修行!
月曜から金曜日まで、学園に登校しながらアビス・ウォーカーを倒し続けやってきた土曜日、俺は伊藤の爺さんから受け取ったメモを片手に、家に来たのだが……なんつうか、デカいな。
古き良き日本家屋って言えば良いのか?一階建てなのだが、横にも縦にも広くぱっと見でしかないけど、一クラス分くらいの人間が居ても、窮屈に感じられないんじゃないか?って感じの敷地だ。
「白い壁と、黒い瓦ってやっぱり合うんだな……」
漆って言うんだっけ?まぁ、良いか。
ずっと立ち止まっている訳にもいかないので、門をくぐりインターホンを押し、少し気の抜ける音がしたと思ったら家の中から声がかかる。
「少年か。開いているから入ってくれ」
俺、一切声とか出してないんだが……もしかして、気配とかそういうので察した?
お邪魔しますと声をかけて、少しだけ立て付けの悪くなった引き戸をガタガタと引いて、家に入るとまず畳の良い匂いが鼻をくすぐった、やはり外見に恥じない日本家屋の様だ。
古き良き土の床に靴を並べて足を進めると、すぐに居間が広がっており、中を除けば座布団の上に綺麗な正座で座っている伊藤の爺さんが居た。
「うむ来たか。あれから特に異常はないか?」
「ウッス、ADの人達が、物陰とかで隠れて警護してくれたらしいので、取り敢えずの所は平和っす」
「そうか。っと、荷物を持ったままと言うのは邪魔だな、着いて来い。部屋に案内しよう」
スッと立ち上がった伊藤の爺さんのを後を追いかける。
仕込み刀になっている杖は、肌身離さず持っている様でコツコツと、突いているけどあの一撃を放てる爺さんに、杖が必要とは思えないんだけど何か理由があるんだろうか?
檜と思われる木で出来た廊下を進み、庭を眺める事が出来る縁側に並ぶ、部屋の前で爺さんが止まり襖を開いた。
「掃除はしてあるが、何か気に食わん事があればなんでも言ってくれ」
長らくの間、使われていなかったのだろ畳の匂いに混ざって、少しだけ埃の匂いがしたが素人目の俺には、全然高級感のある旅館、その一部屋に見える綺麗な部屋だった。
少しだけワクワクしながら部屋に入り持ってきた荷物を置き、ぐるっと部屋を見てみるが、最初に抱いた印象は変わらずこんな良い所を一人で、使って良いのかと思った。
「和室って初めて、なんすけど良いっすねこれ!」
「ははっ、喜んで貰えた様で何よりだ。ところで、少年。身体は疲れているかね?」
「んー……まだ動けるっす。電車移動でしたし」
「そうかそうか」
二回ほど小さく頷く、爺さんになんだか嫌な予感が背筋を伝う。
「では、そこの道場に着替えてから来るが良い。早速、お前を鍛えようか」
ニカっと笑みを浮かべる爺さんに、やっぱり疲れてますなどと言えるわけがなく、俺は無言で頷くと持って来ていたジャージに着替えて、示された道場へと向かった。
伊藤が戦争終結後も己が鍛錬を積む場所として用意した道場は、畳に傷があったり置いてある道具達も、使い込まれた形式が見て取れるほどであり、先森はその空間に足を踏み入れた瞬間、明らかに此処が他の場所とは違うのだと本能で察した。
「……思ったより早かったな。そんなに儂を待たせるのが怖かったか?」
道場の上座にて、入ってきた先森をまるで、RPGのラスボスの如く待ち構えている伊藤。
彼から発せられる雰囲気と、この場所が否応なしにこれから何をするのか、理解出来ないほど先森も馬鹿ではなく、無意識に唾を飲み込んでいた。
「そう緊張するな。先ずは、お前の得意分野に合わせようか。儂の準備は、出来ておる」
どこまでも自然体な伊藤は、片手で先森を挑発する。
自分の得意分野と言われ漸く、先森は伊藤が無手であることに気が付き、彼が示す内容を理解した──拳で来いという事を。
「……ふぅ、おぉぉぉ!!」
老人だからという手心などは一切なく、先森は三メートル程離れた位置で、立ち構えている伊藤へと力を振り絞り、全力で駆け出しながら、拳を振りおろす。
「は?」
伊藤 源三郎を始めて見た時、先森はまるで枯れ木の様だと感じた。
それは何一つとして、間違ってはいなかったのだが、一つ訂正するのであればその枯れ木は決して、腐り落ち中身が伽藍堂になった訳ではなく、より強く芽吹く次代を待つ為に地に深く、深く、根を下ろした大樹であった。
「軽い軽い。もっと、腰を落とさねばこの老木すら、折れんぞ?」
ただ一歩も動く事なく、真正面から片手で先森の拳を受け止めてみせる伊藤に驚きを隠せない先森はその表情のまま自分の力が、下へと往なされるのを理解しながらも抗える事なく、膝を着いた。
「ぐっ……お、重てぇ……何処にこんな力が!?」
「単なる力で儂はお前に勝てんよ。これは、技術だ」
先森が立ちあがろうと力を込めた瞬間、ふっと今まで存在していた壁が消え本人が思っていたより、勢いよく身体が上へと導かれ──伊藤の真正面で隙を晒してしまう。
「単なる力ではないが故に、この様な応用も出来る」
「ッッ!?」
ガラ空きになった腹部へと、伊藤の拳が突き刺さる……事はなく、寸止めでその枯れ木の如く、細い腕は止まっていた。
「まだ、殴らんよ。あまりに早く、気絶させてしまうのも勿体無いからな。さて、お前は講義をするより身体で叩き込んだ方が早いタイプだったな。ほれ、呆けておらんで来い」
アホ面を晒している先森の頭をデコピンし、伊藤は再び自然体になる。
改めて、規格外すぎる伊藤の実力を目にして先森は、己の未熟さに嘆くでも、絶望する事なく笑みを浮かべて拳を構え直した。
もとより、考えるより身体を動かす方が好きな彼は、退屈な座学なんかよりも楽しくて楽しくて、仕方なかった様だ。
「拳が駄目なら……こっちはどうだ!」
拳が通用しないのならと、パンチと比べて三倍の威力はあるとされる蹴りが、伊藤の脇腹目掛けて鋭く向かっていくが、これも伊藤の片手で難なく受け止められ、引っ張られる事で体勢を崩してしまい畳に顔から倒れ込む。
「ッッ……まだまだぁ!」
鼻を摩りながらも、勢いよく立ち上がりがむしゃらに伊藤へと駆け出していく先森。
諦めずに立ち向かってくる彼の、根性に笑みを浮かべながら伊藤は、再び腰の入っていない拳を受け止めて、今度は背負い投げの要領で、彼を地面に叩きつける。
「腰を落とせ、腰を。上半身だけで殴ろうとするな」
「ウッス!」
転がる様に立ち上がり、一度呼吸を整えると先森は、駆け出して先程言われた事が届いていないのか、右腕を大振りにして、伊藤へと殴りかかる。
またかと思いながら、受け止めようとした伊藤の目に、腰あたりに溜められた左腕が映り込む。
「ほぅ」
先森の狙いが、大振りによるフェイントだと見抜いた伊藤は、敢えて大振りの攻撃に自ら当たりに行くように身体を動かす。
「バレた!?」
「はっはっ、考えた様だがまだまだ甘い」
大振りになり、そもそも当てる気のなかった拳を潜る事など容易く、簡単に先森の背を取りそのガラ空きの背中を小突く伊藤。
背後の伊藤を狙い、放つ背後回し蹴りは咄嗟の割には威力、速度十分であったが彼に当てるには、全くもって足りず先森の足先は、彼の顔をスレスレに通過していき、先森が振り返り体勢を立て直すより早く内側に入り込んだ伊藤の、掌が腹部に放たれると、先森の身体がくの字に曲がり畳へと叩きつけられた。
「カハッ!?」
「むっ、すまんすまん。思ったより、良い反応を見せるからちょいと、手が出てしまった」
意識こそ手放さなかったが、叩きつけられた痛みは大きい様で、呻き声を上げながら畳の上を左右に転がる先森を、伊藤は申し訳なさそうに見ながら、痛みが引くまで自由にさせる。
「……ぅごぉ……手を出さないって言ったのに……」
「ハッハッハ!少年、やはり戦いのセンスがある様だな、成長速度が思ったより早いわ」
日野森との共闘とはいえ、力に目覚めたばかりにも関わらず、臆する事なく戦えているだけはあると、伊藤は先森を見ながら思う。
「休憩ついでに聞くが、何故お前は戦う道を選んだ?サードアイは、確かにアビス・ウォーカーに狙われ易い。だが、進んで戦場に行くのと巻き込まれるのでは、話が違ってくる」
戦う者としての素質を持っている先森に、戦場で生きる者として伊藤は、彼が戦う理由を知りたくなった。
かつての己は、何も考えずにその手に武器を取り今は、護国の為に刀を取る身ではあるが、命を賭けて戦場に立つという事は誰もが出来ることではなく、もしも目の前の少年が己と同じく何も考えていないのであれば、いずれ問題を起こす可能性がある──だが、そんな心配は杞憂であった。
「……周りの人間が、俺の為に傷つくのはもう、嫌ですから」
目を閉じて答える先森の脳裏には、覚悟が決まらずいつもの様に現実から逃げようとしていた愚かな自分を助ける為に、アビス・ウォーカーによって傷ついて、倒れていた日野森の姿が浮かんでいた。
何も見えず、何も感じる事が出来なかったアビス・ウォーカーの体内で唯一、感じる事が出来た日野森の火、あの暖かい熱を自分なんかの為に、失わせてはいけないと。
「ふむ……少年、それは恋か?」
戦闘記録には、目を通している為になんとなく、予想できた伊藤はニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「はい!?違いますよ!!ただの、恩!!恩返し的なやつっすよ!!」
「ハハッ!そうかそうか……良い理由だな」
他人に助けられたからと、自分が傷付く事を許容してまで恩を返そうと思える人間が、この世界にどれほどいるだろうか。
そんな優しい理由で、戦場に立てる先森を伊藤は好ましく、思いながら益々死なせる訳にはいかないなと心に誓う。
「さて、休憩は終わりだ。続けるぞ、先森少年」
「ウッス!」
日が暮れるまでの間、彼らの稽古は続き結局のところ先森が伊藤に一撃を与える事は、叶わなかったがそれでもこの人に鍛えて貰えば、自分は強くなれるという確信を抱くには十分だった。
──鼻に付くのは、アルコールなどの薬品の匂いであり、この場に薬品棚などがあっても気にする人間は、一人もいないであろう場所なのだが、そこは質素とかそういう言葉の次元ではなく、ベッドの一つしか置かれていない伽藍堂の空間で、ただ一人の少女がボロボロになった亀のぬいぐるみを、愛おしそうに抱きしめていた。
「ふふっ……」
笑みと共に溢れた声には、思わず蕩けそうになるほどの熱が込められており、長く伸びた髪で片目が隠れてはいるが、真っ白なその肌に合う濡れた様な黒髪は、一目で美人だと分かる整った顔立ちを隠すという欠点すらも、その近寄り難い妖艶な魅力を後押ししていた。
けれど、彼女が己の側に近寄る事を許す男は、この世でただ一人だけ。
「綾人……綾人……もう少しで、貴方に逢える。ふふっ、あはは」
──その身に迫る、仄暗い影と過酷な運命を未だ、知る事はない。