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そのさん。

 ★



 新田さんに、プロポーズのようなものをされた。正確には、結婚を打診された、って感じだろうか。なんだろう、この感じ。全然打てそうになかったのに、四球(フォアボール)でうっかり一塁に出てしまったバッターみたいな。当然嬉しいのだけど。


 翌日、私は夢見心地で会社に来ていた。午前中の仕事を終え、ポーっとした表情で弁当を食べていたら、神崎くんが近づいてきた。彼は爽やかという言葉を形にしたような好青年で、かつて新田さんをメロメロにしていた。


「小城さん、新田さんに会いに行ったんですよね。どうでした?」

「ああ、うん、元気だったよ」

「そうですか、よかった」


 あとプロポーズされたよ。そう言いそうになって、口ごもる。まだ二塁にいけるかどうかわからないのに、一塁に出たくらいではしゃぐのはどうかと思ったのだ。

「小城さん?」

「神崎さーん、お昼一緒に食べましょう~」


 新入社員にして、神崎くんを結婚的な意味で狙う女子社員、宮園さんがやってきた。神崎くんは困り顔になり、私を見つめた。そんな、助けを求める子犬みたいな顔で見ないでほしい。


「あれ? 小城さんとお昼ですか」

 宮園さんは小首を傾げた。可愛らしい仕草だが、目が笑っていない。神崎くんがはは、と笑った。

「そうなんだよ。ごめん、宮園さん」

 彼女はぱっ、と笑みを浮かべ、

「いいんです。じゃ、また明日しましょうね」

 自分の席に帰って行った。神崎くんは深いため息をつく。


「いいの? 宮園さん、目がすごかったよ」

「ちょっと苦手なんです」

「かわいいじゃない」

「かわいいけど、なんか、目が鷹みたいというか、食われそうで」

 その感覚は、間違っていないのかもしれない。神崎くんは捕食される側なのだろう。捕まったが最後、二人はバージンロードの先でキスをするのだ。さもありなん。


 私は、神崎くんに尋ねてみた。

「ねえ、神崎くん。好きじゃない女にプロポーズするって、どういうケースが考えられる?」

「へ?」

 神崎くんが目を瞬く。

「どういう、って?」

「何か思惑があるとか」

 彼は考えこんだ。

「うーん……そうですね、とにかく寂しいとか、親の期待とか、妥協とか」

「妥協」


 私は妥協されたのか。ちょっと傷つく。

「もしかして、誰かにプロポーズされたんですか?」

 私は曖昧に頷いた。

「小城さんは、その人のこと好きなんですか」

「……大好き」

 そう答えたら、神崎くんがハッとした。

「まさか、新田さん?」

 鋭いぞ、神崎くん。

「でも新田さんって……」

「うん、そうなんだ」


 新田さんは、私を抱けないって言ったのだ。実際そうだろうし、いたさない夫婦が果たしているのだろうか。なんにしてもこの話、会社でするには赤裸々すぎる。神崎くんもそう思ったのか、

「今日、飲みに行きません?」

「うん」

 頼りになるぞ、神崎くん。


 ★


 私と神崎くんは、会社近くの居酒屋へと向かった。月曜だからなのか、店内は空いている。週の初めは英気を養わねばならないから、みんな早く帰るのだろう。休みまであと5日もあるっていうのは、実際キツイ。


「この店、よく新田さんと来てたんだ」

 私が言うと、

「ああ、僕が連れてってもらえなかった店ですね」

「……その節はすいません」


 私は、新田さんお気に入りの神崎くんにヤキモチを焼いていた。だから、彼と二人きりで飲みに行くのを拒んだのだ。あれは最強に感じ悪かっただろうな、と思う。スーパー好青年の神崎くんは笑う。

「はは、気にしてませんよ、もう」


 なんていい人なのだろう。彼は枝豆をつまみ、

「あの時、小城さんは新田さんが好きなんだろうな、と思ったんです」

 すごいぞ神崎くん。その時点では、私は自分の気持ちには気づいていなかった。なんだか、枝豆を食べる姿さえまぶしく思えてくる。

「どうすればいいかな」

「そんな、子犬みたいな目で見つめられても」

 神崎くんは笑う。


「他に相談できる人いないんだ」

 私もなかなか寂しい人間である。

「迷うんだ。意外ですね」

 彼は首を傾げた。

「失礼だけど、尻尾振って飛びつくと思ってた」

「失礼だけどって、なんか神崎くん、発言が黒いよ」

「すいません。昔から結構、思ったことをすぐ口にしちゃうとこがあって」

 神崎くんは続ける。


「トラブルも割とあったんですが、母いわく、あんたは顔がいいんだから、とりあえず笑っとけと言われまして」

 私は得心した。あの笑顔は、一種の処世術だったわけだ。

「そうして神崎スマイルが出来上がったわけだ」

「神崎スマイルってなんですか」

 彼は苦笑する。


「でも、好きならいいじゃないですか、結婚したら」

「そうか」

 私は頷いた。

「わかった、結婚する」

「そんなあっさり?」

「誰かにお墨付きもらいたかったんだ」

「なるほど」

 神崎くんなら安心だ。


「ご結婚おめでとうございます」

「ありがとう」

 まだ結婚してないが、私は浮かれ気分でグラスを煽った。そして、調子に乗って飲みすぎたのだった。


 ★


 鳥の鳴き声が聞こえてくる。ああ、朝が来た。なんか頭が重だるい……


 私は、うっすら瞳を開いた。ぼんやりした視界に、誰かのシルエットが映っている。この人は……。

 その人物がくるりと振り向き、笑みを浮かべた。


「おはようございます」

 あ、神崎スマイル。

「おはよう……」

 かすれ声で言って、起き上がろうとしたら、激しい頭痛が襲ってきた。

「うっ」

「大丈夫ですか?」

 神崎くんがグラスを差し出してくる。


「ここ、神崎くんち?」

「はい。小城さん、ベロベロに酔ってたし」

「ごめん」

 なんて迷惑な女なのだ、私は。あれ? なんかスースーする。見たら、下半身はショーツのみだ。


「!?」

 狼狽する私をよそに、神崎くんはコーヒーを飲んでいる。絵になるなあ。なんかドラマみたい。現実だから、首のあたりがひやっとしたが。

「ああ、そういえばさっき、新田さんから電話がありましたよ」

「へ」

「小城さん、寝てたからとっちゃいましたけど、まずかったですか」

「え、いや、そんなことは」


 あれ? 若干まずいような気がするぞ。

 私はもぞもぞとズボンを履き、スマホを手にした。履歴から新田さんにリダイアルすると、数コールで通話がつながる。

「はい」

「あ、新田さん、おはようございます」

「おはよう」


 なんだか声が低い気がした。私がなんと言っていいか迷っていると、神崎くんが大き目の声で話しかけてくる。

「妙子さん、コーヒー飲みます?」

 私はひっ、と叫び、思わず電源を落とす。それから神崎くんを睨みつけた。


「ちょっと、神崎くん」

「ん?」

「今のはなに」

「なにって?」

「普段名前でなんか呼んでないでしょうが!」

「親しみを込めて呼んでみました」

 神崎くんは笑みを浮かべる。なんだか嫌な予感がする。


「し、してないよね?」

「なにがですか?」

「だから……」

 彼は一瞬視線を上向けたあと、

「妙子さんって、お腹弱いですね」

 そう言って、白い歯を見せて笑った。

「!」

 固まった私を見て、神崎くんは目を細める。

「冗談ですよ。何にもしてません。勝手に脱いで、すぐ寝ちゃっただけですよ」


 大抵の人、お腹弱いですもんね。神崎くんはしれっと言う。この男、歯は白いが腹のなかは黒い。私はかばんをひっ掴み、お邪魔しました、と早口で告げた。神崎ハウスを飛び出して、近くにあった喫茶店に飛び込む。


 近づいてきた店員に、

「コーヒーください」

「種類はどうしましょう。当店自慢のオリジナルブレンドがございますが」

「じゃあそれで」


 コーヒーの味などわからないので、せかせかと注文を終えた。スマホを取り出して、コールする。応答音が聞こえたので、口を開いた。

「あの、新田さん」

「本」

「え?」

「あの本、忘れてったでしょ、クリスティーの。郵送するから受け取ってよ」

「は、い」


 じゃあ。新田さんはそう言って、通話を切ろうとする。

「ま、待ってください。神崎くんとは、なんにもなくて」

「別にいいわよ」

「え?」

「アンタが誰と寝ようが、自由だから」

 私は喉を震わせた。どうして、そんなこと言うの。


「プロポーズ、したじゃないですか」

「あれは、アンタが一生諦めなさそうだから、引き受けないと仕方ないかと思って」

 仕方ない? 神崎くんが言っていた妥協という言葉が、頭のなかをぐるぐる回った。


「私、犬や猫じゃありません」

 新田さんが黙りこんだ。ああ、そうなんだ。新田さんにとって、私は犬猫みたいなものなんだ。だからキスしたり、ぎゅってできるんだ。わかってる。わかってるから、胸が苦しいんだ。


「……ごめん、小城」

「謝らないでください」

「アンタが、好きよ。かわいいなって思うわ。でも、アンタの言う通りなのかもしれない。犬や猫みたいに扱ってたのかも」


 苦しい。私はシャツを握りしめた。そんな言葉聞きたくない。だって、次に新田さんが口にするのは、絶対に別れの言葉だから。


「おかしいわよね、そんなの。アンタは、人間の女。大人の女だもの」

 新田さんは、かすれた声で言った。

「もう、会わないほうがいいわね」

 いやだ。

「新田さ」

「幸せになって」


 通話が切れた。ツー、ツー……。かすかな断続音が、遠くなる。


 また、振られてしまった。私は何回、新田さんに振られるんだろう。いっそ、犬や猫ならよかった。そしたら、性別なんか関係なく、新田さんのそばにいられたのに。女だから。女だから、ダメなんだ。男に生まれたかった。神崎くんみたいな、イケメンに生まれたかったな。


 涙がこぼれ落ちて、手の甲に落ちる。コーヒーを運んできた店員が、気遣わしげに話しかけてきた。

「お客様」

「大丈夫、です、花粉症で」

 私は、泣きながらコーヒーを飲んだ。鼻が詰まっていたからだろうか。オリジナルブレンドのよさが、あまり良くわからなかった。

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