蠍対剣士
暗闇の向こうから溢れる月光を浴び、鈍い銀色を放つ伊藤の持つ刀が一呼吸の間に振るわれると、蠍型アビス・ウォーカーの二刀が弾かれ、火花を散らしていくが人ではない化け物であるが故に、本来であれば弾かれる事で外側へと、向かう刀を力で無理やり引き戻し前体を斬ろうとした伊藤の刀を弾き、口から黄色いガスを噴き出す。
「ふむ。少し面倒だな」
一度の跳躍で、五メートル後方へ下がりガスを避ける伊藤であったが、そのガスが地面に残留しているのを睨みつける──一瞬だが、感じたニンニクにも似た臭気……マスタードガスか?
マスタードガスとは、第一次世界大戦にて使用され、最も多くの命を奪ったとされる毒ガスであり、化学兵器の王様と呼ばれる事からその危険性が極めて高い事が分かる。
「御大層な刀を持っているから、少しは斬り合いの出来る相手だと期待したが……」
『キシュルルル』
「……間合いの理念はある様だな」
カチャリカチャリと、蠍型アビス・ウォーカーの関節が音を立てながらゆっくりと、伊藤との距離を詰めていく。
吐き出せるガスの射程距離の問題もあるかもしれないが、二刀の刀を携えているその姿は間違いなく剣士のそれであり、自身の間合いと伊藤の間合いを測っている様にも見える。
──両者の切先がピクリと震える。
『キシャァァァァ!!』
「はぁぁぁ!」
その瞬間、両者は気合を入れる様な叫びを上げ、刀が振るわれる。
体格差から、伊藤の両肩を切断するために上段から振るわれる蠍型アビス・ウォーカーの二刀は、伊藤が半歩前に出る事で避けられ、アスファルトの地面に鋭い二筋の亀裂を残し──既にその場に、伊藤の姿はない。
であるなら何処かと、蠍型アビス・ウォーカーは視線を彷徨わせ、刹那降り注ぐ殺気と、剣気に反応し反射的に、刀を自身の頭上へと掲げ──尻尾が斬り落とされた。
『キシャァァァァ!?』
何が起きたか分からないと困惑しながらも、蠍型アビス・ウォーカーはその場で身体を回転させ、背後に居るであろう伊藤を、斬り殺そうとするがその時には既に伊藤は、自らが攻撃できる間合いの外側へと移動していた。
「姿見えずとも、殺気に反応するのは良し。だが、それがフェイントかどうかを理解する頭はない様だな」
バチバチと脚に雷を纏いながら、伊藤は一切の油断なく、刀を構える。
彼からすれば何一つとして、難しい事はしていない。
初撃を半歩前に出る事で、避け地面が破壊された事で巻き上がるアスファルトの破片や、僅かな土煙で一瞬、蠍型アビス・ウォーカーが伊藤を見失っている間に、雷を自身の脚に纏い跳躍し上を取り殺気と剣気を飛ばし、反応したのを見てそのまま、目の前にある大きな尻尾を切断、空中にあるその尻尾を足場に跳躍し、離れたという訳だ。
「お前にガスを吐かれると面倒なのでな。手早く……む?」
事を終わらようとした伊藤の目に飛び込んできたのは、蠍型アビス・ウォーカーが動きを止めて、真っ直ぐ伊藤を見ている姿だった。
そこに何やら得体の知れない薄気味悪さを感じ、一撃で終わらせようとした刹那、その異変は起きた。
『キシャァァァァァァ!!!!!』
「むぅ……喧しいぃ」
建物の窓を音だけで、割るという耳を両手で塞がねば、鼓膜が破れてしまいそうな大絶叫をアビス・ウォーカーが上げると、切断された尻尾の断面の肉が盛り上がると、その肉を破きながら三本目の刀が姿を現し、耳を押さえている伊藤を突き刺そうと迫る。
「しっ!」
手に持つ刀で、刺し貫こうとする刀を弾き挟み込む様に迫る二刀も、跳躍する事で避ける伊藤。
「この短期間で学習でもしたか?」
図体が大きいためか、備わっている刀も比例して大きい蠍型アビス・ウォーカーの攻撃は、威圧感こそあったが戦い慣れている伊藤からすれば、幾らでも潜り込める隙間のある攻撃であった。
本来であれば、それをカバーする毒ガスも着弾までが遅く、伊藤の速度に追いつけてはおらず、それは尻尾も同様であり、二本の刀より短い尻尾では、刀を避けた伊藤を貫こうにも速度も間合いも足りていなかった──だからこそ、切断されたのを利用し、このアビス・ウォーカーは、長さが足りる刀を生やした。
敵を確実に葬る為に。
「はっ、面白い」
獣の様に食い殺そうと迫ってくるだけではなく、まるで人の様に己の不足を補う蠍型アビス・ウォーカーの姿に、伊藤は犬歯を剥き出しにした凶暴な笑みを持って応える。
「……ふっ」
小さく息を溢すと共に、一瞬で最高速度に至った伊藤を迎え撃つ様に、二刀が進路を遮る様に振るわれ、当然の顔で避けて、進路を変える為に動きを止めた刹那を狙い、三本目の刀が迫り、真下から刀が納刀され、ただの硬い杖となったもので、弾き上げられ、生じた隙間を駆け抜けようとする伊藤の頭上に、黄色いガスが降り注ぐ。
「──韋駄天よ、駆けよ」
先程とは違い、足だけではなく全身に雷が纏われると人の目には決して、捉えきれない速度で伊藤の姿が、ぶれる様に消え、蠍型アビス・ウォーカーの背後を取ったかと思うと、毒ガスを噴出していた前体にある人の口から、黒い霧がまるで血の様にいや、アビス・ウォーカーにとっては正しく血に等しいものが勢いよく噴き出す。
『キシュルルァァァァ!!』
自身の一部が斬り裂かれたという痛みにも、負けず尻尾の刀を振るう蠍型アビス・ウォーカーであったが、突きではなく腕にある二刀と同様に、薙ぎ払う様に振るってしまったそれは、伊藤を斬り裂く事はなくただ空を斬るのみであった。
「そら、どうした?儂はまだ生きておるぞ?」
笑みを浮かべたまま、蠍型アビス・ウォーカーの右側に立つ伊藤へと、刀が振るわれる。
──月明かりが、輝いたかと思えば既に、蠍型アビス・ウォーカーの片方の鋏角である刀は、半ばから綺麗に切断されて、クルクルと宙を舞いながら地面に突き刺さると、黒い霧となって消えていった。
『キシャァァァァ!?!?』
自身の刀が折られる瞬間が何一つとして、見えなかった蠍型アビス・ウォーカーは獣としての直感が告げるままに、少しでも伊藤から距離を取らんと、忙しない動きで後方へと飛び退く。
人間の数倍はある図体を持った化け物が、枯れ木の様な風貌の伊藤に、怯え屈した瞬間であった。
「……なんだ、つまらんな」
犬歯が剥き出しになるほどの笑みを浮かべていた者とは、思えない失望に満ちた無表情へと切り替わる伊藤は、バチバチと雷をその身に宿したまま、片手で刀を握り爺とは思えないしっかりとした足取りで、蠍型アビス・ウォーカーの方へと歩いていく。
一歩、また一歩と伊藤が迫れば、対照的に蠍型アビス・ウォーカーはまた一歩と、後退していく。
「同じ人であれば、その様な醜態もまた若さかと、見逃してやるところだが」
熱の無い声で、淡々とまるで処刑を執り行うかの様に伊藤は目の前の哀れな生物へと語りかけながら、蠍型アビス・ウォーカーの尻尾が、ビルに触れると同時に刀を杖へと納刀し、抜刀の構えを取る。
「冥土の土産だ、覚えておくが良い刀を持つ化け物よ」
その姿に明確な死のイメージを抱いた蠍型アビス・ウォーカーは、最後の抵抗と言わんばかりに、残った刀を振り上げて、奇声を上げながら伊藤へと迫る。
『キシャァァァァ!!!!!』
「──雷神の一太刀」
抜刀すると同時に、蠍型アビス・ウォーカーが伊藤の上を通過していく──残された刀は、もう既に無い。
自身に起きた事を何一つ理解出来ていない蠍型アビス・ウォーカーに向けて、伊藤が最後の言葉を送る。
「剣士の斬り合いにおいて、臆すれば死あるのみよ──自害せい、化け物」
そう伊藤が言い切ると共に、切断された宙を舞った二刀が、円を描きながら蠍型アビス・ウォーカーへと落ちていき、その胴体を刺し貫くと同時に、蠍型アビス・ウォーカーの身体がズレていき、最後にはただの黒い霧となって消えていった。
「……ゴホッ。少し、はしゃぎ過ぎたな……全く、歳には敵わんな」
澱んだ空気が元に戻り、此処が戦場ではなくなった事を告げると、伊藤は杖を突き少しだけ咳き込むと、その場で迎えが来るまで月まで眺めようと空を見上げるのだった。




