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 漱石は「それから」で、主体的な決断が、家族・秩序というものから離反していく姿を描いた。それは恋愛というものを契機にしている。漱石はそこで、日本文学において驚くほど大胆な一歩を踏み出した。何故漱石がその一歩を踏み出せたのかと言えば、日記か書簡に書いていたはずだが「これからは自分は誰も頼りにしない。自分ひとりでやる」という旨をメモしていた、そういう精神的部分に拠っている。漱石は日本近代文学では屹立して、世界を敵に回す主体の姿を描こうとした作家だった。漱石ほどの作家は他にはいない。鴎外が漱石に並んでいるとも言えるが、個人・実存の深淵を覗き込んだ時、鴎外はそこから真っ先に引き返した。彼は家族と秩序の元に戻った。

 

 だが、個人の実存は、内部的な神に支えられていないとあまりにも苦しい立場に陥ってしまう。この「神」は『我と汝』における汝、と呼びかけてくる神である。日本においてはこの神はいない。社会から、共同体から見離されてもなお、世界を敵に回しても自己の信念と結託可能な、抽象的な、天空的な神はいない。共同体それ自体が神であるのが我々の世界だから、漱石のように、そこからの敗北を描く事が文学者にできる精一杯なのだ。それは今も変わっていない。


 私がイメージしているのはソクラテスであり、キリストであり、殉死したフスであったりする。ソクラテスのような哲学者にとっては己の内部の真理を貫徹して、そのために共同体から追放される目になり、死刑になるとしても「その方がいいのだ」と思えるものが存した。キリストにおいてもまったく同じである。キリストはより完備された伝説であると言ってもいい。キリストはより正しいものが世界の向こうに、世界の在り方の向こうにあると信じられた。それは彼らの神が、感覚的、現実的なものを越えてあると信じられた為だろう。

 

 私にとって実存主義とはドストエフスキー、ニーチェ、パスカル、キルケゴールの四人に代表される。サルトルやハイデガーは念頭に置いていない。…今あげた四人の内の三人はキリスト者である。残る一人、ニーチェは反キリストとしてのキリスト者と呼んでもいいだろう。ニーチェはそれ故に誰よりも多大な苦痛を舐めたのだが、彼は反キリストによって自分自身をキリストのような存在に祀り上げざるを得なかった。ニーチェもやはりキリスト教的な人物と言ってもいいだろう。

 

 これらの実存、個、我の中に宇宙があり同時に宇宙の中の孤独を誰よりも体験している個…こうした実存を支えたのは何よりも感覚的な、現実的な世界を越えた先にある神であって、それらの神が実存的孤独を支えたのだと私には思われる。一方、我々の実存はどうしても曖昧なものに留まる。

 

 私自身をサンプルに上げればーー私などサンプルにしても仕方ないが一例としてはいいだろうーー私の書いているものなどは愚痴に過ぎない。日本社会をどれほど批判した所で、私の中に日本的な神しかいないのであれば、私の言っている事は「日本社会はこうなってくれればいい」という要望でしかない。そして私がせいぜい自分の実存として感じる事ができるのは、先にも言ったように、ただ「敗北」だけである。敗北を描く事に僅かに意味が生じる。そういう意味ではカフカは神を失った世代の代表的な作家と言えるかもしれない。カフカの社会に対する敗北感に我々はすんなり感情移入できるだろう。

 

 漱石の話に戻るのなら、漱石は日本社会における主体というものがどういう末路を辿っていくのかを描いた。それは敗北であるが、敗北そのものに僅かな意味を見つけようとする消極的なものでもある。だがこの消極的な意味を創出するのに漱石がどれだけ内的苦闘を経験したのかは想像を絶するものがある。

 

 鴎外は、簡単に言えば、芸術か政治か、個か公かという二択が現れた時、文学を余技にまわして一個の政治家・実務家の道を辿った。だがその共同幻想に殉じる、いわば日本的な意味における「正しい」選択は、最後の遺書においてまた違う挫折を果たす事になった。鴎外は遺書に、死を前にしてはどんな勲章も無意味だという事を言っている。彼は正しい選択をした後、彼が以前は否定した実存ー死ー宗教の問題を新たに目の前にしたのだった。社会・システムに個人を完全に従属させれば、回り続ける、あるいは恒久的な国家の為に死ねば、その死は永遠として記憶される。そこに死に対する抵抗があるとみなせるが、やはり国家も社会も人間が作り出したものにすぎない。そこには一定の限界がある。

 

 西欧において、キリストの死というのは伝説化されている。しかし当時の状況に照らして考えればキリストは犯罪者である。ソクラテスも犯罪者である。彼らは共同体の法に反していると思われた。だが彼らの信念は天空的な神と結託していると信じられたからこそ、彼らはその死を受け入れられた。そしてその死に様、あるいは生き様が、物語として、伝説として、いわば文学作品のような形態で西欧の共同体そのものに大きな影響を与えてきた。ここには我が国にはない極端な弁証法的な統一がある。我々の国における高貴な死はあくまでも全体の為に個を殺すものであろう。個の貫徹が、天空的な神と一致して、それがまわりまわっていずれ来る時代において「人々」の為になるであろうなどという信念は基本的にはなかったのだと思う。

 

 この点をもっとも掘り下げた漱石の話にもう一度戻るなら「それから」の主人公・代助は共同体から離反しても意志を貫くと決めた時、彼は内部に「自然」を見出したと言っている。この自然は意志であり、内部ーー天上的な神に近いものであるが、その部分はまだはっきりと煮詰められてはいない。自らの内部における自然は、外部・共同体の自然に反する事があり、自らの内部の自然を取りうる事はある、というものが漱石の見出したものだった。漱石の言う「自己本位」はそうしたものだった。自己本位を個人の「わがまま」と見るのは簡単だ。こうして人は、というか日本人はまた日本的な共同体・母胎に還っていき安堵する。私は何人たりと言えども、日本において漱石を超える作家がいたとは言えない、と言いたいぐらいである(紫式部を除くが)。

 

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