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今、日本文学の物足りなさと言ったが、ここでは夏目漱石を例にとって考えてみたい。
漱石は私が一番好きな日本人作家であり、また、一番西欧的な「悲劇」に肉薄した作家でもある。でも、というか、だからこそ、と言うべきか、日本的な中間圏、理念と感覚の融和で留まるという日本的特色がはっきり見える作家でもある。漱石はそれを脱しようとした、おそらく日本という後進国に近代文学というものを打ち立てようとした大天才だからこそ、かえって我々の特色が何であるかが同時に色濃く刻印された作家だろう。
ここで取り上げるのは一番有名な「こころ」だ。「こころ」のあらすじはみんな知っているという前提で割愛する。Kと先生、お嬢さんの三角関係なども既知の事だろう。
「こころ」は確かに本格的な悲劇ではある。だが、誰もが気づくように、それは本格的に人間同士の対立には行き着かない。あの三角関係において、お嬢さん(女性)は結局蚊帳の外だし、主要なキャラクターのKと先生はそれぞれに自責を感じて自殺してしまう。
日本という国は自殺率は比較的高い国なのだろう。これは、日本においては倫理性はそれぞれの内部に内包されているという風に感じられる。自分が共同体の在り方、共同幻想に一致しない、不適合と感じられれば、彼らは自裁してしまうのである。倫理はそれぞれの内部に存在し、言ってみれば「迷惑をかけない」為に、そこから外れた人間は自殺してしまう。
これを美徳と見るか悪徳と見るか。非常に微妙な問題だろう。とりあえず、私自身の印象や感想から話を進めてみたい。
「こころ」で先生は最後に自殺する。Kも自殺する。Kと先生はそれぞれに徹底的に、人として対立しない。闘わない。闘う寸前までは行くが、そこから折り返して、それぞれに倫理的責任を感じて自殺してしまう。ヒロインであるお嬢さんは蚊帳の外であり、また蚊帳の外であるだけならいいのだが、このヒロイン=女性は主体的な決定権がない存在として描かれている。
女性が主体的な決定権がないというのは重大な問題とも言えるだろう。これは女性蔑視とかいうより、もっと根深い問題があると思われる。お嬢さんはKと先生、そのどちらかを主体的に選択するというよりは受動的に、おそらくはKが求婚したとしても断らないだろうという微妙な描き方がされている。
トータルで考えれば「こころ」という物語において、意志と意志の相克というのはなく、それぞれに微妙にすれ違って、それぞれが勝手に罪科を感じるか、蚊帳の外に置かれるかであり、西欧的な人間ドラマにならない。言ってみれば、日本社会においては、意志は意志そのものである事が罪だという思想が表されているとも言えるだろう。
西欧のドラマ、本格的なドラマにおいては、人間がその極限な意志を貫き、破滅する様が描かれる。そのような極限な描き方がどうしてできるのか。日本人という我々からはむしろ不思議にも見えるが、それは「神」が、日本のように感覚的・現実的なものと融和してその調和が一番ではないからだ。「神」は抽象的なものとしてある。いわば人間存在を越えたものとしてあり、また同時に、人間は神に挑戦する存在にもなるし、神から離反した存在でもある。
対象化された神と、そこから引き下ろされた、罪を背負った人間という壮大な距離が西欧のドラマの偉大さを形作っている。その途方も無い距離において、人々は蠢き、自らの理想を打ち立てようとする。神の存在は、人間の行為の果てにある。人間はどのように行為し、生きたとしても、神はその外側にある。
日本の場合はそれは中間項のようなものとして示される。「こころ」のキャラクターは、例えば、Kは自分の恋愛感情をとことんまで突き詰めない。そこでは意志を徹底的に主張する事自体が「悪」として感じられている。だからKは先生と衝突しようとすると、その前に自裁してしまう。先生もまた、自分自身の罪を妻に伝えない。妻には綺麗なままでいてほしい…これは男の勝手なエゴイズムと言える。ヒロインは自分の意志を持たない存在としてあり、男達もまた意志を持とうとし、それを主張する段階になると、罪を感じて自殺する。そうして、いわば、我々の共同幻想は保たれる。だが果たしてこれは素晴らしい事か、と考えるのは無駄な話ではないだろうと思う。