むじるし。2
★
ギリシア神話に、パンドラっていう美女が出てくる。パンドラは、綺麗だけど記憶力にイマイチ難があったらしく、開けちゃだめだと言われた箱を開けてしまう。それで、世の中悪いことだらけになってしまったらしい。
私はまさしく、箱を開けたパンドラの気分で会社へ向かっていた。パンドラは美人だったし、箱には希望が残ったらしいから、まだいい。
私は美人じゃないし、女に興味がない同僚に告白するという愚行を犯した。希望はゼロ。
つまりは最悪だ。
ノロノロした仕草でエレベーターの前まで行き、昇降ボタンを押すと、誰かが隣にすっ、と並んだ。それが新田さんだとわかり、私は身体をこわばらせる。
「っお、はよう、ございます」
「おはよう」
新田さんと目が合わせられず、エレベーターよ早く来い、と祈る。どやどや乗ってきた社員に押され、私と新田さんは壁際に押しやられた。新田さんは壁に手をついて、ごめん、と言った。私はカラカラの声で、いえ、と答える。
ドクン、ドクン。
自分の心臓が痛いほど鳴っているのがわかり、私は鞄の持ち手をぎゅっと握りしめた。新田さんの腕やシャツと、自分の身体が触れ合うたび、こめかみのあたりが熱くなって、逃げ出したくなる。
早くフロアについて──私はそう祈った。
ポーン、と到着を告げる音がして、みんながドヤドヤ降りていった。新田さんの身体がふっ、と離れる。私は真っ赤な顔を伏せ、息を吐いた。
昼休み、弁当を取り出していたら、肩を叩かれた。振り向くと、新田さんが立っていた。彼はくい、と出口を指し示す。
「ちょっと来て」
さっさと歩き出した新田さんに、私は慌ててついていった。
新田さんが私を連れて行ったのは、会社の屋上だった。風がつよくて、髪がなぶられる。
「ん」
新田さんが、袋を差し出した。私が受け取るのをためらっていると、さっさと受け取れ、とばかりに顎をしゃくる。
「お土産よ。生キャラメル」
覚えててくれたんだ。私はありがとうございます、と言い、袋を受け取った。しばらく、沈黙が落ちる。口火を切ったのは、私だった。
「あ、あの、昨日は変な電話してすいません」
「別にいいけど」
新田さんはいつもより低い声で言った。それに、テンションも低い。もしかしたら、これが新田さんの素なのかもしれない。
ふっ、と視線がこちらを向いた。
──どうしよう、足が震える。聞かなくても、何を言われるかわかっていた。逃げ出してしまいたいのに、新田さんの視線がそれを許さない。
彼は私をまっすぐ見て、
「ちゃんと言ったことはなかったけど、私は男が好きなの。あんた流に言えば、多分生まれつきでね」
それはどうしようもないことだ、と新田さんは言った。
「だから、あんたがどんなにいい子でも、恋愛感情は持てないのよ」
私は、小さな声ではい、と言った。
新田さんは、悲しそうな目でこちらを見た。
「あんたが嫌いなわけじゃないの。でも、無理なのよ」
「わかってます」
「ごめんね」
そんなの、わかってる。胸がヒリヒリして、喉がひどく痛い。なんだろう、これ。風邪でも引いたみたいに、辛い。でも平気なふりをして、尋ねた。
「また、飲みに行ってくれますか?」
「ええ」
「あっ、私今日、お茶当番でした。すいません」
私は頭をさげ、踵を返した。とにかく、その場から逃げたくて仕方がなかった。
給湯室でお湯が沸く間、湯のみの準備をする。ぼうっとしていたせいか、つるっ、と滑り落ちた湯のみが、音を立てて割れた。
「あーあ」
私はしゃがみこみ、湯のみのかけらを拾い集めた。指先が震えて、床にポタリと水滴が落ちる。
多分、もう新田さんとは、今までのようにはできないだろう。私が壊してしまったのだ。新田さんとの関係を。
なんで泣いてるんだろう。泣いたって仕方ないじゃないか。もう元には戻らないんだから。
私は涙をぬぐい、立ち上がって、掃除機を取りに向かった。
それ以来、私は新田さんと飲みに行かなくなった。
★
お土産の生キャラメルは、甘くて、でもちょっとほろにがくて、舌の上ですうっと溶けた。これを全部食べ終えたら、生キャラメル、美味しかったです、って言おう。そうして、新田さんと普通に話せるようになるんだ。
だって新田さんと私は、これからも同僚なんだから。
私は、生キャラメルを毎日ひとつずつ食べた。そうして、箱の中身があと一つになったころ。
名古屋に、大雪が降った。
しんしんと、雪が降っている。お昼休み、私はコーヒーを片手に、窓の外を見ていた。朝から雪がちらついていたが、昼になって、積雪量は大幅に増えた。こんなに降るのも珍しいな。
つもったら、帰れなくなってしまう。今からホテルの予約をしたほうがいいだろうか。そんなことを考えていたら、隣に人が立った。それが誰かわかり、私は少しだけ身じろぎする。
「二十年に一度の大雪ですって」
「そうですか、どうりで」
声が上擦らないよう気をつけながら、私は返事をした。平気なふりをしても、心臓がばくばく鳴っている。その時、ふっ、と部屋が暗くなった。ブース内がざわつく。新田さんは様子を見てくる、と言い、ブースの外へ向かった。戻ってきた彼は、
「雪のせいで停電らしいわ」
課長がやってきて、復旧まで時間がかかるから、自宅へ帰るよう指示をした。私はスマホで、電車が動いているかどうかを調べる。
「電車、動いてる?」
新田さんの問いに首を振る。
「いえ……」
全線ストップだ。しばらく会社で待機しようか。
「動くまで、うちくる?」
その言葉に、私は戸惑った。以前なら、はいお邪魔します、って言えただろうに。
「でも、ご迷惑じゃ」
「そりゃ、ご迷惑よ。私は他人を家に入れない主義だし」
だけど仕方ないじゃない。
「電車が動いたら帰りなさいよ」
新田さんはそう言って、さっさと歩き出す。私は首にマフラーを巻きつけ、彼の後を追った。
外に出ると、びゅうびゅう横風が吹き付けてきた。私と新田さんは、寒風に耐えながら進み、やっとのことで彼の自宅にたどりついた。その頃には、氷漬けにされたみたいに全身が冷たかった。
「あー寒ッ、冬将軍はまじで人類を滅ぼしに来てるわね」
新田さんは文句を言いながらマフラーを外し、部屋に上がった。私はお邪魔します、と言いながら彼に続く。
私は、部屋の中央にあるものを見て、目を輝かせた。
「わ、こたつだ」
「あんたんち、こたつないの?」
「はい。いいですね」
私はこたつに足を入れ、はー、と息を吐いた。
「ばーさんか、あんたは」
新田さんはココアを淹れてくれた。カップを手で包み、じんわりとした暖かさに浸っていたら、急に現実感が戻ってくる。ここ、新田さんの部屋なんだ。新田さんは、いつもここで寝て起きて、ごはん食べてるんだ。
「ちょっと、ジロジロ見るんじゃないわよ」
「すいません。男の人の部屋、初めて入ったから」
意外というか、殺風景だった。というより、不自然に物がない。よく見たら、部屋の隅にダンボールが積まれていた。
「新田さん、引っ越しするんですか?」
新田さんは、ああ、とつぶやいた。
「もうちょっとしたら話そうと思ってたんだけど……アタシ、会社やめるの」
私は目を見開いた。
「そう、なんだ……」
どこへ? と問うと、北海道、と帰ってきた。
「えらく、遠いですね」
「まあね」
新田さんはそう言って、
「こないだ、有休とったでしょ? あれね、親が倒れたの」
新田さんの父親は、北海道でファームを営んでいるらしい。
「あんたにあげたあの生キャラメル、ファームで作ってるのよ」
もう歳だし、後継者もいない。だからもうファームを閉じるべきだ。新田さんはそう言ったのだそうだ。
「でも、聞かなくって。アタシの父親、すっごい頑固なのよ」
もう、大ゲンカ。新田さんはそう言いつつもふ、と笑う。それから、表情を翳らせた。
「アタシが同性愛者だって、全然認められないし。アタシが結婚して、孫連れて帰ってくるの、待ってんの」
でも、それはできないから。新田さんはそう言った。
「だから、せめて、ファームを守るくらいしか、アタシにはできないから」
私は、唇を噛んだ。新田さんには、もっと自由でいてほしい。そう思った。なににもとらわれない新田さんが、私はすきなのだ。だけどそれは、私のエゴだ。勝手な思いだ。
彼はカップに目をやり、
「あら、カラね」
そう言って、空になったカップを手に、台所へ向かった。
新田さんが、遠くに行ってしまう。手の届かないところへ、行ってしまう。
頭がぐらぐらして、心臓が痛いくらいに鳴っている。私はたちあがり、新田さんのそばに行った。
「焼いたマシュマロ入れると美味しいけど、ないのよね」
新田さんが、ココアの粉をすくう。長い指先。すらりとした背中。もう会えなくなる。嫌だ。そんなの、嫌だ──。
私は、腕を伸ばし、新田さんにぎゅっとしがみついた。新田さんが身じろぎする。
「いかないでください」
くぐもった声が漏れる。
「……それは無理よ。もう手続き済んでるし」
「じゃあ、私もついていきます」
無理よ。そう言われ、無理じゃありません、と返した。
「アンタ、うざいわね。っていうか重いわ」
離しなさい。そう言われて、私はびくりと震えた。腕を引くと、新田さんの手が頭に触れた。彼は、今まで見たことのない、優しい顔をしていた。私の髪を撫でながら、新田さんは言う。
「あんたのこと、すきよ。女の中では、一番好きよ」
それは優しいけど、残酷な言葉だった。
「……全人類で、一番がいいです」
「ワガママね」
新田さんは私の頰を引っ張った。
「変な顔」
彼は笑いながら、
「早く結婚しなさい」
そう言った。その言葉は、本気だった。新田さんのことは忘れろって言ってるのだ。私は震える声で、はい、と答えた。
そうして、新田さんは、二ヶ月後、会社を退職し、北海道へと旅立った。
★
この世には、超えられないものがある。男と女の間には壁がある。私は男にはなれないし、性転換でもしたら別なんだろうけど──たとえしても、精神的には女だ。
新田さんは、男と女のハザマにどんっ、と居座っている。多分、いくら時が経っても、それは変わらないのだ。
私は、箱の中に一つだけ残った、生キャラメルを見つめた。パンドラは、災厄をまき散らしたあと、残った希望で世界を救ったのだろうか。
私の恋が叶おうが叶うまいが、世界はなにも変わらない。それでも、希望を手放したくなかった。
私は、新田さん、とつぶやいて、生キャラメルを握りしめた。
★
新田さん、お元気ですか? 私は元気です。名古屋は毎日暑いです。北海道は涼しいですか? 夏休みが取れたら、遊びに行きたいんですが、だめですか?
私はメールを打ち、送信ボタンを押した。時計をちら、と見る。もうすぐお昼休みが終わる。
「神崎さあん」
キャラメルみたいな声の女子社員が、神崎くんに話しかけている。神崎くんは爽やかスマイルを向けつつも、ちょっと気圧されていた。
「宮下さんまたやってるわよ」
「何のために会社来てんだか」
女子社員たちがチクチクと言う。羨望と嫉妬がおりまぜになった怖い顔。私が新田さんと神崎くんに妬いていたときも、あんな顔をしてたんだろうか。
私はその場のおっかない空気に肩をすくめ、給湯室に向かった。触らぬ神崎に祟りなし。なんちゃって。
湯呑みを洗っていたら、スマホが鳴ったので、水気を拭いてから手に取る。新田さんからのメールだ。そこにはただ一言、
「邪魔だから来ないで」
と書かれていた。
新田さんがいなくなってから半年が経った。変わったことといえば、髪を切ったことと、名古屋に夏がやってきたことくらいだ。
名古屋の夏は、とにかく蒸し暑い。一歩外に出るなり、スチームで焼かれているような気分になる。
それでも、夕方は多少涼しい。私は水曜日になると、一人で居酒屋へ向かう。新田さんとよく行った居酒屋で、ちびちび飲んで、帰る。その習慣が、今日は妙に気鬱だった。
新田さんには会えないし。
ざわざわとした喧騒に、なんだか寂しさが込み上げてくる。
私は、スマホを取り出し、受話器マークを押した。呼び出し音のあと、はい、と声がする。──あ、新田さんの声だ。ドキドキしながら、名前を呼ぶ。
「……新田さん」
「なに、なんか用」
「ちょっと、寂しくて」
「ハア? 寂しくて電話? 独居老人か、アンタは」
すごい例えである。
「っていうか、彼氏にでも電話しなさいよ」
「彼氏は、忙しいひとなので」
彼氏なんかいなかったが、とっさに見栄を張る。ちょっとは気にしてくれるかと思ったのだ。
「あっそ。切るわよ。じゃあね」
プツッ。ツーッ、ツーッ。通話が途切れ、断続した通話音が聞こえる。
「……」
私はため息をついて、ビールのお代わりを頼もうとした。
と、目の前にいきなり人が座った。その人は手を上げて店員を呼び、
「すいません、生ひとつ」
私の方を見た。
私はポカンとして、その人──新田さんを眺める。少し日焼けして、髪が短くなっていた。新田さんは久しぶり、とか元気だった? とかじゃなく、ふん、と鼻を鳴らす。
「なに一人で黄昏てんのよ」
「……新田さんの生霊ですか」
「誰が生霊よ。しばかれたいの?」
「なんで、名古屋に?」
「高島屋のデパートで、北海道展ってのがやるのよ」
仕事で来てんのよ。あー疲れた。新田さんはそう言って伸びをする。高島屋は、名古屋駅構内にあるデパートだ。その上階でやる物産展は、いつも混雑する。
「お疲れさまです」
「ねえ、神崎くん元気?」
「あ、宮下さんって新人が現れて、神崎くんに猛烈アプローチしてるので、割とギスギスしてます」
「なによソレ。アタシがいたらそんな女潰してやるのに」
新田さんは、私が食べていた味噌カツを奪いながら言う。
「で、彼氏とやらはどんな男」
「あ、えーと、ムキムキですね」
「で?」
「うーん、あと、竹野内豊に似てます」
適当なことを言うと、新田さんが目を細めた。
「すぐバレる嘘をつくんじゃないわよ」
「……スイマセン」
「全く、こんなとこで一人寂しく飲んでる場合じゃないでしょ」
別にいいじゃないか。誰に迷惑かけたわけでもないし。
「新田さんは、彼氏できましたか」
「できないわよ。周りは牛しかいないし、いい男はみんな結婚してるし」
新田さんはため息をつき、アンニュイな目をした。
「あー、ほんと、オランダに行きたいわ。出会いがあるかもだし」
「行けばいいじゃないですか。まだ飛行機飛んでますよ」
「アンタ人の話聞いてた? 物産展があるんだっつの」
「キャラメル、売るんですか?」
「まあね」
「私にも売ってもらえますか、知り合い価格で」
「ズーズーしいわね、相変わらず」
新田さんはそう言いつつ、スーツケースから袋を取り出した。
「今はこれだけしかないわ」
「通販とかないんですか?」
「基本地元に卸してたからね。デパートと提携するかどうかは、売れ行き次第みたい」
私はへえー、と言いながら、箱の中の内袋を開けようと手をかけた。が、力を入れすぎたらしく──ぱんっ。袋が弾け、キャラメルが床にバラバラと落ちた。
「あっ」
「ちょっとアンタ、何してんのよ」
「す、すいません」
「すいませんねえ、どんくさい子で」
私と新田さんは、周りの客にぺこぺこ頭を下げながら、キャラメルを拾い集めた。テーブルの下に落ちたキャラメルを拾おうと手を伸ばすと、額同士がこつん、とぶつかる。
「いて」
私は額を手で押さえた。目の前に、新田さんの顔がある。その顔が微妙に近づいて──唇が、触れ合った。
「!」
後ずさった拍子に、頭がテーブルにぶつかり、ガンッ、と音がする。
「〜っ!」
悶絶している私を放置し、新田さんはキャラメルを拾い上げ、テーブルの下から身を引いた。私は顔を赤くしながら、新田さんをにらむ。
「……いまの、なんですか」
「さあ。なんでしょうね」
彼は素知らぬ顔で言い、キャラメルを口に放り込んだ。ま、まるで気にしていない……。
新田さんは、キャラメルを飲み込み、
「オランダ行く機会があったら、連れてってあげるわ」
「私、オランダ行く必要ないですけど」
「観光がてら、各地で生キャラメルを売るの。よくない?」
「いいですねえ」
そんな時が、くるんだろうか。来たらいいな。性別とか関係なく、この人と一緒に歩けたらいいな。
男と女の間には、乗り越えられない壁がある。
新田さんは、ハザマにでんっと存在しているひとだ。もう、私の同僚ではないけれど、変わらずに、壁の間に居座っている。
口の上で転がした生キャラメルは、ちょっと苦くて、でもほんのり甘い、希望の味がした。
私のオネエな同僚/end