いち
遠いグラウンドから、運動部の掛け声が聞こえる。
蝉の声に混じって、雑然とした美術準備室の隅々に入り込んでいる。
夏休み、美術部の活動は不定期。
ただし、期限までに仕上げなければならないものがある。
景太は秋の文化祭に出す作品の制作の為に、朝から部室にやってきていた。
景太の手元には、変哲のない風景を写真のL判サイズで切り取ったものが何十枚もある。
彼の作る作品は、写真を繋ぎ合わせたり切ったりして別の造形として再構築したもの。それを樹脂で固めたり、他の素材と組み合わせたり。
どうやって切り出して、どうやって再構築しようか。
何枚も写真を比べたり、くるくると回したり。
今回は平面的な作品ではなく、モビールのように吊るす造形との組み合わせを試したいと思っていた。
そうやってじっくりと写真を見ているうちに、中に一枚、自分が撮影したものではない写真が紛れているのに気づいた。現像するときにチェックを外すのを忘れていたらしい。
その写真を見た瞬間、それを撮った人物の眩しさが記憶から蘇ってくる。
本当は今日、また会おう、と彼女と約束をしていた。
でも一昨日の夜、急に連絡がきた。
曰く、
『ごめん、展覧会に出す作品描いてたら、ご飯食べるの忘れててぶっ倒れました。今病院なんだけど、約束の日行けなさそう』
倒れたという割には、あっけらかんとした文面で、景太は内容の深刻さと文面のギャップにしばし戸惑った。勉強机に広げた課題に落ちる沈黙。
『お大事に』
長々とした文章を返すのは苦手だった。ただ一言だけ返信して、コトン、とスマホを置いた。
自室の窓から見える夜闇は濃くて、暫くそれと見つめあっていた。その視線に熱はなかった。
彼女の事を、なんと思ったらいいのかわからない。
まだ二度会っただけだというのに、思い出すのが酷く億劫。それでいて、その二度はくしゃくしゃにして何度も頭の片隅に押しやっているのに、不意に出てきてしまう。
一昨日のメールの内容を振り切るように、景太はこれ見よがしにため息をついて立ち上がった。
美術準備室の木製の椅子が、硬い音を立てて後ろに下がる。
今日はなんとなく気が乗らない。
景太は机の上から、その一枚を取り上げた。
そして部屋の隅にある屑篭の中にそれを落とす。
写真は吸い込まれるように他の紙屑と混じった。
夏前には三年生は引退してしまい、文化祭に並ぶ作品を作るのは一、二年生だけだ。文武両道を掲げていても、ここは進学校。どうやったって学業が重視される。来年になれば、自分もここで作品を作ることはないのだろう、と景太は写真を繰りながら、ぼんやりと考えた。
その思考を遮るように、美術準備室から美術室へ繋がる扉が開いた。
「早いやん、おはよ」
「おはよう」
軽い挨拶を口にしながら入ってきたのは、皓人だった。
美術部に中でも、部活動に熱心な生徒の一人。そして美大へ進学すると思われているほどの画力がありながら、本人は理学部への進学を希望しているらしい。成績優秀、眉目秀麗、腹も立たないくらい女子にモテる。同性である景太ですら、皓人は魅力的に見える。
天は彼に二物も三物も与えすぎだろう、至って普通の自分とはえらい違いだ、と景太は思っていた。
皓人はガサガサと自分の画材道具の入った棚を探りながら、ふと景太の方へ振り向いた。
「なあ、景太。何で写真捨てとんの? 」
「皓人には関係ないだろ」
ふーん、と意味ありげに口の端を吊り上げて、皓人は自分の画材を左腕に抱えたまま、屑篭に捨てられたそれをひょいと拾い上げた。景太はそれを視界の端で捉えていたが、気にした様子を見せず、手元の写真に視線を落としていた。
「これ、景太が撮ったんと違うんやな」
「見ただけで分かるのか」
「そりゃな」
皓人は人差し指と中指で写真を挟んで、ペラペラと振った。
「見終わったら捨てとけよな。それ、使わないから」
そう言うと、皓人は「もったいな」と、景太が作業していた机の上。わざわざ景太の目に届くところにピッとそれを置いた。
「捨てろって言ったのに」
文句を言いながら立ち上がろうとすれば、皓人は景太の額に人差し指を当ててそこに留めた。
「使うたらええやん、ヤマモモの実。多分映えるで」
皓人が言うように、写真に写っているのは、遊歩道に落ちた山桃。
落ちたばかりの綺麗なもの、踏みつけられてグシャグシャになったもの、腐りかけているもの、そして殆ど腐ってしまったもの。
それだけの、ただの山桃なのに目が離せない、そういうアングル。
そして、写真の中に閉じ込められた空気。
彼女がそれを撮ったのは六月の終わりだった。
早く絵筆を握れるようになればいいのに。
ふとそんなことが頭をよぎる。その瞬間
「お前のその顔ええな、描かさせて」
ニヤッと笑った皓人が目の前に座ろうとしたので、景太は思わず「やめろよ」と低く言って、くるりと彼に背を向けた。
ムッとした景太の後ろから、悪い、悪い、とちっともそんなことを思っていなさそうな声。
そして快活な笑い声が景太の背中に刺さって、ドアが閉まる音がした。
皓人の明るさが、なぜだか背を覆う皮膚に染みて疼いた。