そのさん。
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新田さんに、プロポーズのようなものをされた。正確には、結婚を打診された、って感じだろうか。なんだろう、この感じ。全然打てそうになかったのに、四球でうっかり一塁に出てしまったバッターみたいな。当然嬉しいのだけど。
翌日、私は夢見心地で会社に来ていた。午前中の仕事を終え、ポーっとした表情で弁当を食べていたら、神崎くんが近づいてきた。彼は爽やかという言葉を形にしたような好青年で、かつて新田さんをメロメロにしていた。
「小城さん、新田さんに会いに行ったんですよね。どうでした?」
「ああ、うん、元気だったよ」
「そうですか、よかった」
あとプロポーズされたよ。そう言いそうになって、口ごもる。まだ二塁にいけるかどうかわからないのに、一塁に出たくらいではしゃぐのはどうかと思ったのだ。
「小城さん?」
「神崎さーん、お昼一緒に食べましょう~」
新入社員にして、神崎くんを結婚的な意味で狙う女子社員、宮園さんがやってきた。神崎くんは困り顔になり、私を見つめた。そんな、助けを求める子犬みたいな顔で見ないでほしい。
「あれ? 小城さんとお昼ですか」
宮園さんは小首を傾げた。可愛らしい仕草だが、目が笑っていない。神崎くんがはは、と笑った。
「そうなんだよ。ごめん、宮園さん」
彼女はぱっ、と笑みを浮かべ、
「いいんです。じゃ、また明日しましょうね」
自分の席に帰って行った。神崎くんは深いため息をつく。
「いいの? 宮園さん、目がすごかったよ」
「ちょっと苦手なんです」
「かわいいじゃない」
「かわいいけど、なんか、目が鷹みたいというか、食われそうで」
その感覚は、間違っていないのかもしれない。神崎くんは捕食される側なのだろう。捕まったが最後、二人はバージンロードの先でキスをするのだ。さもありなん。
私は、神崎くんに尋ねてみた。
「ねえ、神崎くん。好きじゃない女にプロポーズするって、どういうケースが考えられる?」
「へ?」
神崎くんが目を瞬く。
「どういう、って?」
「何か思惑があるとか」
彼は考えこんだ。
「うーん……そうですね、とにかく寂しいとか、親の期待とか、妥協とか」
「妥協」
私は妥協されたのか。ちょっと傷つく。
「もしかして、誰かにプロポーズされたんですか?」
私は曖昧に頷いた。
「小城さんは、その人のこと好きなんですか」
「……大好き」
そう答えたら、神崎くんがハッとした。
「まさか、新田さん?」
鋭いぞ、神崎くん。
「でも新田さんって……」
「うん、そうなんだ」
新田さんは、私を抱けないって言ったのだ。実際そうだろうし、いたさない夫婦が果たしているのだろうか。なんにしてもこの話、会社でするには赤裸々すぎる。神崎くんもそう思ったのか、
「今日、飲みに行きません?」
「うん」
頼りになるぞ、神崎くん。
★
私と神崎くんは、会社近くの居酒屋へと向かった。月曜だからなのか、店内は空いている。週の初めは英気を養わねばならないから、みんな早く帰るのだろう。休みまであと5日もあるっていうのは、実際キツイ。
「この店、よく新田さんと来てたんだ」
私が言うと、
「ああ、僕が連れてってもらえなかった店ですね」
「……その節はすいません」
私は、新田さんお気に入りの神崎くんにヤキモチを焼いていた。だから、彼と二人きりで飲みに行くのを拒んだのだ。あれは最強に感じ悪かっただろうな、と思う。スーパー好青年の神崎くんは笑う。
「はは、気にしてませんよ、もう」
なんていい人なのだろう。彼は枝豆をつまみ、
「あの時、小城さんは新田さんが好きなんだろうな、と思ったんです」
すごいぞ神崎くん。その時点では、私は自分の気持ちには気づいていなかった。なんだか、枝豆を食べる姿さえまぶしく思えてくる。
「どうすればいいかな」
「そんな、子犬みたいな目で見つめられても」
神崎くんは笑う。
「他に相談できる人いないんだ」
私もなかなか寂しい人間である。
「迷うんだ。意外ですね」
彼は首を傾げた。
「失礼だけど、尻尾振って飛びつくと思ってた」
「失礼だけどって、なんか神崎くん、発言が黒いよ」
「すいません。昔から結構、思ったことをすぐ口にしちゃうとこがあって」
神崎くんは続ける。
「トラブルも割とあったんですが、母いわく、あんたは顔がいいんだから、とりあえず笑っとけと言われまして」
私は得心した。あの笑顔は、一種の処世術だったわけだ。
「そうして神崎スマイルが出来上がったわけだ」
「神崎スマイルってなんですか」
彼は苦笑する。
「でも、好きならいいじゃないですか、結婚したら」
「そうか」
私は頷いた。
「わかった、結婚する」
「そんなあっさり?」
「誰かにお墨付きもらいたかったんだ」
「なるほど」
神崎くんなら安心だ。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう」
まだ結婚してないが、私は浮かれ気分でグラスを煽った。そして、調子に乗って飲みすぎたのだった。
★
鳥の鳴き声が聞こえてくる。ああ、朝が来た。なんか頭が重だるい……
私は、うっすら瞳を開いた。ぼんやりした視界に、誰かのシルエットが映っている。この人は……。
その人物がくるりと振り向き、笑みを浮かべた。
「おはようございます」
あ、神崎スマイル。
「おはよう……」
かすれ声で言って、起き上がろうとしたら、激しい頭痛が襲ってきた。
「うっ」
「大丈夫ですか?」
神崎くんがグラスを差し出してくる。
「ここ、神崎くんち?」
「はい。小城さん、ベロベロに酔ってたし」
「ごめん」
なんて迷惑な女なのだ、私は。あれ? なんかスースーする。見たら、下半身はショーツのみだ。
「!?」
狼狽する私をよそに、神崎くんはコーヒーを飲んでいる。絵になるなあ。なんかドラマみたい。現実だから、首のあたりがひやっとしたが。
「ああ、そういえばさっき、新田さんから電話がありましたよ」
「へ」
「小城さん、寝てたからとっちゃいましたけど、まずかったですか」
「え、いや、そんなことは」
あれ? 若干まずいような気がするぞ。
私はもぞもぞとズボンを履き、スマホを手にした。履歴から新田さんにリダイアルすると、数コールで通話がつながる。
「はい」
「あ、新田さん、おはようございます」
「おはよう」
なんだか声が低い気がした。私がなんと言っていいか迷っていると、神崎くんが大き目の声で話しかけてくる。
「妙子さん、コーヒー飲みます?」
私はひっ、と叫び、思わず電源を落とす。それから神崎くんを睨みつけた。
「ちょっと、神崎くん」
「ん?」
「今のはなに」
「なにって?」
「普段名前でなんか呼んでないでしょうが!」
「親しみを込めて呼んでみました」
神崎くんは笑みを浮かべる。なんだか嫌な予感がする。
「し、してないよね?」
「なにがですか?」
「だから……」
彼は一瞬視線を上向けたあと、
「妙子さんって、お腹弱いですね」
そう言って、白い歯を見せて笑った。
「!」
固まった私を見て、神崎くんは目を細める。
「冗談ですよ。何にもしてません。勝手に脱いで、すぐ寝ちゃっただけですよ」
大抵の人、お腹弱いですもんね。神崎くんはしれっと言う。この男、歯は白いが腹のなかは黒い。私はかばんをひっ掴み、お邪魔しました、と早口で告げた。神崎ハウスを飛び出して、近くにあった喫茶店に飛び込む。
近づいてきた店員に、
「コーヒーください」
「種類はどうしましょう。当店自慢のオリジナルブレンドがございますが」
「じゃあそれで」
コーヒーの味などわからないので、せかせかと注文を終えた。スマホを取り出して、コールする。応答音が聞こえたので、口を開いた。
「あの、新田さん」
「本」
「え?」
「あの本、忘れてったでしょ、クリスティーの。郵送するから受け取ってよ」
「は、い」
じゃあ。新田さんはそう言って、通話を切ろうとする。
「ま、待ってください。神崎くんとは、なんにもなくて」
「別にいいわよ」
「え?」
「アンタが誰と寝ようが、自由だから」
私は喉を震わせた。どうして、そんなこと言うの。
「プロポーズ、したじゃないですか」
「あれは、アンタが一生諦めなさそうだから、引き受けないと仕方ないかと思って」
仕方ない? 神崎くんが言っていた妥協という言葉が、頭のなかをぐるぐる回った。
「私、犬や猫じゃありません」
新田さんが黙りこんだ。ああ、そうなんだ。新田さんにとって、私は犬猫みたいなものなんだ。だからキスしたり、ぎゅってできるんだ。わかってる。わかってるから、胸が苦しいんだ。
「……ごめん、小城」
「謝らないでください」
「アンタが、好きよ。かわいいなって思うわ。でも、アンタの言う通りなのかもしれない。犬や猫みたいに扱ってたのかも」
苦しい。私はシャツを握りしめた。そんな言葉聞きたくない。だって、次に新田さんが口にするのは、絶対に別れの言葉だから。
「おかしいわよね、そんなの。アンタは、人間の女。大人の女だもの」
新田さんは、かすれた声で言った。
「もう、会わないほうがいいわね」
いやだ。
「新田さ」
「幸せになって」
通話が切れた。ツー、ツー……。かすかな断続音が、遠くなる。
また、振られてしまった。私は何回、新田さんに振られるんだろう。いっそ、犬や猫ならよかった。そしたら、性別なんか関係なく、新田さんのそばにいられたのに。女だから。女だから、ダメなんだ。男に生まれたかった。神崎くんみたいな、イケメンに生まれたかったな。
涙がこぼれ落ちて、手の甲に落ちる。コーヒーを運んできた店員が、気遣わしげに話しかけてきた。
「お客様」
「大丈夫、です、花粉症で」
私は、泣きながらコーヒーを飲んだ。鼻が詰まっていたからだろうか。オリジナルブレンドのよさが、あまり良くわからなかった。




