煙草のあと
椅子に座る先輩の指には、学校での姿からはとても想像できないものが挟まっている。
今まで、先輩はそういうものとは無縁だと思っていた。真面目だけど、少し子どもっぽいところのある先輩だったから、興味がないんだと勝手に信じ込んでいた。
「見山」
名前を呼ばれてはっとする。ぼやけていた視界が焦点を取り戻し、センターテーブルの上に置いてある灰皿が輪郭を浮き上がらせた。汚れひとつないきれいな灰皿。きっとこまめに洗っているんだろうと思った。学校での先輩の立場は、几帳面でないと務まらないから。
「頼むから、そんなに固くならないでくれ。僕は見山を脅かすために呼んだわけじゃないんだ」
困ったように言う先輩の顔は、私が今までずっと見てきたものと同じだった。でも、だからこそ、先輩の手の中にあるそれが現実のものなのだと実感してしまう。
たった一本の煙草のせいで、誰よりも知っていると思っていた先輩が、急に見知らぬ人に見えた。
「じゃあ、なんのために呼んだんですか」
緊張で、声が上擦った。
放課後、憧れの先輩に呼び出され、家にまで招かれた。こんな状況でなければどんなに嬉しかったろう。こうなるとわかっていてついてきてしまった自分も自分だが、それは仕方がない。先輩の性格を考えれば、遅かれ早かれ同じような状況になっていたはずだ。
それまで黙りこくっていた私がやっと口を開いたことに安心したのか、先輩の表情は少し和らいだ。
「見山はたぶん、誤解してると思うんだ。だからきちんと説明しておきたくて」
「誤解、ですか」
していないと思います。
口から出かかった言葉を咄嗟に飲み込む。まだ認めたくなかった。もしかしたら、という残された可能性に縋りたい気持ちが、私の心をかろうじで繋ぎとめていた。
「うん。確かに僕がこの煙草を持っていたことは事実だ。でも、僕は煙草を吸っていない。その誤解を解いておきたくて、今日は見山を呼んだんだ」
慎重に言葉を選びながら先輩は話した。相手を気づかいながらも、言いたいことははっきり伝える。先輩を好きになった理由の一つだった。
「……それを信じろって言うんですか」
初めて聞くであろう私の低い声に、先輩はわずかに目を見開いた。でもそれはほんの一瞬だった。先輩はすぐに元の表情を取り戻し、真剣な眼差しで見つめ返してきた。
「そうだね。言われてみれば、見山が信じられないのは当然かもしれない。今のは少し無理があった。謝罪させてほしい」
そう言って先輩は頭を下げた。
このあたりの対応は流石としか言いようがなかった。全校生徒の代表として培ってきた能力を間近にして、今度は私の方がどぎまぎした。
駄目だ。正面から当たったら、とてもじゃないが敵わない。しかし、まだ認めるわけにはいかない。知ってしまった以上、私にはどうしても確認したいことがあるから。
「でも、やっぱり僕にはお願いすることしかできない。見山が納得できるだけのものを、僕はなにも持っていないんだ。自分でも都合がいいことを言っているのはわかってる。今まで一緒に生徒会を支えてきてくれた見山にさえ誠意を示せない僕を軽蔑してくれても構わない」
頭を下げ続ける先輩を見て、私は覚悟を決めた。
これ以上先輩に無意味に頭を下げさせるわけにはいかない。私は先輩にそんなことをしてもらいたいんじゃない。
「……わかりました。信じます。でもそのかわり、条件があります」
「条件?」
「はい」
顔を上げた先輩の表情は強張っていた。よくない想像がいくつか頭の中を駆け巡っているのかもしれない。
どのように言おうか考えたが、緊張しているためか上手く頭が回らなかった。まだまだ先輩みたいにはいかないらしい。それでもなにか言わなければ、という気持ちが先行して私の口から出てきたのは、必要最小限の言葉だった。
「吸ってください」
「え?」
お互いに間抜けな言葉を出してしまい、私たちの間に沈黙が降りた。私は自分の台詞で完全に固まってしまっていたが、先輩の目は私の言葉の意味を探るように動いていた。
私は一つ息を吐き、自分を落ち着けてから再度口を開いた。
「それ、先輩が吸っているところを、私に見せてください。そしたら、信じてあげます」
先輩は訝しげな視線を私に向けた。無表情でそれを受け流しながらも、私は内心気が気でなかった。先輩からそんな視線を向けられたことなんて、今までに一度もなかったからだ。
「いや、だから僕は――」
「その煙草が先輩のものじゃないってことくらい、わかっています」
生徒会室で、先輩の制服から偶然落ちてきたそれを見た瞬間から、そんなことはわかっていた。
煙草のフィルター部分に、口紅がついていたから。
「わかっている? ならどうして……」
「やってくれないなら、信じません」
私の突き放すような態度に、先輩の口は半開きになる。
意味不明だという自覚はある。でもこれだけは譲れない。絶対に、これだけは。
先輩はそれでもなお思考を巡らせていた様子だったが、やがて諦めたのか椅子から立ち上がり、机の引き出しを開けた。
頻繁に使うから、きっと定位置が決まっているんだろう。先輩が当たり前のように取り出したライターを見た時、私の心臓は大きく脈打った。
そして悟った。望みは潰えた。後はただ、耐えるだけだと。
「まさか、こんなことになるとは」
ため息まじりに言って、先輩は元の椅子に座った。
そして躊躇いもせず口紅のついた煙草を咥えると、慣れない手つきで火をつけた。
ライターの火の中で、黒く焦げた煙草の先端が赤く灯った瞬間、先輩は前のめりに咳き込んだ。
目の前で先輩が苦しそうにしていても、私はただその光景を見つめていた。煙草の煙からは甘い香りが漂ってきた。その匂いはこの部屋に入った時、一番最初に嗅ぎとったものと同一だった。白い煙の中で、先輩がまた知らない人に見えた。
「これで、満足してくれたかな」
涙目を拭う先輩に、私はゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます。それと、先輩のこと、疑ってすみませんでした」
そうしたくはなかったが、その場で深く頭を下げた。下を向いてしまったら、堪えていたものがこぼれ落ちてきてしまうんじゃないかと心配だった。
「いや、いいんだ。それにしても、流石だよ。見山は」
やっと呼吸が落ち着いてきたらしい先輩は、納得したように何度も頷いた。
「へ?」
「僕の言葉の真偽を確かめるために、無理矢理にでも煙草を吸わせたんだろう? 僕の体が喫煙に慣れていないか試してさ。吸ってみて初めて思い至った。まったく、恐れ入ったよ」
流石、うちの副会長だ。
誇らしげにそう言った後、先輩は笑った。
まあ、そういうことにしておこう。
先輩に曖昧な微笑みを向けながら、この時私は、実は先輩は初めからかなり動揺していたのではないかと思った。その証拠に、いつもなら見落とすはずがないような食い違いに先輩は気がついていなかった。
「最後に一つ訊いていいですか?」
断ったのだが、家の門まで見送りにきた先輩を見上げて尋ねた。
「なにかな」
「あの煙草って、なんだったんですか?」
もう結論は見えていたから、これ以上聞いても自分のためにならない。でも、知りたかった。先輩からどんな答えが返ってくるかで、なにかが変わることを期待したのかもしれない。
「ああ、イタズラだよ」
先輩は考えることもせず、軽く笑いながら即答した。
「イタズラですか……」
そうか。こんなことでも、ちょっと笑って許せるくらいなんだ。
「高校生の身分で喫煙するなんて勇気、僕にはないよ」
「でも、いざとなれば吸えちゃうんですね」
「はは。そうだね。おかしいな」
先輩は指先で頬をかいた。
なんだろう? と思ったけど、それが何を意味するのか、すぐにわかった。
「……いえ、おかしくないと思います。そんなこと、全然ないと思います」
そう言うのが精一杯だった。
先輩と別れ、駅までの道すがら、私は何度も立ち止まってしまった。前が見えないのだ。上を向こうにも、正面を向こうにも、それらを抑えることは不可能だった。来るときは十分そこそこだった道のりを、のろのろと三倍以上の時間をかけて歩いた。
駅に着き、改札を抜けて電車に乗り込むと、運良く座席が空いていた。なんだか慰められてるような気がして癪だったけど、酷く疲れていた体は正直だった。扉のすぐわきの席に腰を下ろし、いつもそうしている様に目を閉じる。まだ目は見せられない。瞼が重いせいで、気を張っていないと本当に寝過ごしてしまうんじゃないかと少し不安だった。
間もなく扉が閉まり、車内は密室になった。
甘い香りがした。それは彼女の匂いだった。
目を開けて近くを見回すが、それらしき人はいない。
しかし、私はすぐに彼女の正体に気がついた。
煙草の、こういうところが嫌いだ。
帰りの電車の中、彼女のせいで先輩の姿が頭から離れなかった。先輩が煙草を咥えた時のことを何度も思い出し、その度にぎゅっと唇を結んだ。そうすることしかできなかった。