第二節 記憶喪失の竜
「改めまして、わたくし、パルイーフと申しますの。よろしくお願い致しますわ」
見覚えのない部屋の、見覚えのない寝台の上。
儂と向かい合うようにちょこんと座った見覚えのない女は、パルイーフと名乗り頭を下げる。
豪奢なつくりのドレスのような衣装を身に纏うその姿は、言葉遣いも相まってどこかの令嬢のようにも見える。
「主様の命を受けて、あなた様をお迎えに上がりましたの。無事にお目覚めいただき何よりですわ」
嬉しそうにそう言われたが、こちらの気分は最悪だ。
何もかも思い出せないこの状況の何処が無事なのだろうか。
「儂はお主のことは知らんが、その様子だとお主は儂のことを知っているようじゃな?」
「ええ、主様から伝え聞いておりますわ。あなた様のお名前は『サチュ』。サチュ様、とお呼びするようにと」
「サチュ。サチュねぇ……」
それが儂の名前だと言われても、なんというかしっくりこない。聞き覚えがあるような気がすれば、無いような気もする。つまりはよく覚えていないというわけだ。
その名を聞いて他に閃くようなこともない。どうにも釈然としない気分だ。
とにかくもっと情報を集めてみるべきだろうか。
「で、儂は一体何者なのじゃ?」
「サチュ様は氷の力を司る竜……氷竜族を統べる王。氷竜王様でいらっしゃいますわ」
「あー?」
予想だにしない回答に、思わず素っ頓狂な声が口から洩れた。
竜といえばあれだ、固い鱗に覆われて鋭い爪を持ち、翼を広げて空を飛ぶという、巨大なトカゲのような生き物。記憶は無いがそれくらいのことは知っている。
「莫迦を言え。儂のどこが竜だと言うのじゃ? こうしてヒトの手足があるではないか」
そう言いながら自分の短い手足を見る。
つるつるとした肌には竜のような鱗は一切存在しない。首を反って背中を見ても翼なんぞ生えてはいない。どこからどう見ても、ただのヒトの子どもだ。
……うん?
「何で儂、子どもなのじゃ?」
「おかしなことはありませんわ。竜は普段、ヒトの姿をしているものですから」
「いや、それよりも子どもになっていることの方が……」
話の途中、部屋の中に姿見が置いてあるのを見つけ、そちらに向かって駆け寄った。
改めて意識してみると自分の目線がやけに低い。何だか部屋の大きさに違和感があると思ったら、儂が子どもになっていたのだ。
姿見は長年手入れされていなかったようで、薄汚れていたものの、鏡としての機能は失われていなかった。姿見の正面に立ち、目立つ汚れを払って鏡面に映った自分を見つめる。
そこにはまん丸とした頬の、童女の顔が映っていた。驚くような、呆れるような表情をしているのは、儂の心情を表しているのだろうか。
「これが……儂じゃと……?」
「違うんですの?」
眺めながら呆けていると、姿見にはパルイーフの顔も映っていた。
こうして横に並ぶと頭一つ分ほど背の高さに差がある。
「違う……ような気がする。儂はこんなちんちくりんだったはずは……」
記憶が曖昧なせいではっきり違うとも言い切れない。
いや、しかし。儂は今こうして思考をしている。そのような高度な芸当、これくらいの見た目の童女には出来ないはずだ。すなわち儂の外見と中身の年齢が釣り合っていない証拠になるのだ。
「だが、もしかしたら儂は、天才児だったという可能性もあるのか……? 身体は子どもで頭は大人というような……」
「まぁまぁ、良いではありませんか。こーんなに可愛いのですから!」
「ぬおっ!?」
どうにかして何か思い出す糸口はないかと思考を巡らせていると、不意に後ろからパルイーフに抱き着かれる。
「わたくし、可愛いものには目が無くって……。まさかサチュ様がこんなに愛らしいお方だったなんて! お会いできて感激ですわぁ!」
「こ、こらっ! やめんかこのっ!」
「無理ですわーっ! ずーっと我慢していたんですもの!」
儂を抱き抱えながら猛烈に頬ずりを繰り返すパルイーフ。
それどころか、まるで犬のように儂の頬をぺろぺろと舐め始めた。引き剥がそうと叩いたり引っ張ったりを繰り返すが、微動だにしない。こやつ、どんな力をしておるのじゃ……!
結局、パルイーフが満足して離すまで熱烈な抱擁は続いた。
☆
「まったく、寝起きにとんだ目に遭ったわい……」
「ごめんなさいね。わたくし、可愛いものを見てしまうとつい」
「『つい』でべろべろと舐め回される身にもならんか」
そう言いながら受け取った布巾を使って顔を拭う。うぅ、涎がべたべたして気持ちが悪い……。
「それで、お主の目的は何なのじゃ?」
変態頬舐め女を床に正座させ、寝台に腰かけて話を戻す。反省させるつもりでやったことだが、こうして見下すように顔を見ても、全く悪びれる様子が見受けられない。
「わたくしは主様に頼まれまして、サチュ様から借金を取り立てに参ったのですわ」
「借金じゃとぉ?」
またもや身に覚えのない、それも喜ばしくない言葉に眉をひそめる。
「ええ。サチュ様は主様に莫大な借金をしているそうですわよ?」
「そんなことを言われても記憶に無いぞ」
「それは当然ですわ。サチュ様は『記憶喪失になるために』主様に借金をしてまで処置を施してもらったそうですから」
「……はぁ?」
余計に話がおかしくなってきた。
どうやら儂は、自ら望んで記憶喪失になったらしい。自分から全ての記憶を手放して、わけの分からない状態に陥りにいくなど、そんな莫迦な話があるだろうか。
いいや、あるわけがない。
「さっぱり意味が分からん。さっきから言っている、その『主様』とやらは一体何者なのじゃ? 儂に恨みでもあるのか?」
「とんでもございませんわ。主様もサチュ様と同じ竜王のお一人。サチュ様とは良きご友人だったと仰っておりましたわ」
莫大な借金を吹っ掛けて記憶を奪うような奴が友人だったなど信じる気が起きない。
「仮に儂の友人だと言うのなら、会って直接話を聞くとしよう。そやつは今どこにいるのじゃ?」
「それは無理だと仰ってましたわ。借金を全て返すまでは会って話す気は無いそうです」
「なんじゃそれは。本当に実在するのか、そやつは? お主の作り話ではないのか?」
「そんなことありませんわ! 主様はわたくしにしか出来ないことだと、この使命を託して下さったのですもの!」
パルイーフは『主様』から伝え聞いたことを話していると言っているが、どうにも疑わしい。
実は儂から金を騙し取るために嘘を吐いて、このような意味の分からない設定をでっち上げているだけではないのだろうか。もっとも、この女がそこまで頭が回るようには見えないが……。
「ここまでのお主の話をまとめると、儂は封印されていた竜の王で、お主の『主様』とやらに記憶を奪われていて、それを取り戻したければ莫大な借金を返済しなければならない。……と言うことになるが、合っているか?」
「ええ、その通りでございますわ! 信じていただけました?」
なるほど。
よし、分かった。
「全部お主の妄想じゃな。医者に頭を診てもらうと良いぞ」
「んまぁ! 妄想なんかじゃありませんわ! どうして信じて下さらないんですの!?」
「ふざけるな! こんな意味不明なことを言われて、はいそうですかと受け入れられるものか!」
妄想にしても話が滅茶苦茶だ。これはきっと夢に違いない。
また眠って目が覚めたら本当の現実が待っているのだ。本当の現実など知らんが。
「というわけで儂は寝る。お主もさっさと消えるがよい、質の悪い悪夢よ」
そう言って寝台に倒れ込み、手足を大の字に広げる。
悪夢との意味不明なやり取りで疲れていたのか、すぐに眠気がやってくる。
「ふぁーあ。こんなに疲れる夢は初めて見たのう」
「んもぅ、夢なんかじゃないのですけれど……。わたくし、説明が下手なものですから、すぐに納得していただけないのも無理はないかも知れませんわね」
事実だったとして、どう整理して説明しても納得できるわけがないと思うが。
「……ああ、そうですわ! もう一人を別な部屋に待たせていますので、彼に説明してもらうとしましょう!」
「知らん。いいからもう帰れ悪夢め」
「帰りませんわ! さぁさぁ、サチュ様も一緒に参りましょう!」
「誰が行くか……っておい、何で足首を掴むのじゃ?」
「ではでは、レッツゴー! ですわ!」
パルイーフはそうして儂の足首を引っ掴み、部屋を飛び出て駆け出した。
「あががががが!! ばっ、莫迦ものっ、引っ張るなら、せめて手首の方をををををを」
そうして引き摺られながら何度も床に頭をぶつけたせいで、余計に記憶が飛んだ気がした。