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前に「日本の閉塞感について」という文章を書いたが、あれはやや通俗的なものだったと今振り返ると思う。もう少し本格的なものを書こうと思う。
日本的なものとは何か、と考えた時、今、理念と感覚との融合が理想とされるもの、という定義を置きたい。そこから話を始めたい。
日本は理念的なものと感覚的なものが合致する事を理想としている、というのはそれほど的外れなものではないだろう。私自身はそこに不満もあるし、またそこに日本の優秀な部分もあるだろう。
日本という国は、個人的には今ひとつ殻を破れない優等生という雰囲気を感じる。いろいろな事に能力が高く、真面目と言えば真面目なのだが、何かもうひとつ殻を破ったものがないというか、なんだかんだで小さくまとまってしまう印象がある。自分もそんなタイプの人間ではないかと思う時もある。
理念と感覚との融和というのはどういうものとして考えられるだろうか。例えば天皇というものは象徴的で、天皇は人間であると同時に神であるという曖昧な存在でもある。この天皇は、キリストのように伝承とか伝説、あるいは神話というより、結局、肉体的な、感覚的な所がないと日本では「神」として機能しない。要するに、ある程度、天皇は非人間化する事を要請されるのだが、同時に、公衆の前にでて手を振ってみせる、そういう身体性を見せなければ、感覚的に親しめない。このあたりに感覚と理念との融和が見られる。
ちなみに日本の社会で働いていると、会社の上司とか、社長というのは神格化されている雰囲気を感じる(神格化している人はその反作用として下の人間には強く当たる)が、結局、その頂点にあるのは天皇だという事になるのだろう。会社の社長などは、人としての何かを成し遂げたとか、人として〇〇の能力が高いというよりも、なんとなく「偉い人」「立派な人」という雰囲気で神格化されているものを感じる。こういうのは日本人の宗教観と密接につながっているように見える。
同じような事だが、日本の風土というのも、理念的なものと感覚的なものとの融合であるように感じられていると思う。日本というのは、対外戦争で国土を全面的に失うという経験もなかったし、他国であればしょっちゅう戦争して、国境が散々書き換えられたとか、民族がその土地にいられなくなって離散したとか、そういう悲惨な経験をしているから、国土=民族=アイデンティティという風にシンプルにいかなかったりするが、このあたり日本はかなり楽観的な気がする。
こうした事は自分もなんの疑いもなく信じていた部分があるが、考えてみれば国土=民族=言語など、全てが一致すると思えるのは、歴史的にそういうものが滅茶苦茶になった経験がないからだろうと思う。理念的なものと感覚的なものとの融合、日本の国土それ自体が我々なのだとシンプルに思えるのも随分幸運である気がする。ただその幸運さが日本を、それこそ島国的というか、小さな価値観にまとまらせているのではないかという気もしないではない。
それで、日本人というか、日本的なものに「悲しみ」があるとすると、それは森鴎外的なものと言うべきか、「私」よりも「公」を取る際に発生する「悲しみ」であると感じる。文学的に言えば、結局の所、自分達の共同幻想を破る発想は基本的にないというか、共同幻想に殉じる悲しさを共有する所に、日本的な悲しみ・慰めが生じる。この涙はたしかに高尚な涙であるには違いないが、しかし普遍的なものであると言い切るのは難しい。
私は大きく言えば、日本よりも西欧の方が良いと思っている。こう言うと「いや、日本は西欧よりも〇〇が優れている」とか「じゃあ日本から出ていけ」という話が持ち上がってめんどくさいが、私が西欧派なのは、西欧はその歴史においてはじめて、普遍的な理念を打ち出したと思えるからだ。だから、私は日本人であり、日本的なものを持ちつつ、西欧的(普遍的)であろうとする事は許されると思うし、逆に、現在の西欧がその普遍的な理念を失い、自分達の殻に閉じこもるのであれば、西欧の理念でもって西欧を批判するというのも許されるだろう。
西欧は、人間、そして神という理念を打ち出した。この理念は西欧という狭い地域を越えた普遍的なものであって、普遍的なものと信じていいものであるからこそ、私は西欧的なものの方を信奉するという風に言える、と考えている。私は自分自身を失う事なく、普遍的である事を目指すのを許されている、と思いたい。逆に日本的なものであれば、日本という特殊的なものに帰属しなければ日本社会における普遍性を目指すのは許されていないと感じる。
だが、日本的なものを世界に打ち出す、己の魂に刻印された個性を打ち出す事自体は西欧的なものとも言えるのではないか。その内実は日本的であるが、我の中にある個性を一つの人格、人間性として打ち出すのは普遍的な個の主張として許されるのではないか。
さてぐだぐだと書いてきたが、私自身興味があるのはやはり文学である。結局、私は文学にしか興味がない、と言ってもいい。それで、気になるのは、日本には、シェイクスピア・ドストエフスキー・ソフォクレスのように、本格的な、なんと言えばいいか、天にも届かんばかりの人間の深奥を掘り下げる、そういう散文は欠けているように思われるという事だ。
だから私の問題意識も「どうして日本にはそういう作家は出なかったのか?」という疑問に収斂されていく。まあ、日本の批判をすると、喜ぶ人も非難する人もいるのだが、結局大半の人は日本の復活と言っても経済的な復活とか、日本人が何かで優越を得るというイメージをするので、文学がどうなろうと知った事ではないのだろう。そう考えていくと、こういうのも私個人の問題意識でしかないという気もする。
話を続けると、日本文学ももちろん相当に優れたものだというのは確かであるが、そこにはどこか絶対的な限界というものがある。要するに、理念と感覚の調和が絶対的なものとして、いわば中間的に曖昧に漂っているので、物事をとことんまで、善にしろ悪にしろ突き詰めようとしても、その中途で挫折するのが普通になってしまっている。
これはある意味で、ポストモダン的な世界とうまく合致する。そういう意味ではポストモダンの世界では、世界は日本化したとも言えるが、それは私からすると嬉しい言葉ではない。ポストモダン以降の世界では、資本主義が大きく成長し、消費社会の中で、そこそこの富裕な生と、理念的なものを合致させて、中間で満足するという大衆的なものが蔓延し、これは日本的なものに近いイデーとも言える。そういう意味で、日本的なものが世界に広がったとも言えるのだが、それはあまり喜ばしい事とは思えない。