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 午前中の作業を終えて、ふと一枚だけ避けた写真に目をやる。

 結局使い道も決まらず、かといって触れられもせず。

 皓人が置いたところから一ミリたりとも動いていない。


 写真は、山桃の腐敗の過程を見せつけたまま、静かにそこにあった。



 夏休みは長いのだし、制作が進まないことに対してそう焦ることもない。そう思う反面、これでいいのか、と漠然とした不安が足元を漂っているような気にもなる。


 ぼんやりと部屋の天井にくっついた灯りを見る。

 なんてことのない時間に、なぜか彼女のことばかり考える。


 景太は七月に入る前に一緒に出かけた時のことを思い出していた。




 景太の所属する美術部は、生徒のやる気のバラツキはともかく、顧問の方はそれなりにやる気がある。年に一度、五月の連休明けぐらいに、近くのギャラリーを借りて展示会をするのが恒例になっていた。秋の学祭とギャラリーでの展示、この二回が美術部にとって大きな活動と言えるものだった。

 羽葵と景太が出会ったのはその五月のギャラリーでの展示だった。

 彼女はたまたま、ここが目に留まって入ってきた、という雰囲気だった。

 来る人来る人、作品の大きさも画力も、飛び抜けて目立つ皓人の絵の前で足を止めて見る。しかし、羽葵はその絵の前で少し止まっただけで、ほぼ変わらぬ足取りで作品を一つ一つ見ていた。

 そして、彼女がようやく足を止めて食い入るように見たのは、景太の作品だった。

 ともすれば、写真を適当に切り貼りしたようにしか見えないそれのテーマは春の訪れ。

 小さめの額縁から溢れるくらいに詰め込んだ写真の情報は、一つ一つが冬から春にかけての自然の移り変わりで、中心に冬の情報、それが端に行くほど春めくように配置した。使用した写真の総数は五十枚以上。それから必要な部分だけをデザインカッターで切り出して一つの絵になるように配置したのだった。

 そして一通り作品を見終えた羽葵は、また景太の作品の前に行く。景太自身には、これのどこがそんなに彼女を惹き付けるのかわからなかったが、彼女は偶々在廊していた景太に、作品について質問を重ねた。

 そして。

 君、訛りがこっちじゃないね、出身はどこ? あ、神奈川なの。丁度いいや。私も東京なんだよね。同じ関東出身のよしみでさ、今度撮影に行くときに連れて行ってよ。私はねぇ、この辺りだったら空いてるからさ。

 悪意のない悪魔のような提案。

 羽葵に見せられたスケジュール帳は、味気のない大学ノートに線を引いて自分で作ったものだった。それには、彼女の予定が書かれていて、殆どが『制作』と『○コマ』で埋まっていた。

「……大学生なんですか?」

「うん、京都市内の。私、お婆ちゃんの家に下宿してるんだよね、だから」

 なんでこんな所に、という疑問を口にする前に、答えを言われてしまった。ここから市内までは電車で四十分。それを通っているということだろう。

 そのあとは、言葉が続かなかった。

 しげしげと自分の作品を見つめる羽葵。それを突っ立って見ているしかない景太。

「やっぱ、いいね。これ」

 ポツリと溢れる。羽葵は景太を見ていなかった。景太の作品を見つめて、フワッと舞った言の葉は、ささやかな気流に乗って景太の方に辿り着く。

「こういうの、なんていうのかな。切り絵の集合体? でもないか。……うん、面白い。君の見てる世界が羨ましい」

 皓人と同じような事を言う、と思った。美術部のくせに『美術』というものに疎い景太には、羽葵に色々説明されたところで、全く理解できないだろう。

「でさ、さっきの話だけど、いつ行く?」

「いや、僕は……」

 断ろうとした先に、羽葵が言葉を重ねてくる。

「写真、撮り方変えるともっと良くなるから」

 その瞳は強い磁力を纏っていて、細っこい彼女、一個体の中のものとは思えなかった。


 そして約束の日。七月に入る直前。梅雨の晴れ間だった。

 久しぶりの青空は眩しく、前日まで降り続いた雨のせいで湿度が高かった。それほど気温は高くないのに、自然と額に汗が付く。それを学生服の袖で拭って、景太は駅へと歩みを進めた。

 近鉄の赤い車両がホームに滑り込んで来るのが見えた。

 改札から押し出されて来る人達を流れる景色のようにぼんやり眺めていると、その一番後ろの方から彼女が出て来る。

 全然急がないんだな、と思った。

 や、と片手を上げる彼女。

 エスニック風のロングスカートと生成りの長袖Tシャツ、くたびれたリュックサック。ギャラリーで会った時と似たような格好だった。

「学校だったの?」

 景太の学生服に目を留めて、彼女は首をかしげる。

「期末試験期間なんです」

 そう言うと、ああ、と一度頷いた。

 それから、二人でバスのターミナルへ向かう。

 程なくやってきた、クリーム色に緑のラインが入ったステップバスに乗り込む。

 明日から試験だというのに、のんきに出かけていていいのだろうか、と思う自分と、まだ高校二年だし、と思う自分。どっちもが一個の人間の中に内在しているのが、不思議だ。

 景太が揺れるつり革を眺めながらそんなことを考えていると、隣に立った彼女が、ねえ、と景太を見上げた。

「北野ニュータウン公園ってどこで降りるの?」

「そのままですよ、バス停の名前」

 彼女は物珍しげにきょろきょろ、と車内を見回した。

「ね、人少ないんだね」

「平日のこの時間は、こんなものですよ」

「けーた、敬語」

 彼女が口を尖らせた隣で、景太は露骨に目を逸らした。

「だって、羽葵ウキさんの方が年上、った!何するんですか」

 脇腹を容赦なく肘で突き刺されて、驚いて羽葵の方を見ると、あからさまに睨みつけてくる双眸と目が合った。

「年齢の話、禁止」

 羽葵のペースに巻き込まれて、景太は多少げんなりしていた。

 彼女と初対面の時もこんな風だった。やけに馴れ馴れしく、グイグイ迫ってきて、気がついたら彼女のペース。

 今日で実は会うのが二回目だと言ったら、周りは驚くだろうか。景太だって、今この瞬間も、なぜバスに乗って羽葵と公園に向かっているのか、現実なのに実感が湧かない。

 あの学外での展示がなければ、景太だって今頃、同級生たちと同じように試験勉強にせいを出していたに違いないのだ。


 バスから降りて、公園内に入る。

 ここは、景太がいつも撮影に来る場所だった。

 公園といってもニュータウンができた折に記念に作られたもので、芝生広場だけでなく、散策用の林や森、日本庭園、人工の谷あいや小川を持った屋外複合施設のようになっていた。

 景太が訪れるのは、人工林の中に遊歩道が伸びる区域で、一年通して色々な自然の顔を見ることができる。

 羽葵が学祭で見た作品は冬の終わりから四月の頭にかけて撮影ものを使っていて、林特有の薄い木肌と、芽吹いたばかりの薄緑色の葉、それから椿の高木、木蓮、コブシ、梅、桜と様々な色を写真に収めていた。

 梅雨に入ってからは初めて訪れた景太だったが、春との違いに少なからず驚きを覚えた。その驚きは、今までに何度か経験したもので、彼にとっては非常に好ましいものだった。

 遊歩道の傍に立ち並ぶ木々は、既に両腕いっぱい抱えても溢れるほどの緑の葉を茂らせている。その葉の隙間に隠れるようにして小鳥の囀りだけが、シトシトと降ってくる。梅雨の合間の綺麗な晴れ間は、木々を照らして、道に敷き詰められた石に水面に似た模様を作り出していた。

 バスの中では饒舌だった羽葵は、今は静かに歩いている。

 その変わりっぷりを不気味に思いながら、景太はデジカメを構えて、自分の作品の素材になりそうなものを何枚もデータに収めた。

 遊歩道をたっぷり時間をかけて一時間ほど歩き、林から抜ける。遊歩道を作る石畳みはまだその先もまっすぐ伸びて、公園の地図を見ると芝生広場の端を一周するようになっていた。

「どんなの撮ったのか、見せてよ」

 羽葵が伸ばした手に、景太は自分のデジカメを乗せた。

 彼女はそれをすいすい操作して、画面を凝視している。

 一通り見終え景太の方にそれを戻した彼女は、

「けーたは撮る時、何考えてるの? 」

 と首をかしげた。

 心底不思議だという感じだった。

 何って、と戸惑う景太に羽葵はふっと息をついた。

「同じような写真がいっぱいあった。全部使うわけじゃないんでしょう。どんな作品作ろうとか考えずに撮ってる? 」

 その言葉に素直に頷いた。景太は、自分が撮った写真を見てから、合いそうなモチーフを決めて組み合わせている。

「それでも、もう少し。一枚を撮るのに時間かけてみたら? デジカメはお手軽でやり直しがきくけど、人生そんなに軽くないよ」

 何でここで人生を持ち出すんだ、と眉を寄せたが、羽葵は景太の表情を気にすることなく、そうねぇ、とその先へ歩みを進める。

 広場の端に通された遊歩道の続きに、赤や橙、桃、白、そして赤みのかかった黒。そういった点々がぐちゃっと混ざり合った部分がある。

 その傍にはヤマモモの木。てろり、と先の丸い葉が垂れ下がり、木に成った実は人間の持つ舌の表面に見えて、景太はあまり好きではなかった。

 実ができる時期がこの六月から七月ということもあって、地面に落ちたそれらの醜悪さといったら、他に類を見ない。白い中身をぶちまけて、踏めば骨と肉に似た感触が足の裏を震わせる。雨に濡れればぶよぶよとふやける。

 ヤマモモが散らばって道が汚れているその中に、羽葵は足を踏み入れて、木を見上げた。それから、足元に散らばってズルズルになった実を、ベージュのサンダルの先で軽く蹴飛ばして転がす。

 十分くらい考えていただろうか。

 羽葵はずいっと景太の方に手を出した。

「もっかい、カメラ貸して」

 そして、撮影された画は、見苦しいヤマモモがあっけらかんと振る舞う様だった。

 梅雨の晴れ間のようなヤマモモのその態度は、景太が感じていた不気味さを吹っ飛ばして、それすら艶やかに見せていた。

「自然をモチーフにしてるのは良いと思うけど、もっと被写体に対して謙虚になった方がいい」

 羽葵は肩を竦めて見せた。

 彼女から返されたカメラを持って、景太は憮然とした表情を向けた。

「そんな顔しなくても。私はけーたの作品好きだよ」

「今までそんなこと、ほとんど言われたことないです」

「殆どってことは、少しはあるんでしょ」

 そう言われて、景太は顧問の林と同級生の上月の顔を思い浮かべた。たった二人だが、自分の作品をいいと言ってくれる。

「身内びいきかも」

 ぼそり、と呟くとビシッと肘で脇を突かれた。謙虚になった方がいいと言ったくせに自然をサンダルで蹴とばすような人。この時初めて、景太は羽葵がどのような絵を描くのか気になった。

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