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夢にうつつに

つつましく咲く花の名は

作者: 朝森雉乃

 体育館裏の壁際のところに、黄色い花が一輪咲いていた。

 こんな花壇から離れたところにどうして、と思いながら、夕はそっとしゃがみこんだ。ぽつんと咲く黄色い花は、柔らかに吹く初夏の風にその身を揺らしていた。短い茎の曲がっているところを、そっと人差し指の腹でなぞる。

「一人で咲いてて寂しくないの」

 声をかけると、ちょうど風がくるっと渦巻いて、花が指先から逃げた。そのまま夕の手の影が落ちるところで、またふわふわと揺れだす。

 そうだ、花の名前はキンセンカ、と夕は思い出した。昔、仏壇に供えてある花の名を祖母に教えてもらった中に、この花があった。

 影に隠れてしまっては、鮮やかなはずの黄色も冴えない。

「おっ」

 声がしたので振り向くと、美術担当の南先生がタバコをくわえながら頭をかいていた。まずいところを見つかった、と顔に書いてある。もちろん、この高校の構内は禁煙だった。

「いやあ、まだ火はつけてない。これはちょっと格好をつけただけだよ。な?」

 南先生は笑いながら、慌ててポケットにライターを突っ込んだ。

 夕は立ち上がって、体育館の壁に背中を預けた。壁の向こうからは、バスケットボール部の練習の声がかすかにもれ聞こえた。南先生を見つめると、先生は目を泳がせながら両手をパーにして顔の横にかかげた。それでもなお見つめてくる夕に根負けして、南先生はゆっくりとした動作でタバコを口からつまみ上げ、ポケットにしまった。

「南先生。いつもこんなところにいらっしゃったんですか」

 夕は震える声で話しかけた。南先生はため息をつきながら、キンセンカを挟んで夕の横にもたれかかった。

「いつも、って? 俺のこと、よく探してくれていたのか」

「美術部ですから」

「ああ。そういうことか。スケブ持ってるもんな」

 南先生がとても嬉しそうな声を出したので、夕は驚いた。てっきり、美術部のことなど気にかけていないものだと思っていた。南先生は夕の肩を叩いて、にっこりと微笑んだ。

「今日は野外スケッチなんだな。なら、俺も一緒にやっていいかい」

 いつの間にか、左手に鉛筆を持って、指先で器用に回していた。


 南先生は、いつもどこかに行ってしまう人だった。

 この高校の美術部員、土橋夕は、部活動の時間に先生の姿を見たことが一回もない。美術部に所属して一年以上になるのに、ただの一度も、顧問の南先生が様子を見に来てくれたことはなかった。ついこの間、受験勉強のために引退した二人の先輩たちも、一度も見たことがないと言っていた。そのまた先輩も、部活で先生に絵について教えてもらったことはないそうだ。美術の授業では優しく指導をするくせに、放課後になると、校内を探したってどこにも見つからない。美術部員としてどんなことをするべきなのか、夕は一度だって先生に教えてもらったことはなかった。

 今年の四月、新入生たちに気おくれがしたまま新歓期が過ぎてしまい、ついに美術部に一人も後輩を迎え入れることが出来なかった時も、南先生は姿を見せなかった。

 みんなで楽しく絵を描いたり、コラージュを作ったりすればいいんだよ、と言っていた亀沢先輩。可愛い後輩をたくさん集めて、この部が無くならないようにしてね、と笑っていた青木先輩。二人とも、夕ちゃんの力になれなくてごめんね、と言いながら引退していった。

 泣きじゃくる夕を、笑いながら優しく慰めてくれた二人の先輩は、もう美術室には来てくれない。

 ひとりぼっちになってしまった放課後の美術室の中で、黙々と石膏の胸像をスケッチするのは、驚くほど楽しくなかった。そして今日、アポロンの首の部分の影をつけていたら、鉛筆の芯が音を立てて折れた。パキッという音がひどく乾いて聞こえた時、そうだ、外で絵を描こう、と思い立ったのだった。

 そんな日に、南先生が現れた。

 先生は無邪気に鼻歌を歌いながら、足元に咲いているキンセンカをスケッチし始めている。ポケットサイズのメモ帳に、特別な削りをしていないFの鉛筆を滑らせて、時々口を尖らせながら。夕もキンセンカに目を落としたが、スケッチブックを開く気は起きなかった。

「南先生。美術部には今、私しか部員がいないこと、ご存知ですか」

 絞り出した声は、先ほど話しかけた時よりも震えていなかった。

「いいや。知らなかった。でも、さっき分かった」

「さっき、ですか」

 夕がきっと目を上げると、南先生はちょうど、鉛筆をタバコのようにくわえて、花とスケッチを見比べているところだった。夕の視線に気づくと、南先生はとぼけたような顔をして、鉛筆を口から離した。

「お前の肩をさっき触っただろう。人に触ると、何を考えてるか分かるんだよ、俺は」

 嘘だけどな、と笑う南先生を見て、夕は頬を引っぱたいてやりたいと思った。持っているスケッチブックと、折れた鉛筆の代わりに持ってきた黄色の色鉛筆を、思い切り強く握りしめる。美術室を出る時は、この黄色で、元気で派手なスケッチを描こうと思っていたのに、ここでようやく、描きたいと思えるキンセンカを見つけたのに、今は、南先生を問い詰めたくてしょうがなかった。どうして部活を見に来ないのか。どうして何も教えてくれないのか。どうして私が見つけたキンセンカを勝手に描いているのか。どうして、どうして、どうして。

「でも、お前のことを知らないわけじゃないぞ、土橋」

 唐突に名前を呼ばれて、夕は我に返った。

「青木や亀沢のこともよく知ってる。一度も直接教えたことはないが、あいつらは部活で俺が教えたいことを、もう分かっていたからな」

 南先生は、メモ帳を夕の方に差し出した。受け取って見ると、俯瞰した視点からキンセンカの輪郭が描きとめてあった。ただの鉛筆で描いたとは思えないほど、線の濃淡が躍っている。堂々と胸を張って、凛とたたずむ花。

「スケッチ、じゃないですね」

 夕は、人差し指で絵を撫でずにはいられなかった。それほど花は生き生きと描かれていた。南先生はまた鉛筆をタバコ代わりにくわえた。

「土橋、この花に色を塗ってごらん」

 夕は驚いた。黄色の色鉛筆一本だけで、どうやって色を塗ればいいのだろう。困惑している夕を見て、先生は、花の影になっている部分だけを塗るように指示をした。その通りにしてみると、花はどんどん鮮やかになっていく。夕はあせる気持ちを抑えて、黄色い影を丁寧につけていった。

「この花の名前を知っているかな」

「キンセンカです」

「いいや、違う」

 南先生はしゃがんで、キンセンカだと思っていた花の葉を指した。夕もつられてしゃがみこむと、指差された先を見た。

「葉っぱがギザギザになっているだろう。間違えやすいが、これはマリーゴールドだ。花言葉はいろいろあるけど、俺はその中でも『勇者』っていうのが好きだよ」

「『勇者』ですか」

 マリーゴールドが竜や魔王に立ち向かっていく姿を想像して、夕はおかしな気持ちになった。あり得ないけれど、先生の描いた凛としたこの花なら、出来そうな気もしてきてしまう。そんなことをぽつりと呟いたら、南先生は声を上げて笑った。


「絵を描くのは好きか?」

 勇者の花を塗り終わるころ、南先生は、もう、生徒の前だろうがお構いなくタバコに火をつけていた。しかし、夕はそれをとがめようとも思わなかった。

「先生が教えたいことがなにか、今なら分かります」

「それは良かった。咲いたな、土橋」

「はい」

 夕は手元のメモ帳に目をやった。ちょうど今塗り終わったマリーゴールドは、夏の始まりを告げる風に、その身を任せて揺れていた。

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