むじるし。
この世には超えられないものがある。それは、性別の壁である。少なくとも、本人の努力だけで性別を変えるのは不可能だ。
しかしたまに、性別のハザマにどんっ、と居座るひとがいる。たとえばそう──私のオネエな同僚、新田一馬とか。
私が新田さんと出会ったのは、二年前のことだ。配属になった総務課に、新田さんはいた。といっても、働き始めてしばらくは、直接関わったことはなかった。ただ、やけに顔のいい人がいるな、くらいの認識だったのだ。
初めて口を聞いたのが、給湯室でだった。
「ちょっとアンタ、適当に湯のみ洗ってんじゃないわよ。茶渋がついてんのよ、茶渋が」
私は面食らった。苦情の内容にではなく、彼の口調にである。
「すいません」
硬い口調でそう言うと、なんだそのふてくされた態度はだの、謝るならちゃんと謝りなさいよだのと散々叱られた。彼の説教が終わった頃、私は、とある疑問を口にした。
「生まれた時からその話し方なんですか?」
新田さんは一瞬キョトンとしたあと、息を吸い込み──
「お釈迦様じゃないんだから、生まれた時から喋るわけねーだろがッ」
──さらにガミガミ怒られたのだ。
そんな最悪にもほどがある出会いから数年、新田さんと私は、なぜか今や週一で飲む仲だ。
「さっさと結婚しなさいよ、オギ。あんた一応女なんだから」
新田さんが、味噌カツを食べながらそう言った。これは彼の口癖みたいなものだ。私は言い返す。
「新田さんだって、結婚してないじゃないですか」
「あのね、アタシは結婚できないのよ。オランダとか行かないと無理だわ」
新田さんが放つ女言葉に、周りから怪訝な視線がそそぐ。それもそのはず、新田さんは見た目だけなら普通のサラリーマンなのだ。
──いや、身長は180センチ以上、顔立ちは羨ましいほど整っているから、普通ではないかもしれない。黙っていれば、ananの表紙にでもなれそうだ。
私は腕時計をみながら、
「行けばいいじゃないですか。まだ飛行機飛んでますよ」
「あんたって子は、口だけは達者で可愛くないわね」
新田さんが私の頰を引っ張った。私はすかさず、彼の頰を引っ張り返す。攻防していたら、新田さんの指が離れた。
「見てよアレ。いい男よね〜」
とろけるような声で言いつつ彼が指差したのは、カウンター席に座った、ガテン系のお兄さん。
「ムキムキは好きじゃないので」
「はっ。処女のくせに、なにえり好みしてんの」
私は無言で新田さんの肘を殴った。
「いたっ、なにすんのよ」
「セクハラです」
「なあにがセクハラよ。これだから処女は」
ますますセクハラだが、新田さんなので許せてしまう。
新田さんは串を皿に置き、
「本当ならアタシ、あんたみたいな礼儀のなってない後輩はキライなんだけど、あんた世渡り下手そうだし、なんか情が移っちゃったのよねえ」
「そうですか」
「そうですか、じゃないわよ。はー……」
新田さんが、肘をついた。目を伏せると、刷毛のような長いまつ毛が揺れる。アンニュイな表情に、どうしたんですか、と尋ねた。
「秋じゃない? なんか寂しくって」
「はあ」
私は皿に残っていた味噌カツをたいらげ、天むすを追加注文した。たしかに食欲の秋である。
新田さんはテーブルにのの字を書きながら、
「でさあ、犬か猫でも飼おうと思ってんの。どっちがいいかしら」
「いぬでひょ」
味噌カツを咀嚼しながら言うと、新田さんはたそがれ顔でつぶやいた。
「なんかさあ、一生アンタとここでくっちゃべってる気がして怖いわ……」
私はハア、と適当な返事をし、喉にビールを流し込んだ。
私と新田さんが勤めているのは、名古屋にあるシステム開発会社だ。私たちが所属している総務課には、女の園とかいう怪しい二つ名がつけられている。新田さんがやんわり受け入れられているのは、女性が多いから、というのもあるのかもしれない。
不思議なことに、新田さんは女性社員に騒がれない。どんなにイケメンだろうと、彼は性別イコール新田さんなのだ。
そんな女の園に、アダムがやってきた。
「経理課から移動してきました、神崎航です。よろしくお願いします」
彼は歯磨き粉のCMみたいな笑顔で、女子社員たちを一瞬にして魅了した。
新田さんは他の女子社員と同化して、うっとりと言う。
「見てよあの子、かわいい〜」
「でも、筋肉があんまりなさそうですよ」
私が口を挟むと、新田さんがふふ、と笑った。
「細かいことにはこだわらないのよ、アタシ」
つまりは、新田さんはいい男ならなんでもよしってことなのか。
神崎くんは、私の隣の席になった。爽やかな声で挨拶をしてくる。
「神崎航です。よろしくお願いします」
私も同文句を返した。彼は私の社員証を見て、
「小城妙子さん?」
「はい」
「妙子って、母の名前と同じです」
神崎くんはそう言って、白い歯を見せた。ほんとうに、歯磨き粉業界からCMのオファーが来そうな好青年である。
母親の名前と同じだからなのか、隣の席だからなのか、彼は何かと私に話しかけてきた。
「すいません、コピー機が変なんですが」
「ああ、これ。蹴れば直りますよ」
私は、有言実行とばかりにコピー機を蹴った。神崎くんは、おそらくそんな人間を初めて見たのだろう。びっくりした顔をこちらに向ける。それから、人懐っこい笑みを浮かべた。
「小城さんって、頼りになるなあ」
なかなか気持ちのいい青年である。
時計が十二時を指したので、昼食を買うため席を立つと、見計らったように新田さんが寄ってきた。
「ちょっとアンタ、神崎くんといい感じじゃない、オギのくせに。どんな手使ったのよ」
「私、お母さんと同じ名前らしいですよ」
「なによそれっ、そんなんで仲良くなれるなら、私も妙子にするわよ!」
それは無理がないだろうか。
「あの」
声をかけられ、振り向くと、神崎くんが立っていた。彼は爽やかな笑みを浮かべ、
「お昼、どこかいい店ありますか?」
私と新田さん、神崎くんは、そろってコンビニに来ていた。
「お二人はいつもコンビニなんですか?」
神崎くんがそう尋ねる。
「まちまちですかね。ね、新田さん」
「そうね。あ、アンタこれ食べなさい」
新田さんは、私の持っているカゴに、チキンサラダを入れた。
「勝手に決めないでくださいよ」
「うっさいわね、ニキビがひどいわよ。どうせお菓子ばっかり食べてんでしょ」
「だって、料理作るのめんどくさいんですもん」
「うわっ聞いた? 神崎くん。女子力2よね、この女」
神崎くんはハハ、と笑った。スーパー好青年である彼は、新田さんの口調にも動じない。
「でも、料理イコール女子力って変かも。俺、結構料理するし」
「あら、そうなの? なにが得意?」
新田さんの声のトーンが、二割くらい柔らかくなる。眼差しも慈愛に満ちていた。私に対しては夜叉のようなのに、まるで菩薩だ。
なんか、新田さん、神崎くんに優しくないだろうか。イケメンだから?
二人が仲良くしているのを見ると、なんだかムカムカする。
──ん?
なぜだろう。生理前だからだろうか……。
「ちょっと、なにボーッとしてんのよ」
新田さんに呼ばれ、私は慌ててレジに向かった。彼はできの悪い犬を見る目でこちらを眺め、なにしてんのよ、と言う。
それからまた、神崎くんと優しい声で話し始めた。
私はぶり返してきたムカムカを抑えるため、深呼吸をした。
カチャカチャと、キーボードを叩く音が響く。会社に戻り、作業をしていた私は、打ち込みをしたエクセル表が一段ずれているのに気づいた。
「げっ……」
最悪だ。もうすぐ終業時間だというのに。とりあえず、コーヒーでも飲んで落ち着こう。コーヒーサーバーの方へ向かうと、新田さんと神崎くんが、また仲良く話しているのが見えた。私は反射的に、席へ引き返す。
ムカムカムカムカ……。ムカつきの虫ってやつがいるとしたら、きっといま私の胸を荒らし回っているんじゃないだろうか。
神崎くんが帰っていき、新田さんが近づいてきたのがわかった。あんたまだやってんの?ノロマねぇ。そう言われたら、多分ムカつきがマックスになってしまう──
だが、新田さんは予想に反してなにも言わず、私のデスクに袋を置いた。私は、それをちらっと見る。
「なんですか? これ」
「ニキビに効く薬。飲み薬と、塗る薬があるから」
ちゃんと説明書読みなさいよ。あんた雑だから。新田さんはそう言った。
「あ、ありがとうございます」
新田さんはふ、と笑い、私の髪をくしゃっと撫でた。そのままブースを出て行く。私は化粧ポーチから鏡を取り出し、ニキビ薬をちょいちょい、と塗った。
ちょっと顔が笑っているあたり、私もチョロいな。ムカムカは、ニキビ薬のおかげなのか、すっかり消えていた。
私は電車に揺られながら、スマホでお弁当のおかずを検索する。この、にんじんの肉巻きっておいしそうだな。
駅から自宅へ帰る途中、閉店間近のスーパーに寄った。いくつか食品を買い、帰宅する。テレビを見ながらお茶漬けを食べたあと、台所に立った。
にんじんの皮をピーラーでむき、切り始める。生の野菜って、硬い。うぎぎ、と力を入れていたら、ざくっ、と嫌な音がした。
「痛っ」
切ってしまった中指に、じわじわ血が滲んでいく。全然うまくいかないし、もうやめようか……。そう思っていると、脳裏に、新田さんの感心した声が響いた。
──へえ、あんたやればできるじゃない。
実際そんなこと、一度も言われたことはないけれど。私はティッシュを指にグルグル巻きつけ、再びニンジンに挑んだ。
窓から朝日が差して、鳥の鳴く声が聞こえてくる。
「で、できた……」
全体的に茶色い上に、ごはんの分量が多いが、出来がどうとかはもはや気にならない。
私は、ふらふらしながら布団に倒れこんだ。時刻はもう四時だ。
あと三時間しか寝られないが、眠らないよりはマシだろう。新田さん、驚くかなあ。
「……」
なんだかすごく、恥ずかしくなってきた。どんだけ新田さんに褒められたいんだ、私は。じたばた手足を動かして、布団に突っ伏した。
寝ぼけ眼で出勤した私は、お昼がくるまで、ひたすら弁当の方を気にした。あまりにそわそわしていたので、心配した神崎くんが声をかけてくる。
「大丈夫ですか? 具合でも悪いとか」
「うん、大丈夫」
そしてついに、昼が来た。私は弁当を取り出そうとして、ギョッとする。神崎くんが、ものすごく美味しそうなお弁当を広げていたのだ。卵焼きはつやつやで、ウインナーはたこさん。きんぴらの胡麻も黄金に輝いている。
「お、美味しそうだね……」
「今日時間があったので、作ってきたんです」
神崎くんは、女子社員の間で神崎スマイル、と呼ばれる笑顔を浮かべた。
「ヤダ、美味しそう〜」
新田さんは、キャピッ、という効果音がつきそうな仕草で、手を組み合わせた。そんなキャラじゃないくせに。彼はチラッとこちらを見て、
「あんたは?」
私はお弁当の入ったカバンを抱きしめ、
「あ、コンビニです」
「またぁ?」
神崎くんを見習いなさいよ。その言葉に、ちくりと胸が痛む。もし、新田さんの価値観を天秤であらわしたら、私は神崎くんより、ずっと軽いんだろうなって。
「ちょっと、指どうしたの?」
「カミソリで切りました」
私はとっさに嘘をついた。
「どんだけ不器用なのよ」
新田さんはそう言って、また神崎くんの弁当に向き直った。
もし私が男だったら、新田さんはもうちょっと優しいのだろうか。それとも、男でも茶渋がついてるって怒るのだろうか。
昼休憩が終わるまで、あと五分。私は給湯室で、湯呑みを洗っていた。ゴシゴシゴシゴシ。茶渋がとれるように力を入れる。シンクには、手付かずの弁当があった。
──なんか、ばかみたい。
給湯室のゴミ箱に弁当を捨てようとしていたら、腕を掴まれた。顔をあげると、新田さんが立っている。彼はふん、と鼻を鳴らし、
「なーんか変だと思ったら、こういうこと」
「……」
「アンタ、こんなもんで神崎くんにアピールしようなんてショボいわね。彼の方が百倍料理上手いのに」
私はむっとして、新田さんをにらんだ。
「べつに、神崎くんにアピールしようとしたわけじゃありません」
「じゃあなによ」
何かと聞かれたら困る。ただ、新田さんに言われた女子力2点、という言葉が、妙に胸にくすぶっていたのだ。私が黙りこんでいたら、新田さんがお弁当箱を奪った。
「あ」
「捨てるの勿体無いでしょ。こんなのを神崎くんに食べさせるのは忍びないしね」
新田さんは、まずいとか、なんでおかずが全部茶系なのよ、とか文句を言いながら、箸を進める。
「今度はもっとおいしいのを作ります」
「作らなくていいわよ、あんた料理の才能ないんだから」
「……」
私がうつむいたら、新田さんが叫んだ。
「あーもうわかったわよ、作れば!?」
ただし私はもう食べないからねっ、と言い、新田さんはお弁当箱を突き返してきた。
「ごちそうさまでした、まずかったです」
そう言って、さっさと歩き出す。私は空になったお弁当箱を見て、口もとを緩めた。
その日以来、私は毎日お弁当を作るようになった。
やがてカレンダーが、9月から10月になった。
秋が深まり、一枚上に羽織らないと厳しい季節だ。私も新調したカーディガンを、制服の上に羽織るようになった。
ある日、新田さんが有給申請書を出すのを見かけた。私は彼に近寄って行き、
「新田さん、有給ですか」
「ええ」
「どこか行くんですか?」
「北海道」
「えっ、寒くないですか」
寒いわよ、あったりまえじゃない。あんたバカ? 新田さんは、矢継ぎ早に言った。
「お土産、買ってきてください」
「何が食べたいの」
「カニがいいです」
「嫌よ、荷物になるから。お菓子とかでいいでしょ」
それから新田さんは、三日休んだ。
新田さんが有給をとってから三日目のこと。
私はランチの時間、お弁当を食べながらスマホを見ていた。料理サイトをチェックしていると、神崎くんがコンビニから帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
神崎くんは席について、
「最近お弁当なんですね、小城さん」
「うん、料理の腕をあげたくて」
「誰か、気になる人ができたとか?」
気になる人──そう言われて、一瞬新田さんの顔が思い浮かんだ。まさか。
「いないよ、そんなの」
私はそう言いながら、お弁当を食べた。
業務が終わった帰り際、神崎くんが声をかけてきた。
「小城さん、今日、飲みに行きませんか?」
私は、エレベーターのボタンを押しながら、
「うーん、やめとこうよ。新田さんいないし」
「新田さんがいないと、僕と飲みたくないですか?」
「え……」
私は、神崎くんの方を振り向いた。彼は一瞬真面目な顔をしたあと、笑みを作った。
「ちょっと、忘れ物しちゃいました。じゃあ」
「あ、うん……さよなら」
私はエレベーターに乗り込んで、「閉」のボタンを押した。エレベーターがぐんぐん下がっていく間、神崎くんの言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
新田さんがいないと嫌だなんて、子供みたいじゃないか。そんなことない。私は、新田さんがいなくたって──。でも、神崎くんと二人で飲んでいるイメージは、まるで湧かなかった。
自宅に帰り、冷蔵庫の中身を開けると、卵と玉ねぎ、それに油揚げがあったので、篠田丼をつくる。こんなの料理とは言えないかもしれないけど、ひと月前なら、インスタント食品で済ませていた。料理を作るようになったのは、神崎くんが現れてからだ。
──なんか、違う。
神崎くんが総務課にくる前と、後で、何かが変わった。でも、それが何かわからない。ぐるぐるしている。
こんなの、今までなかった。
私は、サンダルをつっかけて、コンビニに向かった。チューハイを買い込み、自宅に戻る。二杯開けたところで、クラクラしてきて、私は床に寝転がった。
ぼんやりした頭で手を伸ばし、スマホを手にする。アドレス帳を開き、「新田さん」と書かれた番号を押した。プルルルル……着信音が響いたあと、通話がつながり、ハイ、と声がした。
「にったさん、こんばんわ」
「……オギ?」
「ハイ。へへ、オギです。おぎやはぎじゃないほうのオギです」
「ちょっとやめてよ、アタシ結構、あの人すきなんだから」
で、なんなの? と新田さんは尋ねてくる。
「新田さんの声が、聞きたくて」
「……あんた、酔っ払ってない?」
新田さんの声は、いつもより低く聞こえた。素敵な声だ。男のひとの、声だ。
「酔ってませんよぉ」
「酔ってんでしょう。あんまり飲むと明日辛いわよ。早く寝なさい」
「新田さんは、お母さんみたいですねえ」
「アンタみたいなガキを産んだ覚えはないわよ」
だいたい産めないわよ、と新田さんは言った。そうだ、新田さんは男の人だ。少なくとも、身体は。心は? 新田さんの心は、女の人なんだろうか。それとも、男と女、半分ずつなんだろうか。
不思議だな。新田さんは不思議だ。
「新田さんが、女の人だったら……」
完全に女の人だったら。口は悪いけど、姉御肌の優しい同僚だったら。
「すきに、ならなかったのに」
「……は?」
私は、電源を切って、そのまま目を閉じた。