そのに。
★
作業が終わる頃には、私の足は棒のようになっていた。ふらふらしている私に、新田さんが声をかける。
「アンタ、お風呂先に入りなさい」
「え、でも」
家長より先に入るって、いいんだろうか。
「いいわよ。おっさんの後は嫌でしょ。風呂場は廊下の突き当たりだから」
おっさんと呼ばれた耕三さんは、聞こえているはずだが反応しない。じゃあ、お先に。私はそう言って、そそくさと風呂場へ向かった。
髪を拭きながら居間へ向かうと、新田さんがパソコンを使っていた。
「何してるんですか?」
私は、新田さんの手元を覗きこんだ。
「サイレージの、利益が出やすい品種割合を調べてるの」
新田さんはちらりとこちらを見て、
「アンタ、髪ベッタベタよ。ちゃんと拭きなさい」
「今拭くところ、わっ」
私の腕を引っ張って座らせた。わしわしと髪を拭いてくる。
「ドライヤー、洗面所にあるから乾かしてきなさい。ああ、コード古くなってるから濡らさないでよ、感電するかもしれないから」
「わかりましたよ」
耕三さんが、ぽかんとした顔で私を見送った。あ、あの親子、仲悪いけど、二人きりにして大丈夫だろうか。そう思って、廊下で盗み聞きをする。
「……本当にただの元後輩なのか?」
耕三さんの言葉に、パソコンを叩く手が止まる。新田さんは、低い声で言った。
「認めるわ。あの子は、他の女とは違う。特別なの」
その言葉に、どきりとする。
「だけどね、特別だからセックスしたいわけじゃないの」
「つまり、女として、じゃないのか」
「そう。あの子が好きなの。だけど、愛せない」
好きなのと、愛しているのは違うのだろうか。私は、新田さんを愛しているんだろうか。新田さんと、キス以上をしたいのだろうか。
「アタシは、あの子にひどいことをしてるのよ」
新田さんはつぶやく。
「わかってるわ。最低なの。愛せないのに、そばに置きたいから、あの子の気持ちを利用してるのよ」
「……俺にはよくわからんが」
耕三さんがつぶやく。
「妙子さんは、いい子だ」
「ええ」
私は、しっとり濡れたタオルを掴んだ。湯冷めしてしまったのか、足がひどく冷たかった。振られたのに、こんなところまできて、彼の実家のお風呂に入って、髪は濡れたままで。私はいったい、何をしているんだろう。
現実の寒々しさを知った気がした。
夕食中、新田さんの顔が見られなくて、私はテレビの方ばかり見ていた。さっきの話は、聞かなかったふりをしよう。明日になれば、きっと平気な顔ができる。素早く夕食を食べた私は、新田母に部屋へと案内された。
「ここ使って。お客様用の部屋です」
「ありがとうございます」
私は荷物を置く。すでに布団が二組しかれていた。
「あれ?」
不思議に思っていたら、風呂上がりの新田さんがやってくる。
「ねえ、アタシの布団知らない?」
彼が室内に入った瞬間、ドアが閉まった。
「あっ」
新田さんがドアを開けようとしたが、びくともしない。
「な、何事ですか!?」
「つっかえ棒でもしたんでしょ。あー、しんじらんない」
新田さんはため息をついて、布団に寝転がる。私は正座して、目を泳がせた。
「なぜ、こんなことを」
「あの人たち、男女を部屋に放り込んどけば子供ができると思ってんのよ」
赤裸々な言葉に、私は赤くなる。
「話通じないのよね、団塊の世代って」
「それはどうでしょう」
「まあね。話が通じない奴はどの世代にもいるわね」
スパッと言い放った新田さんは、私の手元に眼をやる。
「何読んでんの?」
「アガサ・クリスティーです」
ハロウィンが題材のミステリー小説だ。
「へー。ポアロ? 好きなの?」
「この表紙が印象的で」
「かぼちゃランタンね」
なんでランタンってかぼちゃなのかしら。新田さんがつぶやく。
「細工しやすいんじゃないですか」
「そうね。かたちもいいし」
彼はパラパラと本をめくり、
「アタシ、ハロウィンって嫌いなのよ」
「どうしてですか?」
「アンタは好きそうね」
「別に好きではないですが、お菓子が食べられるので」
「肥えるわよ。っつーか、なんか肥えたわよね」
新田さんが、私のほおを引っ張った。
「痛いです。というか、肥えてません」
「肥えたわよ。まだ若いって言えるうちに、さっさと結婚しなさいよ」
でた、結婚しなさいよ。
「余計なお世話ですよ」
私が小さな声で言ったら、新田さんが首を傾げた。
「どうしたのよ」
「なんでもないです」
顔をそらしたら、新田さんが身を寄せてきた。あっ、と思った瞬間──手で口を塞がれた。
「え?」
ぽかんとしている間に、布団に押し倒された。至近距離に顔が近づいて、心臓が跳ねる。
「新田、さ」
「静かにして」
新田さんは指を立て、しいっ、と囁いた。そっと手を伸ばし、ドアを素早く開ける。ドアの向こうには、新田父母がいた。どうやら聞き耳を立てていたようだ。新田さんは眉をあげ、
「なにしてんの?」
「な、なんでもないわよ。ねえ、父さん」
助けを求められ、耕三さんは知らん顔をしている。
「変な期待すんなって言ってんじゃない」
新田さんはため息をつき、
「寝るから、邪魔しないで」
ドアを勢いよく閉めた。そうして私を振り向く。
「布団運ぶのめんどうだから、ここで寝るわ」
私は、押し倒された状態のまま固まっていた。新田さんが手を打ち鳴らす。
「ちょっと、小城?」
「だ、大丈夫です。びっくりしただけで」
私はハッと目を開き、もぞもぞと起き上がる。心臓は、いまだにバクバク鳴っていた。新田さんはまったく気にした様子がなく、クリスティーを読んでいる。
「あの」
「なに」
「なんで、ハロウィン嫌いなんですか?」
ページをめくる手がとまった。
「高校の時ね……好きな人がいたのよ」
新田さんは、ああ、男ね、と付け加えた。当たり前だが、ちょっとずしりときた。
「図書館でよく一緒になって、本の話をしてた。「ライ麦畑でつかまえて」って読んだことある?」
「いえ」
「アタシ、あの主人公の気持ちがよくわかったのよ。彼もそうだって盛り上がった。まああの年代なら、みんなそう思ったのかもしれないけど」
どんな話なのだろう。私はそう思う。恋愛小説だろうか?
「海辺でいちゃつくカップルみたいなタイトルですよね。私を捕まえてごらんなさーい、って感じ」
「そんな話じゃないわよ。ばっかじゃない」
私はむっとした。新田さんはちらりとこちらを見て、
「まあ、実は私もうまく説明できないわ。ただ、わかった気になってたのかも」
新田さんはつぶやいて、
「彼とのことと一緒ね。わかった気になってた。アタシと同じ気持ちなんじゃないか、って」
「……両思いだったんですか?」
「さあ。雰囲気よ、雰囲気」
彼は本の表紙をなでて、
「ハロウィンの日にね、お菓子がないならおまえら罰ゲームだ。キスしろよってからかわれたの」
目を伏せる。
「周りに悪気があったわけじゃないの。その頃はまだ隠してたから。男が好きだって」
「それ、で」
「したわよ? アタシ、その頃は派手なグループにいたから」
気持ち悪いって、大げさにリアクションした。彼の方は見られなかった。新田さんは、そう言った。
「それから、なんとなく話さなくなったわ」
新田さんは眼を伏せた。
「しばらくして彼は、下級生の女の子と付き合いはじめた」
苦笑いし、
「両思いだとか、いい感じだとか、全部アタシの思い込みだったワケ。痛いでしょ」
そうだろうか。本当のところは、本人に聞いて見ないとわからない。私はそっと、新田さんに近づき、頭を撫でた。彼は、怪訝な顔でこちらを見る。
「なによ」
「元気、出してください」
「あのね、いくつだと思ってんの。もう気にしてないわよ」
新田さんはうるさそうに腕を払う。
「いくつになっても、忘れられないことありますよ」
「おばあちゃんか、アンタは」
新田さんは、呆れ気味に言う。
「大体ね、キスなんか大したことじゃないのよ。処女にはわかんないでしょうけど」
私はむっとした。
「じゃあ、もう一回してください」
言ってしまってから、後悔した。新田さんはじっとこっちを見ている。
「い、いや、あの、冗談ですから」
目を泳がせていたら、
「……目、瞑りなさいよ」
新田さんの手が、顎にかかる。切れ長の瞳に見つめられて、ドキドキしすぎて、頭が真っ白になる。鼓動がいやにうるさい。私はつま先をきゅっ、と曲げた。あ、なんか、むずむず、する……。
「はくしょん!」
新田さんがばっ、と後ずさった。
「このタイミングで普通する!?」
悲鳴のように、叫ぶ。
「す、すいません」
私は口を押さえ、真っ赤になる。
「あーもう」
新田さんは不機嫌な表情で顔をぬぐう。
「ティッシュどうぞ」
私がティッシュを渡すと、ひったくるように奪われた。私は両腕をさすり、
「北海道って、寒いですね」
「あったり前でしょ。アンタ馬鹿?」
新田さんはティッシュを丸めて放る。それはゴミ箱には入らず、縁に当たって落下した。新田さん、華麗なる舌打ち。
部屋に、なんとも言えない空気が漂う。新田さんは平坦な声を出した。
「もう寝ましょ」
「は、はい」
私は布団に潜り込む。新田さんは電気を消し、私に倣う。こちらに背を向けている、新田さんの後ろ姿が見える。
なんでだろう、一生叶わない恋なのに、新田さんの後ろ頭を見ているだけで胸が弾むのは。と、新田さんが勢いよく振り向いた。
「ちょっと、ジロジロ見てんじゃないわよ。後頭部が痛いわ」
「あ、す、すいません」
私が謝ると、新田さんがため息をついた。彼は布団をめくり、
「こっちきて」
「え」
「寒い。早く」
私は恐る恐る、新田さんの布団に近づいていった。お邪魔します、と言って布団に入ると、新田さんが後ろから抱きしめてくる。
「!」
心臓が止まりかけた。耳もとに、かすれ声が響く。
「視線がうざいから、あんたはこうやって寝なさい」
寝られるわけがない。長い腕の感触、身体に伝わる体温。首筋に、かすかに触れる吐息。
「に、新田さ」
「なに」
「これ、だめです」
「なにが?」
「ドキドキして、眠れません」
「ふうん」
ますますぎゅっと抱きしめてくる。私は眼を泳がせた。
「なんでかしら」
新田さんがつぶやく。
「え?」
「アンタとなら、くっついててもいいって思える」
「……」
私は方向転換し、新田さんにぎゅっとくっついた。くっつくだけで、赤ちゃんができたらいいのに。そう思う。そしたら誰も傷つかないのに。
新田さんは程なくすやすやと寝息をたてはじめたが、私はなかなか寝付けずにいた。やっとで眠りについたのは、夜明けに近い時刻だった。
肌寒さにぶるりと震え、私は眼を覚ました。顔だけが、冷気にさらされている。
「……」
ちょっと足が痛いのは、筋肉痛だろうか。
なにか違和感を覚え、視線を下に向けた。新田さんの手が、さわさわお腹を撫でている。その手が服をめくりあげたので、私はギョッとする。
「に、新田、さ」
「ん」
新田さんは甘えるみたいにして、髪を擦り付けてくる。柔らかい髪の毛が首筋に触れると、お腹の奥がきゅっとした。さっきから、心臓が痛いほど鳴っている。
新田さんの手は、お腹のあたりから、するりと上の方に移動する。息を止めていたら、新田さんが身じろぎした。彼はノロノロと瞳を開き、私を見る。
「なにしてんの、あんた」
「に、新田さんが、こいって」
「ああ……え?」
彼は、私に触れている手を二度見した。それから真剣な顔で、
「アタシ、女をベタベタ触るなんて……マズイのかもしれない」
「そんな、青くなって言うことじゃないと思いますが」
「アンタの腹があまりに柔らかいから……」
「ちょっと、失礼でしょう」
新田さんはかぶりを振って立ち上がる。ドアに手をかけた。
「着替えたら下来て」
そう言って部屋を出て行く。私は、触られたところを撫でる。顔を赤らめ、ぽつりとつぶやいた。
「……赤ちゃんできるかと思った」
責任とってもらいたい。
下に降りていくと、新田家はすでに朝食を摂り始めていた。寝不足で赤い目の私に、新田父や母の、期待を込めた視線が集まってくる。
「言っとくけど、なんにもしてないから」
新田さんの鋭い声が飛ぶ。途端に父母はがっかりした顔になる。
ちょっと触られたような気がするんですが。さっきのことを思い出すと、またむずむずして、私は足の指をきゅっと曲げた。
朝食を食べ終えた私は、新田夫妻に見送られ、新田さんの車に乗りこんだ。
「また来てね」
新田母は力強く言い、父は無言で頷く。別れを惜しんでいたら、
「早く行くわよ」
新田さんが呼んだ。車に乗り込み、父母に手を振る。新田さんはまたサングラスをかけていた。似合うけど、なんだか違和感がある。
「なんでサングラスかけてるんですか?」
「眩しいからよ」
「そうかなあ」
「鈍いのね、アンタ」
確かに、新田さんはちょっと色素が薄い。
フロントガラスから差し込む光が反射して、新田さんの髪がきらきら輝いている。私は眼を細めてそれを眺めた。きれいだな。
カーステレオから、音楽が聞こえてくる。新田さんは、こういう音楽が好きなんだ。知らなかった。新田さんのこと、もっと知りたい。高校の時の話も、もっと聞きたい。
もうすぐ、新田さんとはお別れなんだ。いやだな。もっと一緒にいたい。だけど、車は駅のロータリーについてしまう。新田さんの車は、タクシーの後について、ロータリーに滑り込んだ。
新田さんは、助手席の私を見て、
「ありがとう、手伝ってくれて」
お礼を言われると、胸がくすぐったくなる。
「いえ、またお手伝いします」
そう返したら、
「……やめとくわ。包囲網が狭まって行きそうだし」
「え?」
「っていうか、アタシが狭めてるのかも」
新田さんは、何やらぶつぶつ言っている。大丈夫だろうか。というか、そろそろ飛行機がくる時間だ。
「私、行きますね」
車から降りようとしたら、腕を掴まれた。新田さんが、じっとこちらを見ている。
「新田さん?」
「……アンタ、妙子よね」
「はい、そうですが」
「新田妙子って、ダサいわよね」
「そんなこと……」
私は眼を見開いた。新田さんが何を言おうとしているか、勘付いたのだ。そんな、まさか。
「もしその気があるなら、嫁に来なさい」
新田さんは咳払いをし、
「返事は、次でいいから」
車の戸を閉めて、逃げるように走り去って行く。
「……へ?」
私は思わず、そうつぶやいた。