果実
時計を取り出すと四時半、あの人は話好きなのでもう少し時間をつぶさないといけない。もっとも私が彼女になにか気をつかわせるということは無いのであるが。
私が散歩していたのは妻の故郷だった。実家に彼女の旧い友人たちが訪ねてきて居場所の無さを感じたというわけだ。私の全く知らないし知りたくもない事を方言を思い出して話しているのだから滑り出て来たくもなる。
それにしてもいい所である。左手には田んぼが広がり、右手には深い山がもくもくとそびえたっている。通り過ぎていく家々も整理されない土地に踏ん張って立っていてほほえましい。この土地が彼女のマイペースな性格を作ったのかなと邪推させる風景だ。
甘酸っぱい香りに鼻をくすぐられて気が付いた。いつの間にか陽が沈みかかっており急いで帰らないと暗くなってしまいそうだった。ぼーっと歩いているうちに私を沢山の果樹が取り囲んでいる。ここはどこなんだろう。不思議な光景で、たくさんの綺麗な果実が枝に腰掛けて様子をうかがっているのではないかと思った。
そのうち一つの果実が私の目に留まった。丁度私の額ほどの高さから、凛とこちらを見下ろしている。まだ桃色に染まり切っておらず、その色の変調はあどけなさを感じさせると同時に、正体の分からない深みを隠し持っていた。肌理が細かくすべすべとしていて、視界にふっくらとした曲線をつくっている。さらには辺りに上品な甘い香りを振りまいてさえいて、思わずそれに手を触れてしまった。
私はその瑞々しさを口にしたかったが、今はやめておこうと思い直した。
また少し歩いていくと古めかしい鳥居に行き当たった。どうやら知らぬうちに境内に迷い込んでいたらしい。急に現れたはっきりした参道をたどり本殿までいって、無礼の謝罪もかねて手を合わせた。木材ばかり使っておりほとんど金属のない社で、小さいながらもなかなかに趣深いなあ、という感想を持った。千木の切り方は水平だった。なんだかそんな気がしていた。
鳥居のところまで戻り辺りを探してみると、期待した通りちょっと傾いた看板があってここの由来などが記してある。夕日が逆光になっていて読みにくかったが大体こんなことが書いてあった
果姫神社
成立年不詳。周辺には、大昔村の人々は果実を手に入れるために神々の住む山へと入らなければいけなかったが、ある時女神が命と引き換えに果樹を産み、以降村人は村のすぐ近くで果実を得られるようになった。村人がそのことに感謝して果樹を御神体として祭ったのが起源であるという伝説が語り継がれている。女神が命を落とした年である17歳になった女子に境内の果実を食べさせる行事がのこっている。