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 さて、この論考ももうまとめに入ろう。

 

 人がどう言うかは知らないが(人は常に何かを言うものである)、私は個人的にこの文章を書いてスッキリした。今まで自分の中にあったモヤモヤしたものが形になったような気がしている。

 

 日本社会において靄のようにかかっている奇妙なものにくるまれ、そこに違和感を感じながらもそこに回帰しようとしている自分の心性も改めて確認できた。繰り返し、この国に生きる我々はこの母胎に還っていこうとするに違いない。それは、我々の限界であるから、我々はむしろそこから「何が正しいか」を測定する。思想とは本来限界を求めずどこまでも知性で探索していく試みであるはずだが、我々は大抵、先天的に答えを決め、その答えを証明する為に知性を利用する。だから、一般に賢く優れた人物、そう見える人物が凡庸な言葉を吐くのもよくある事だ。人は自分自身の答えを出した後、その答えを証明する為の問いを出してみる。しかし問いそのものに問いをかけるとは異様に苦しい試みに違いない。

 

 もう一度自分自身の中にあるイメージの話をすれば…私にとって重大なのは例えばドストエフスキーだった。ドストエフスキーのイメージだった。

 

 ドストエフスキーがどうしてあのような到達点にたどり着いたのか、それが気にかかっていたし今も気にかかっている。

 

 私の心に浮かぶドストエフスキーのイメージは、彼が牢獄で、孤独に、粗野な民衆に囲まれ、その人達と馴染めず、一人でむっつりと黙り込み、ベッドに寝ている姿である。シベリアの寒さの中、本を読む事もできず、ドストエフスキーにとってなにより必要だった、一人になる事も許されていない中、彼はどこに救いを求めたか。

 

 それは作品が答えを出している。ラスコーリニコフはソーニャに聖書のある箇所を読むように頼む。ソーニャははじめはいやいや、途中から熱っぽく聖書の一節を読む。それは復活の物語である。社会の深淵に沈んだソーニャが汚れずに済んだのは彼女の中に信仰があったからだ。牢獄の中のドストエフスキーは全く同じ思いで聖書を読んだに違いない。

 

 この文章の文脈から言えば、強調しておくべきは、ドストエフスキーが信仰したのは彼岸的な、来世的な、抽象的な神における信仰だった。現実に救われるという望みはおそらく絶たれていたのだろう。もともと、ドストエフスキーや当時のロシア人が熱狂した社会主義は、地上に神の王国を作ろうとする運動だった。

 

 ドストエフスキーはその運動を行ったがそれに挫折をした。そこで彼は考え直したはずだ。神の国は果たしてどこにあるのか。それは心の中にある、と。だが心の中にある、とは嘘ではないか。だが嘘を信じなければ生きられぬではないか。

 

 ドストエフスキーが牢獄で読んだ聖書の、復活の物語は、現実の位相の外側にある、「物自体」のような表象物だったに違いない。私はドストエフスキーが好きなので、彼を勝手にそういう風に読んでいるわけである。

 

 そしてその事は、我々の日本社会のように、共同体それ自体と一致する事を神とする精神とは微妙に違うように感じるのだ。神はどこにいるのか、という時、人は既に答えを出している為に、繰り返し、人は私を不思議な目で見た。(何故お前はそんな事で迷うのか)と。だが私には人が何故、私が迷っている所で迷わないのかがわからなかった。私は人が答えを出す場所に問いを見た。

 

 私が疑問だったのは個人の実存である。カフカや太宰治は心情的にはよくわかる。それは敗北の物語であるが、それが実存という形式にまで伸びていく時、その個人は何によって支えられるのか。それは、おそらく、その孤独な、世界から見捨てられた人間に外部から差し込む光であるに違いない。…いや、というより光など差し込まなくてもいいのだろう。ただ我々が見る厚い雲の外側に太陽があると信じる事が重要だろう。光が差すのが信仰ではなく、光があると信じるのが信仰だろう。

 

 パスカルやキルケゴール、ドストエフスキーなどの実存主義、一つの実在を見つめる目、その強度を支えたのはキリスト教的信仰だった。我々の国では実存は、絶えず内部的な心情や苦痛、いわば「個人」の問題でしかないと思われる。あるのは常に、共同体から見離された自己と、共同体と接着し、救われる自己しかない。村上春樹は、そういう意味で最新式の救いを持ち出したが、それは彼が人気作家になり社会的に容認される事と並行して、その主人公も共同体に掬い上げられる事しか意味しなかった。

 

 二十世紀に人間はかつてないほどに富裕になり、日本も「先進国」の一つになった。そこで、この社会における生の肯定と、その仲間達が作り上げた一つの幻想、そこに一致する事が救済であり、結論であるとされた。それが今は危機に陥っているが、そこで問題になっているのは常に、主体の問題ではない。個人などどうにでもなると思われている。重要なのはこの神聖なる国、共同体、我々は他者の為に活動し、互いに仲間として寄り添い……だが、私は自分の誤った先天的感覚に従って、この神聖なる共同体よりも、牢獄で寝転がり聖書を読んでいるドストエフスキーのイメージを取りたいと思っている。

 

 それはあくまでも私の中に浮かんだイメージであり、実際のドストエフスキーがどうだったかとはさほど関わりがないのだろう。ただ、ドストエフスキーもまた、己の中にそのようなキリストのイメージを抱いたのではないか。彼は聖書を読み、あらゆる苦痛を背負って使命を果たす一人の男の姿を見た。彼が人間としての持てる苦痛の全てを背負う事ができたのは何故か。それが世界の為だからか。そうではない、世界を救う為だった。そこでイメージされているのは、個人の上にある世界、個人をすっぽりと覆う世界(我々の感性のような)ではなく、個人が自分の苦痛と引き換えに世界を乗り越えようとするイメージだったに違いない。

 

 我々の社会では主体の意志を曲げ、共同体に従属させる事が正義であるとされる。そこで先に意志を曲げた人間が権威者となり、曲げない人間をへこませ、排除していくのが通常の状態となっている。それは、この国に備わる知性であり、この国がこれまでうまくやってきた方法論であるから、間違っているという風には短絡的に言えない。そこには確かに実効性があるのも確かだ。

 

 だが、私は、この社会のぼんやりした空気、それが何であるかを究明しようとすると途端に周囲からそれを押し止める声が聞こえたものだ…。私には、この社会の在り方は神を目指す崇高な行為というものが、絶えず、感覚的な現実的なものと分離できず、だからこそ文学作品におけるドラマも基本的に「とことんまでいく」という感じを与えてくれないという印象を持つ。

 

 例えばニーチェとは残酷なる才能である。ドストエフスキーは残酷なる才能である。パスカルもそうだ。それは知性によってこの世界を相手にして、どこまでも行く事そのものに対して留めるものがないと感じられているからこそ、その果てまで見たいという願望が成就するからなのだ。

 

 そこで発見された真実はオイディプスの見た真実のように醜悪なものかもしれない。だが、醜悪な真実を覆い隠し、自分達の神聖さの中に逃げ込むより、最後まで真理を追い続ける方が遥かに偉大だろう。例え真理が醜いものだとしても。理性の、人間の限界を明かすものだとしても。

 

 主体とは自らの責任を負う事でしか現れない。オイディプスは自らの責を負う。キリストは世界の重荷を自ら負う。何故そんな事ができたのかと言えば、彼らが、個が、主体が世界から分離されていたからだ。世界の中に人間が埋め込まれていないからだ。だからこそ、彼らは自己というものを信じ抜く事ができた。ではこの人間はどこから来たか。おそらくは楽園を追放された原罪を背負った人間であるだろう。世界から自己が切り離されていない、と未だに信じる事ができるほど、我々は楽観的な、「日本」という素晴らしい国に生きているのか。多分、そうだろう。

 

 我々は未だ自分達の神話を信じている段階にある。それをずっと押し通してきたと言ってもいい。だが少数の知性人は既に未来を先取りし、何かに勘付いていた。

 

 「人皆 たむら有り、またさとれる者は少なし」

 

 これは古代の知性人が残した言葉であるが、この人物は自分の発令が世界を現実的に救うとは信じていなかったに違いない。彼は現在の状況を見て全く同じ言葉を吐く事ができる。「人皆党あり。また達れる者は少し。」

 

 彼はおそらく、彼自身の知性が現実の蠢く政治的混乱、その現実の醜悪さから離反しているのを感じていただろう…。この人物は私には政治家であると同時に、悲しい瞳を湛えた一個の詩魂であるように感じる。この時、彼は神から離れた自分を感じていただろう。主体の擁立は共同体から疎外された悲しみを経由する。悲しみに耐えるのが「強さ」と言われる。

 

 神から離れなければ、神を見る事はできないに違いない。また神から離れなければ、楽園を出なければ、人間もいないに違いない。私は、神と人間という普遍的な原理、そういうものがあるとして、それをこの国、日本という国という特殊性と普遍性の融和、その空気感や場の神聖化という原理よりもより高いものとして信じる。こう言うと「お前はそんな普遍的な抽象的なものを愛せるのか。そんな霞のようなものを喰うのか」と言われるに違いない。

 

 そう、だからこそ、キリストは「愛」という哲学を貫徹する為に、自分の血を流したのだ。彼はその「愛」に現実性を与える為に、自身の苦痛を持ってなしたのだ。それによってこの物語は完成したのだ。

 

 それから長い時が経ち、ロシアのある作家は牢獄でキリストの夢を見た。彼もまた、自身の苦痛でその理想に現実性を与えた。私はこの物語を信じる人間である、とここで言及しておく。私はそれを信じているのである。何にも増して。そしてそれ以上の事は今は言う事はできない。また言う必要もないと感じている。

 

 

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