあげて、今にも溢れ落ちそうな彼女の涙を拭う。
驚いた様な表情を浮かべる音夢を見ながら、少しだけ笑ってまた溢れそうな涙を拭ってあげて、力なく俺の左手は元の位置へと戻ってしまった。
ボロボロな今の俺じゃあ、全部の涙を拭ってあげる事は出来ないらしい。
「……俺は……君を知らないから……断言は出来ない……でも、努力はする」
あ、もう体力が限界みたいだ……痛みすらなんだか、鈍くなって……目を開けてるのが辛いや──音夢、君が誰でどんな目的があるか知らないけど、思い出したその時はゆっくり話がしたいな。
「……今、眠ったばかりなんだ。手荒な事はしないで欲しい」
「それは貴女の態度次第ね。土御門、彼を返して」
ぼうぼうと、目障りで鬱陶しい火を滾らせている女には目もくれず、嬉しい事を言ってくれた綾人の頭を撫で続ける。
やっぱり、記憶が無かったのは本当に本当に、泣きたいううん泣き喚きたいくらい残念だったけどそんな私を気遣って、優しい手つきで涙を拭ってくれた綾人はあの頃から何も変わっていなくて、安心したしそんな彼だから私を疑っていると口には出さずに、好意的な返事をしてくれた──待つのは今更だし、将来一緒になる時には触れたくても、待ってなくちゃいけない事も増えるだろうから、待ってあげるのもカイショウ?の一つだよね。
「……土御門」
「うるさいなぁ……はぁ、分かったよ。今此処で、争って綾人を起こすのは嫌だし、もうこれ以上ないってくらいボロボロな心を、傷付けたくないし」
太ももに感じていた心地よい温かさと重さを手放して、ゆっくりと冷たいベンチの上に綾人の頭を乗せてあげる。
あーあ、太ももが冷たいなぁ。
「また会おうね綾人」
丁寧に染めてないからだろうけど、少しだけ痛んでいる彼の金髪を撫でてから、ぼうぼうと鬱陶しい火を出している女を無視して歩き出すと、案の定、綾人が起きてしまう様な声量で呼び止めてきた。
「待ちなさい土御門!」
「……寝たばっかりって言ったよね?なんなの?綾人を苦しめたいの?そういう事なら、今すぐ此処で肉片の一つすら残さず殺してあげるけど」
「ッッ!な、なにこの殺気……」
牽制程度の殺気で怯むなら、最初から声を掛けてこないで。
まぁ、いいや……あんなんでも綾人が笑って接している人だし、死んだら悲しむだろうから今は見逃してあげる。
「追ってきたら殺すからね……まぁ、追えるのならだけど。私の身を隠して」
黒い霧が私を包み込み、そのまま私は歩いてその場を離れた。
連れてこいって任務だったけど、あんなボロボロじゃ連れてく間に死んじゃうし、恨むなら病院も何もない場所に住んでる事を恨んで欲しい。
「……ふふっ、綾人の寝顔、可愛かったなぁ」
それはただの憎悪であった。
それは純然たる殺意であった。
それは己すら殺す怨嗟であった。
けれど、自分ではない誰かの為に発せられる優しい負の感情であった。
だからこそ、その化け物は初めて外界への興味を抱いたいや、抱いたからこそ産まれたのかもしれない。
一切、光などなく自らの周りには生物である事すら定まらない自分と同じ化け物が、蠢いているがそんなものは、この化け物にとってどうでも良かった。
『──感じた。感じたぞ、人にのみ許された感情を』
それは好奇心に満ちた声であった。
それは人間賛歌を願う声であった。
それは絶望の底でも足掻く者こそを寿ぐ──化け物
『──必ず、見つけ出す。あぁ、そしてどうかその輝きを以て己を殺してくれ』
深淵を覗く者は、深淵からも見られている。




