自慢の婚約者なのになぜか皆に引かれる…。才色兼備の彼女のどこが問題なのか本気でわからない
お待たせしました4本目です。ちょっと長くなってしまいました。
とうとう舞台となっている国の国号が出てきました。
おれ――アルドルーク・ディン=ファン・オトノータシュは、世界……とまではいかなくとも、すくなくともこの国、ポラニア・ブレイバーズ連合王国では一番の果報者だろう。
家門の古さ以外なにもない貧乏伯爵のせがれでありながら、国内貴族筆頭であるゴルディクス公爵家の令嬢が婚約者なのだから。
わが婚約者――ハリエット嬢は、美しく、賢く、気高く、そしてなによりも強い。王国の守護神である陸軍卿ゴルディクス公オーギュストをして「我が人生にひとつだけ瑕疵があるならば、ハリエットが男に生まれなかったこと」といわしめるほどだ。
生ける軍神であり、個人としても悽愴なまでの戦歴をほこる陸軍卿は、手ずから子息たちへ武芸を叩き込んだ。唯一の娘であるハリエット嬢は訓練を課されたわけではなく、自主的に遊び混じりで参加したそうだが、それでも兄上たちにほとんど劣らない腕前だという。
もし彼女が男であったら、確実にゴルディクス陸軍卿の一番弟子だったと、三人の兄は口をそろえる。とてもそうは見えない、背こそ女性にしては高いものの、華奢なひとなのだが。
公爵家の長兄であるジェイムズ卿、次兄のポール卿とは、おれもなんどか立ち合う機会があった。十八本仕合って、取れたのは一本だけだ。ハリエット嬢とも時間ができ次第手合わせ願いたいと思っているが、おそらく十本中一本取れればいいほうだろう。
婚約者だが、おれとハリエット嬢が正式に顔を合わせたのは、長いこと婚約発表パーティの一度だけだった。彼女がおれの妹のヴィクトリアと一緒に、士官学校の教練を見にきたことなんかはあるが。
だが、彼女とは以前からの馴染みの関係であるような気がしてきている。婚約パーティ以降、ずっと手紙のやりとりを続けていた。直接顔を合わせて話すより、互いの理解が深まったのではないだろうか。
先日おれは士官学校を卒業し、幼年学校から数えて十二年間におよんだ寮生活を終えた。その日の午後に公爵邸へ招かれ、ハリエット嬢とともに、将来の義父であるゴルディクス公爵オーギュスト閣下にあらためてあいさつをした。
陸軍卿としての閣下とは、これまでいくどかお目にかかっている。個人として実績がないばかりか、一族が軍務に就いたこともない、無名同様のオトノータシュ伯家の小僧に、どうして愛娘を預けようと思い立たたれたのかはわからない。そのうちうかがいたいと思うが、その日は訊ねられずじまいだった。
それから三日、今日は、ハリエット嬢と観劇をし、食事をともにする約束になっている。ふたりで出かけるのは初めてだ。楽しみだが、同時に己が少しおぼつかない。
これまでは男ばかりの中で生活していて、女性をエスコートした経験なんてないもので。妹のヴィクトリアが、立ち位置や想定問答に関して講釈を垂れてきたが、子供だからあてにはならないし。
ヴィクトリアはここ数ヶ月、許された限りの時間のすべてをハリエット嬢に張りついて行動していたので、彼女が現在興味を持っていることを教えてもらえたのはありがたいが。
ちなみにこのヴィクトリア、ハリエット嬢があまりに凛々しいので一時は惚れたと勘違いしてしまい、おれに向けて「ハリエットさまとのご婚約、破棄してください!」などと、とんでもないことをいってきた。さいわい、己に女性愛傾向があるわけではない、と気づかせることができ、ハリエット嬢とおれの仲を裂いて彼女を自分のものにしようという計画はお流れにすることができたが。
ヴィクトリアのおもちゃになってくれた親友のジャスティンには感謝しかない。かならず埋め合わせはするからな、ジェイ。
ハリエット嬢は今日の観劇と食事もヴィクトリアが一緒でかまわないといってくれていたが、ジェイを「騎士」に迎えたヴィクトリアは完全にお姫さま気分だ。いつものように、朝食後しばらくしたら屋敷の中から姿を消していた。
貧乏貴族とはいえいちおう伯爵令嬢なのだから、ひとりで出歩くのはどうかと思うのだが、ジェイが表での面倒を見てくれるようになったので、心配で気を揉む必要はなくなった。
おれも慣れない勝手ながら、出かける準備に取りかかる。
制服以外の外出着に袖をとおすのは本当に久しぶりだ。仕立て屋から上がってきたばかりの新品で、なんだか、着ているというより着られているような気になってきた。
「大変よい男振りにございますよ、坊ちゃま」
執事のマクニールはそういってくれるが、はたしてどうだろうか。制服や軍服というのは偉大な発明だ。ちゃんと着てさえいれば、だれでもそれなりに見える。
モーニングを身につけるのは初めてだが、さて、これで本当にいいのだろうか? ヴィクトリアが出かけてしまう前に意見を聞けばよかったな。
ドレッサールームから出たところに待機していた家政婦長のリザが、手を叩いて口を開いた。
「あらまあ! これなら某国の王子さまがお忍び中だといってもとおりますよ、坊ちゃま」
「ありがとう。……そこまでかな?」
正直自分では変わった気がしないので首をかしげると、メイドのミラとシュシェが熱心にうなずいた。
「本当に、素敵です」
「軍服をお召しのときはひたすらカッコよかったですけど、いまはやさしそうな感じも出てます。最高」
「褒められたと思っておく。おまえたちの審美眼が正しいことを祈るよ」
外出することを報告するために、両親のもとへ。
最近父は顔色がすぐれない。陸軍卿とハリエット嬢は、挙式を予定日より早めようと考えてくれている。ありがたい心遣いだが、ただでさえ家格が違うのに、慣例を破って周知期間を短縮してよいものやら、少し心配だ。まあ、陸軍卿からハリエット嬢との婚約について切り出されたとき、迷わず即答したおれ自身が一番向こう見ずだと、ジェイあたりにはいわれているのだが。
両親の前で乞われるままに、おめかしをした子供よろしく、くるりと一回転すると、父は目頭を押さえた。
「アルドルーク……大きく、立派になったな。もう思い残すことはない」
「弱気なことをいわないでください、父上。おれはこの先、当分軍務に就かなければならないのですから、家を守ってもらわねば困ります」
「おまえたちが健康に生まれ育ってくれて、本当によかった……」
「……あなた」
感涙のせいなのか、本当に息が詰まったのか、どちらともつかない父の背を、母がさする。母は無爵の郷士の娘で、若いころは丈夫さだけが取り柄だといわれていたのだという。父の身体が弱くなければ、子供を十人は生んでいただろうとも。……貧乏伯爵家に十人は、ちょっと養えなかったのではないかと思うが。
「それでは、行ってまいります、父上、母上」
「ああ」
「とても男前よ、アル。ハリエットさまのとなりに並んで見劣りすることはないわ」
母にいわれて、ようやくいくらか自信がついた。
ハリエット嬢は黙って立っていると彫像のように見え、動いて口を開くと女帝といっても過言でないほど霊威が湧きあがるのだ。女主人に仕える小姓のように見られてもやむをえまいと思っていたが、彼女の夫となる男なのだといま一度自覚を持つとしよう。
ハリエット嬢の住まいである公爵邸までは、馬で向かうよういわれていた。もちろん、貧乏伯爵の屋敷に厩はない。公爵家から借りた馬を、近所の辻馬車運行業者にひと晩預かってもらっている。
向かってみると、顔なじみの馬丁がすでにブラッシングと装具をすませて待っていてくれた。礼をいい、心づけを渡して馬を引き取る。
幼年学校のころから、十年以上乗馬には打ち込んできた。これだけは一切不安がない。
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ゴルディクス公爵の邸宅は当然だが広大だ。王都の西郊外の丘陵全体に広がる敷地は、王城よりも広い。そしてここはあくまでも都暮らし用の仮宮であり、所領にある本邸はさらに大きいそうだ。そちらへ行ったことはないが。
わが伯爵家は土地らしい土地は持っていない。三軒ほど農家が並んでいるだけのささやかな菜園程度だし、王都の屋敷は借地に建っている。
正門の前まできても、館は塔しか見えない。門衛が敬礼してきたので、答礼する。
「お待ちしておりましたオトノータシュ卿。どうぞおとおりください」
「ご苦労」
わが伯爵邸に門衛はいない。男手の使用人も、執事のマクニールをふくめて三人だけだ。さいわいほこりが積もるに任せている空き部屋がいくつかあるので、ハリエット嬢に降嫁していただいて以降も転居や増築の必要はないが、家令は増やさなければならないだろう。
そんなことを考えながら、主館のほうへ向かっていたのだが、声は横手からかかった。
「アルドルークさま」
「……ハリエット嬢」
確か馬場のあるほうから、騎乗したハリエット嬢がこちらへ馬を寄せてきた。ドレスの上に乗馬コートを着て、右手で日傘をさしながら。
非常識にしか見えないが、彼女の馬は鐙の位置が高かった。そして、スカートで隠れているが、鞍に腰かけて体重をかけていない。背筋は完全にピンと伸びており、左手は手綱を軽く持っているだけで、ふくらはぎで馬体を挟んで乗騎を御していた。馬のほうもハリエット嬢の意図を心得るだけの長期に渡って、ともに訓練してきたのだろうが。
サーベル騎兵が敵陣を強襲するときのスタイルだ。抜き放った剣の代わりに、日傘を掲げているにすぎない。馬の上に空気椅子で腰かけ、体幹だけで姿勢を維持している……あきらかに普通に歩くほうが楽だろうに、ハリエット嬢の顔には汗ひとつ浮かんでいなかった。鍛えかたが違う。
ハリエット嬢が目を細めて、口を開いた。
「ごいっしょできる日を、ずっと待ちこがれておりました」
「おれもだよ。なんだか、ふたりきりになるのが初めてだっていう気がしないが」
「わたくしもです。アルドルークさまとは、婚約パーティでお会いしたときから、初対面だとは思えなかった。なぜかはわからないのですけれど」
ハリエット嬢の感覚は、おれとは少々異なるようだ。おれは、手紙で彼女の心にずっと触れてきたから、ここ半年ばかりのにわかな仲ではないような気になっているのだが。
「……このまま出かけてしまっていいのかい?」
彼女は馬首を正門のほうへ向けているので、訊ねてみる。婚約者とはいえ嫁入り前のご令嬢だ。ご両親に外出の許しを得るべきではないのだろうか。
「ええ、支度はすませております。参りましょう」
ハリエット嬢の答えに一切の逡巡はなかった。ちらりと主館の塔楼へ目をやる。もしかすると、陸軍卿はこの様子を見守っているのかもしれない。
館のほうへ軽く黙礼をし、おれも馬首を返す。
初めてのデートが乗馬しながらというのは、わりと珍しいのではないだろうか。
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馬を並べて王都の中心街へ向かう大路を進んでいたら、警邏の役人に止められた。
若い女性が馬車ではなく騎乗で道行きというのは、確かに目立つ。おれもこれまでなら馬に乗っているときはいつも士官学校の制服姿だったが、今日は貴族とも郷士とも新興商人ともつかない格好だ。
おれとそうは変わらないだろう歳ごろの部下を三人うしろに控えさせて進み出てきた、三十絡みの男へ、名乗りをあげる。先方の階級は……伍長か。
「お勤めご苦労。私はオトノータシュ伯家のアルドルークだ、あやしい者じゃない」
「オトノータシュ伯……ですか」
怪訝さ半分、胡散くささ半分といった感じで、警邏官は首をかしげた。変わった姓だから一度でも聞いたことがあれば憶えてもらえるのだが、確かにわが伯爵家は知られている家門とはいえない。
渋面のまま道を開けようとしない警邏官へ、横からハリエット嬢が話しかける。
「お勤めご苦労さまです。都警第三大隊のかたですわね。アシュビー中佐はお元気ですか?」
驚いた顔で伍長はハリエット嬢のほうへ目をやり、そのまま固まった。
「まさか……あなたさまは……」
「陸軍卿のご息女だ」
おれが小声で補足すると、伍長は直立不動で敬礼した。こうも完璧な騎乗姿の若い女性など、王都にはひとりしかいないということには思いあたったらしい。上官の動きを見て、慌てて部下たちも敬礼する。
伍長が震える声を絞り出した。
「し、失礼いたしましたッ!! 自分は、都警第三大隊所属、ディズレーリ伍長であります! お顔を存じあげませんで、ゴルディクス閣下のご令嬢へこのようなご無礼、平に、平にご容赦いただきたく……!」
「お仕事を遺漏なくこなしておいでのようで、頼もしく思いますわ。引き続き、お勤めご精励くださいね」
「陸軍卿閣下ご令嬢より直々のお言葉、感佩の極みであります!」
ディズレーリ伍長は最敬礼で頭を下げた。顔面蒼白で玉の汗が止まらなくなったのを隠すための動作であることは明白だ。伍長の身からすれば陸軍卿を恐ろしいと思うのはやむをえないことかもしれないが、その娘まで怖がりすぎではないのか……?
とはいえ、この場でこれ以上問い詰めても伍長に悪いだけなので、顔を伏したままの彼のわきを通過する。三人の平隊員も、すばやく横へ動いて敬礼でとおしてくれる。軽く答礼。
少し進んでから振り返ってみると、伍長は壁に身をもたれて、金魚のように口を開閉させていた。死んだはずのところを奇跡的に助かったといった感じ。部下たちは心配げに伍長の様子をうかがっている。
「ハリエット嬢、よく彼らが第三大隊所属だとわかったね」
「今日は金曜日ですから」
しごくあっさりした答えが返ってきた。いつどこでどの部隊が任務についているのか、把握しているらしい。陸軍卿の娘としては当然のこと……なのだろうか。
王都中心街は軍務以外での騎馬乗り入れ厳禁だ。公爵家御用達の馬屋に乗騎を預け、劇場へ。
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演目は斬新なものではなかった。古典的な悲恋だ。サロメとジュリアノス。
怨敵どうしであるグランハイム家のジュリアノスと、エスポルト家のサロメが偶然出逢い、またたく間に恋に落ちてしまうが、両家の確執はそれを許さない。サロメの兄ファンダムはジュリアノスへ手袋を投げつけ、決闘になる。ジュリアノスはわざと負けるつもりだったのだが、国内の両雄であるグランハイムとエスポルトの対立をさらに煽ろうとする大公家の手のものの工作で、ファンダムの剣は折れ、ジュリアノスはあやまって将来の義兄になるはずだった人を殺してしまう。
ふたりは手を取り合って逃げるが、ついに取り囲まれ、一服のみの毒薬をジュリアノスの手に握らせ、サロメはこう訴えるのだ。
「わたしを殺してください」
――と。
毒を呷ったジュリアノスは血を吐きながらサロメの胸を貫き、恋人たちは身を重ねて倒れる……。
ふたりの犠牲はグランハイムとエスポルト両家の者たちに悔悟と反省をもたらし、わだかまりは解かれ、思惑が外れた大公一族は国外へと逃れることになるのだった――
筋書きこそ古びているとはいえ、舞台も服飾も作り込まれた、なかなか席を取れない人気の演目だそうで、確かに納得の出来栄えだった。
といっても、もうちょっと軽いオペレッタあたりを観るべきだったのじゃないかな、と思って椅子を立ったが、ハリエット嬢が目を真っ赤に腫らしているので驚いてしまった。
「ハリエット嬢……?」
「わたくし……こういうの弱くて。……ごめんなさい」
おれの肩に顔を埋めてきた彼女の背は、わずかに震えている。周囲にも目元をハンカチで押さえたり鼻をすすっている女性客が多いので、さほど目立ちはしないが、嫁入り前のお嬢さんとこんなに密着しているのは少々気まずい。
背中を撫でていたら、いくらか落ち着いたようだ。この細身のどこに、戦士として最強クラスである三人の兄たちと互角に立ち合う力や、大の男を眼光ひとつで凍らせる気迫が隠されているのだろう。
「すみません……お恥ずかしいところを。お召し物を汚してしまいました」
「そんなことどうでもいいさ。意外だった、涙もろいところがあるんだね」
「……やっぱり、アルドルークさまも、わたくしは鉄面皮だと思っていらしたのですね」
気にしていたらしく、ハリエット嬢はちょっとすねたようなものいいをした。
「もしかして、だから悲劇モノをおれと観ようと?」
「いえ……そこまで考えてはいませんでした。ヴィクトリアさまが、アルドルークさまと観劇をするならお勧めはこれだと……」
なるほど。帰ったらヴィクトリアに礼をいおう。おれが知らないハリエット嬢の一面を引き出すのに、知恵を出してくれていたのか。
「あいつ、おせっかいだな。きみがすごく可愛いんだって、おれに気づかせるつもりでやったんだ」
「……か、かわ……っ!?」
ハリエット嬢の膚は色が薄いので、赤くなるとはっきりわかる。おれは手を伸ばして、彼女の帽子を少し目深にずらしてかんばせを隠した。
「あの……なんですか?」
「きみのこんなに可愛い顔を、ほかの人間に見せたくない」
耳元でささやくと、ハリエット嬢は下を向いて帽子についているヴェールを広げ、完全に顔を隠した。耳まで真っ赤になっているのは見なくてもわかる。遠慮がちに伸ばされてきた手を取り、前方の確認がおぼつかなくなった彼女を引き寄せてリードしながら劇場を出た。
……いやしかし、自分で考えてもみなかった気障な科白が出てしまったな。
どこでこんな女たらしの遊び人みたいな言葉を――そうだ、これもヴィクトリアのせいだった。あいつ、最新の教科書だといって、流行りの恋物語とやらをおれの部屋で朗読していったのだ。聞き流していたつもりだったのに、しっかり頭に残っていたらしい。
外はそろそろ夕刻。夜用の服に着替えなければならない。
ゴルディクス公爵家には当然ながら中心街に御用達の衣装屋があって、そこで着替えをするようにと手配されていた。替えた服や荷物は、あとで屋敷まで届けてくれるそうだ。
ドレッサールームへ向かおうとするハリエット嬢を呼びとめ、おれは準備しておいたプレゼントを差し出した。分厚い紙の束だ。
「ちょっとかさばるから、着替えた服と一緒に預かってもらっておいて」
「あの、これって……」
「父のむかしの研究仲間に詳しい人がいてね。出版するにはまだしばらく時間がかかるそうだから、大雑把な範囲だけど転写版をまとめて送ってもらったんだ」
「よろしいのですか? そんな貴重なもの」
「きみが目をとおしてくれたら、普通に発表するより現場への反映が早まるだろうって、むしろ喜んでくれたよ」
「ありがとうございます。最優先で読みますね」
可愛くて無垢な少女ではなく、青き血が流れるゴルディクス公爵家の一員の目で、ハリエット嬢はうなずいた。
父は大学で医療関係の研究をしていた。当時の研究仲間のひとりが、軍の医療部隊の大佐になっている。先の四年戦争で生じた莫大な戦傷者の、負傷の種類や部位、施すことのできた治療、各野戦病院の環境、そして予後の死亡率と復帰率――大量の数値がまとめられている。
戦死者の早急な埋葬、場合によっては現地での火葬処置を徹底することが、負傷兵の生存率の大幅な向上に資するのだと、戦中のうちに経験則として確立されていた。加えて清潔な水が大量にあれば、医薬品は限られていても死神を驚くほど遠ざけることができたのだ。ただ、名誉の戦死を遂げた兵士を本国の家族の元へ送り届けずに葬ってしまうことには、極めて根強い反対があり、戦争が終結した現在でも現地葬は制度化できていない。子息を、夫を、父を、兄弟を送り出したがわの心情として、戦死公報一枚、あるいは、骨の欠片ひとつしか戻ってこないなどということが、納得できないのは当然だ。
密閉性の高い遺体収容手段を確立できれば、遺族感情と、新たな概念である衛生の両立ができるのではないかというのが、その大佐の見解だった。
ハリエット嬢は、国のために戦ったすべての兵士は、生者、死者にかかわらず正しく報われなければならないと考えている。ヴィクトリアからそれを聞いて、おれは彼女へプレゼントをするなら、宝飾品や服より、資料がいいだろうと父をとおして頼んだのだ。
おれの婚約者は、本当に、美しく、賢く、気高く、そして強い。あと可愛い、ものすごく。
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……モーニング以上に、燕尾服が似合っているかどうかは自信がない。ディナージャケットで充分だろうと思ったのだが、自分の仕事を心得ている店員に、有無をいわさず着つけられてしまった。食事に行くだけなのだが、王宮に参内でもするかのような礼装になってしまった気がする。
イブニングドレス姿のハリエット嬢を見て、自分のことなんか忘れてしまったが。
デコルテの刳りはそこまで深くないが、繊細な鎖骨がはっきり出ている。そして背中側も結構開いている。直視しがたいほど美しいが、なんというか、ルール違反を承知で上着をかけたい衝動に駆られる。
ほかのだれかに、見せたくない。……美しいものを独占するな、見るだけなら減らないだろう、というのがドレスコードの意味なのだろうが。
ハリエット嬢も少し抵抗感があるのか、やや厚手のショールを肩にかけていた。本来はショールもレース地のものをまとうのだろうが、たぶん彼女が示した最大限の妥協だろう。
「きれいだ。……街に連れ出して、衆目にさらしたくない」
つい本音を漏らすと、冗談なのかどうか、ハリエット嬢もこういった。
「馬車を呼んで、このまま帰ってしまいましょうか?」
「予約をしてあるんだ、勝手に帰ったら、シェフが気を悪くする。どうせこの先も何度かこういう格好はしなきゃならないんだ、いまのうちに馴れておこう」
「はい」
彼女の手を取って、暮れなずむ街へ。
超一等地にある服屋だから、いくらも歩く必要なく目的地の料理店へたどりつくはずだったのだが、妙な人だかりができていて、しかもその中心に見知った顔ばかりいたものだから、足は否応なく止まらざるをえなかった。
六人組が、ふたり連れを取り囲んでいる。
数が多いほうは若い男ばかりで、全員見憶えがある。士官学校のひとつ先輩、つまり去年卒業した、士官一年目を過ごし終わった少尉たちだ。
そしてふたり連れのほうは、おれの親友であり、寮では相部屋だったジャスティン=オーウェルと、妹のヴィクトリア。なんでこんなところにいるのだろうか。おそらく、ヴィクトリアに引っ張られるまま、ジェイはつき合ってやってきただけだとは思うが。
当然ながらジェイも六人とは顔なじみだ。絡まれているというわけではないだろう。ジェイの表情からすると、食ってかかっているのはヴィクトリアだ。士官学校の先輩後輩の序列というのは厳然たるもの。街で思わぬ顔を見かけたので、わりといつもの調子の冗談を先輩がわとしては飛ばしたつもりだったのが、聞きとがめたヴィクトリアが激怒した、というところではないか。よくわからない子供が突っかかってきて、困惑しているに違いない。
「ハリエット嬢、少し待っていてもらっていいかな。ヴィクトリアをおとなしくさせてくる」
「わたくしも行きましょうか?」
「いや、先輩の顔を立てないと。悪いのはヴィクトリアだ」
もちろん、これでジェイが殴られていたりしたら、せっかくの正装がどうなろうと、相手が先輩であろうと、そんなのは関係なく二対六で闘うことになるが、ジェイはあきらかにヴィクトリアをなだめようとしていた。
「ちょっと失礼」
声をかけながら人垣をかきわけ、当事者たちのほうへ近寄っていった、ところで。
先輩たちの肩越しに、ヴィクトリアと目が合った。いや、正確にはヴィクトリアはおれのことを見ていない。おれの姿を認めた瞬間、ハリエット嬢もいることを察している。こいつは、ちびのくせにやたらと視野が広いのだ。
「ハリエットさまあっ!!!」
よくそこまで大声が出せるなと感心してしまうほど、すさまじく通る声だった。おれが手でかきわけてきた人垣が、それだけで開ける。
先輩たちも体を開いてこちらを見やり、その瞬間、ヴィクトリアは脱兎のごとく駆け出した。後ろから捕まえようとしたジェイと、前から捕まえようとしたおれの腕を躱して、弾丸のようにハリエット嬢へ突っ込んでいく。
飛びついてきたヴィクトリアを、ハリエット嬢は抱きとめた。
「ヴィクトリアさま」
「このあたりにお出かけだとは存じておりましたけど、まさかお会いできるとは思っていませんでした!」
「こら、ヴィクトリア! 正装してるんだぞ、ハリエット嬢の服を乱すな」
無駄を承知で叱りつけたが、もちろんヴィクトリアは聞いていない。ハリエット嬢も、鷹揚に手を振った。
「服は着たらシワが寄るものですよ」
「そんなことよりハリエットさま、あの無礼な六人組! 実戦経験もないくせに、士官学校を一年早く出た程度でオーウェルさまへ先達気取り、聖銀戦勲大章受章者をなんだと思っていますの?!」
ああやっぱり。頭が痛くなってきた。確かにジェイは戦後に士官学校を卒業したどの軍人も得ていない(というか得ようがない)大勲章を持っているが、それはそれ、これはこれなんだ。
どうにか順を追って説明しようと口を開きかけたところで、ハリエット嬢がヴィクトリアの巻き毛を撫でながらこういった。
「オーウェルさまのほうが軍歴が長く、戦功も挙げていらっしゃる、それはそのとおりです。ですけれど、先任として格上になるのは、同じ隊へ配属されたときです。士官学校の卒業生として、尉官としてはあちらのかたがたのほうが上になるのです」
「……そういうものなのですか?」
すごくわかりやすい説明だった。さすが陸軍卿の娘。
いきなり叫んだかと思ったら弾丸のように飛び出して、大声でまくし立てたかと思えば急にしおらしくなった子供の様子に、周囲のほとんどの人たちは目を白黒させるばかりだったが、先輩たちは表情がこわばっていた。
「ハリエットさま……って、まさか」
「ええ、陸軍卿のご息女です」
ジェイがうなずくと、輪を解いて一列横隊に整列を始める。
「……初めてみた」
「九日間教練踏破者……」
「ポール校長と互角の腕なんだろ」
「あの見た目で……」
「鉄血令嬢……」
まるで地上に現れた堕天使を見たかのような態度だ。せめて聖天使を見たような態度は取れないのか?
九日間教練というのは、陸軍卿オーギュスト・アレクサンデル=ファン・ドゥ・ゴルディクスが決行した、三十二年前の強襲作戦の道程九百二十キロとその後の戦闘を再現した演習だ。
年に一度開催され、士官学校最終学年生と、各師団から選抜された兵卒、下士官が参加する。完走率は平均三割。七日間の行軍部分のみに限定しても六割は超えない。
おれとジェイも卒業式前に参加したが、地獄の名は伊達ではない。最終段階が二個師団相手の三日間持久戦ではないぶん、まだ優しいのである。三十二年前は、どうやって一兵の落伍もなく九百二十キロを踏破したのか。国が消えてなくなるかどうかの瀬戸際だったから、覚悟がさらに一段階違ったのではあろうが。
軍人ではないハリエット嬢は当然ながら正式な参加者ではないが、非公式だが事実上の公認踏破記録を持っている。毎年本演習前に行われる、陸軍幹部による予定ルート調査隊にここ二年同行しているのだ。
そういえば、この六人は去年の九日間教練で脱落した組だったような気がする。ちなみにおれとジェイはちゃんと踏破した。学年成績では首席を取れたが、九日間教練でのおれは三位。首位はジェイで、二位は選抜参加の曹長だった。最後の模擬戦パートは、やはり実戦経験者でないと厳しい。
ハリエット嬢は最後の猟兵隊との模擬戦で全滅判定を奪っているというからすごいものだ。ジェイムズ、ポール、カール、ハリエットのゴルディクス家四人のほかに、満点を叩き出したのは三名しかいないという。カール、ハリエットのみが実戦経験なし。
ヴィクトリアをまとわりつかせたまま、ハリエット嬢が進んでくると、六人の少尉は一斉に敬礼した。
「このようなところでお目にかかるとは思いもかけず、陸軍卿閣下ご令嬢にはご機嫌麗しく」
「硬くならずに。わたくしはあなたがたに対するなんらの権限も持っていません。こちらのヴィクトリアさまは、わたくしのとても良い友人です。すこし早とちりでみなさまを困らせてしまいましたが、悪気はなかったのです、ご容赦くださいね」
「滅相もない! こちらこそ、大変失礼をいたしました」
硬くなるなといわれて余計に機械じみた動きになる六人組から、ハリエット嬢はジェイへ視線を移す。
「オーウェルさま、ヴィクトリアさまをエスコートしてくださって、ほんとうにありがとうございます」
「いえ、実際は、自分が街を案内してもらっていただけですから」
四年間ブランクがあるといってもジェイは都生まれの都育ちだ。ヴィクトリアに案内される必要はないというのに、こういうところではしれっとした顔でそつのないことをいう。
「ところでヴィクトリア、こんな遅くまでどうして街中にいたんだ」
本来なら最初にいうべきだったことをようやく妹へ問いただすと、ヴィクトリアは頬をふくらませた。
「もちろん帰るつもりでしたわ。そうしたらこのかたがたが……」
まだいい足りない、という目で、ヴィクトリアは先輩たちを視線で撫で斬りにする。ハリエット嬢になだめられていなかったら、舌鋒を引き続き繰り出しているところだったろう。
「……ええと、自分たちは、そろそろ」
「もちろん、お引きとめはしませんわ。今後も国家と軍のためにご精励ください」
おずおずと切り出してきた先輩のひとりの声を受け、ハリエット嬢は六人組へ目を戻してそう告げた。なにも権限はないといいながらも、閲兵をする女帝の貫禄があるように感じられる。
『はっ! 失礼いたしますッ!!』
士官学校時代へ戻ったかのように、見事にそろった声と動作で最敬礼を施すと、そのまま右向け右で横隊を縦隊にし、六人は駆け足で去っていった。幻の教官が笛を吹いているかのように、足まで完全にそろっている。もう少しで笑ってしまうところだった。
野次馬たちは、いったいなにがなんだったのだろう、という顔をしている人がほとんどだったが、幾人かはハリエット嬢をちらと見ては小声でささやきを交わしている。なにを話しているのやら。
……余裕を持っていたつもりが、予約している時間がすぎてしまいそうになっていることに、おれはようやく気づいた。ヴィクトリアをジェイへ預けなおして店へ急ごうと声をかけようとしたのだが、ハリエット嬢は先輩たちが走り去った方向とは反対側を見ている。
その口が動いた。
「兄上」
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奥方と街を歩いていたゴルディクス家の長兄ジェイムズ卿が、人だかりを見て、なにごとかと確認をしにやってこられたのだった。
先輩たち六人にふくむところはないので、ハリエット嬢もおれもジェイも、大したことではなかったと口を合わせた。ジェイムズ卿はそれ以上追求しようとはなさらなかったが、その代りというかなんというか、おれが予約をしていた料理屋で食事をしようという話になっていた。ジェイとヴィクトリアも。
晩くなる前に帰るつもりだったジェイたちは昼着のままだったので、ジェイムズ卿はおれたちが着替えた服屋へふたりを連れていき、ついでに当家へ使いを出してくれた。ヴィクトリアもおれと一緒に帰るから少々遅くなるが心配ない、と。ありがたい。
食事をすませ、ジェイムズ卿の奥方ヘレネさまとハリエット嬢、ヴィクトリアが「サロメとジュリアノス」の話題で盛りあがり始めたところで、奥のサロンから戻ってきたジェイムズ卿がおれに軽く目配せした。
ひとり取り残されて暇そうなジェイへすまないと思いながら奥へ行ってみると、おれが吸わないことは知っているのだろう、ジェイムズ卿は葉巻を手にはしないまま、となりへ座るよう示した。
「失礼します」
「今日一日、あれとともに行動してみて、どうだった?」
「とてもすばらしいひとだとあらためて思いました。本当に、おれにはもったいないです」
「そういう表面的なことじゃなく、あれに対する、周囲の人間の反応をどう思った?」
それなら気になることがあった。ほぼ一日中だ。
「みな、ハリエット嬢のことを怖がるのですが……」
とくに軍関係者が。ジェイムズ卿は肩をすくめた。
「あれを怒らせるとなにをされるかわからない、そう思われてしまっているな。あながち嘘ともいいきれないのが困るところだ」
「彼女は理由なく怒りはしませんし、怒っただけで理由なく他者を傷つけたりもしません。おれにはわかっています」
そう応じると、表情を緩めたジェイムズ卿が、おれの両肩へ手をおいた。四年戦争で「無情将軍」と呼ばれたとは思えない人好きのする笑顔で、しかし確実に人を殺せる真剣な目の光で。
「だからこそ貴卿に託すことにしたのさ、父は。エッタを頼む、あいつは、俺たち四人の天使であり、勝利の女神だ」
「かならずや。絶対に彼女を不幸になどしません」
そうか、彼女の愛称は「エッタ」なのか。早く「エッタ」と呼びかけて、耳まで赤くなった彼女を抱きしめたい。
……不埒なことを考えたのがバレたか、ジェイムズ卿がおれの肩においている手に少し力が入った。
「まずは一本取れよ。強いぞエッタは」
「三ヶ月以内にはどうにか」
「式の前には取るなよ。取ってもなにもするなよ」
「たぶんおれが勝ったら、彼女のほうがなにもしないことを許してくれませんよ」
「生意気いうやつだな。式の前に勝てるか賭けるか?」
「兄上のあなたがそんな不純なことでいいんですか……」
「俺たちのエッタは、そう簡単に貴卿のような小僧には負けないからな」
どうも、ゴルディクス家は、世間のイメージよりゆるいのかもしれない……。
おしまい
いかがだったでしょうか? 作者的にはニヨニヨしながら書いてました。
よろしければブクマや評価をいただけると嬉しく存じます。
アルドルークの視点も書いて、主要人物の視点が出そろいました。短編連作としては事実上の完成だと思いますが、エッタ可愛いをまだしたいので予告していた最後の1本もちゃんと書きます。
R3/2/20追記:本シリーズの1本目「婚約破棄をしろと言われたけれど(以下略)」がコミックになりました。くわしくは活動報告をご参照ください。
R2/11/17追記:絵の上手い友人が支援画を届けてくれました。…アル可愛いんですよね。泣かせたら嫁のエッタより可愛いのでは…?(なにを考えている⁉︎)
R2/11/13追記:予告していた短編連作5本、書き終わりました。くわしくは活動報告をご参照ください、追って新エントリーも追加していきます。