14.エリシア、再び出会う
早朝から憂鬱な気分に浸れたのはひとえにシオナのおかげだろう。まったくもっていらん事しかしてくれない侍女である。
綺麗に施された化粧はまるで皮膚の呼吸を邪魔するかのようにぺっとりと鬱陶しく、いつものように内臓を容赦なく締め付けるコルセットはより機嫌を降下させた。だらしなく深く背を預けるようにソファに座っていたエリシアはそのまま毒づきたい気分でイライラとソファの肘掛を人差し指で打ち鳴らす。マリーネが今部屋に居ないから出来る仕草だ。
マリーネの機嫌を損ねた所為か、朝食を食べ終えてもシオナは現れなかった。ルチルの方も食事の運搬をしただけで部屋の中までは入ってこず、マリーネとしかやり取りをしていない。確認するも何も、まず挨拶しか出来ていない状況だ。
これは時間が経てば経つ程、紙を取り出しての確認がしずらいのではないだろうか。相手が先になくなっている事に気付いてしまっては、今落とした、などという言い訳がしにくい。別に警戒するわけではないが、なるべく怪しまれないように軽い、ライトな感じで話してみるつもりだったのに。
なんだコレ。僕は女装以外にも悩まなければならないのか・・・・?
勘弁願いたい。切実に。
カツカツと肘掛を鳴らしていた指を止めてエリシアは盛大に溜息を吐いた。あまりやりすぎると綺麗な山吹色のレースの手袋が破れてしまうかもしれない。
・・・ああ・・・全部脱ぎてぇ・・・
行動を制限される事がこれほど苦痛とは。
山吹から青灰色へとグラデーションをつけて広がる自分のドレスをぼんやりと見下ろし、エリシアは柄悪く舌打ちを繰り返した。そろそろストレスで素の自分が出てきそうだ。
思えばカーティス家に居た頃から女装続きだったのだから一月半くらいか。自分にしてはかなり我慢したな。
「・・・・・・・・・きゃ・・・・・・っ!!!」
いらいらとしながら触り心地は最高の絹のドレスに穴が開くほどの視線を送っていたエリシアの耳に小さな悲鳴が飛び込んできて条件反射的に跳ね起きた。開け放った窓からやってきたソレが二つ隣の部屋からだと把握して廊下へ駆け出す。
「どうし―――」
「きゃぁっ! きゃあ! きゃあぁっ!!」
ノックもそこそこに乱暴に扉を開け放つと、丁度部屋から飛び出そうとしていた少女が真正面からぶつかってきた。エリシアの偽乳に思いっきり顔をうずめ、反動で後ろに投げ出されそうになった体を咄嗟に抱きとめる。揺り返しで戻ってきた扉がぶつからないように片手で受け止めたまま、もう片方の手でしっかり腰を抱いて支えたのだが、それでも恐慌状態に陥った少女はその事に気付いた様子もなく単発的な悲鳴をあげ続けた。
「・・・えっと、どうし―――」
「うるさいですわっ!!! 何事ですの―――って貴女?!!?」
またもや言葉を遮るようなタイミングで響いた怒声に腕の中の少女の悲鳴がやんだ。先ほどの少女の悲鳴が癇に障ったのか、怒ったように続きの部屋から顔を覗かせた人物がエリシアの姿に目を留めて驚愕の表情を浮かべる。徐々に怒りと羞恥で赤く歪んでゆく見覚えのあるその顔になんとか笑顔を浮かべようとしていたエリシアの顔も少々引きつってしまった。
「・・・・・・セレネー嬢・・・?」
「貴女こんなところで何をしていますの!? ここは私の部屋ですわよ?!?! 誰の許しを得て入ってますの!?!?」
「あ、いえ、まだ入っては・・・・」
「同じ事ですわっ! 覗きなんて最低な―――ッ!!!」
怒りも露わにエリシアへ歩み寄ろうとしたセレネーは不意にハッと顔を強張らせて踵を返し、言葉も半ばに特に何も手を入れずに流していた金髪を靡かせながら逃げるように続きの部屋へと飛び込む。
「と、とにかく今すぐ出て行きなさいっ!! 今すぐよっ!!!」
怒鳴るように返された言葉は怒りというよりも動揺で不安定に揺れており、一体何事かとエリシアは首を傾げて腕の中の少女を見下ろした。呆然としたようにセレネーの飛び込んだ部屋の方を向いて立ちすくんでいた少女はもう恐慌状態からは脱したようだ。
「・・・・・・君は?」
なるべくセレネーを刺激しないように小さな声で尋ねると、少女は泣きそうに潤んだ瞳でエリシアを見上げた。もう大丈夫か、と王宮侍女らしい茶色いお仕着せを纏ったその身を放すと少女は一瞬ふらついたがなんとか足を踏みしめる。
「一体どうし―――」
「何してるの!? 早く出て行きなさいっ!! ココット! そこにいるんでしょう!? さっさとその女を追い出しなさいっ!!!」
「は、はいっ!!!」
何かを尋ねる暇もなく、鞭打つような甲高いセレネーの悲鳴にココットと呼ばれた少女は裏返ったような声を上げて飛び上がった。言われたとおり目の前に立つエリシアの体を押し返すように両腕を突っ張って体で出入り口を塞ぐ。
「あ、あの、ここからはぁああっ!?? きゃああっ!!!」
言葉の途中で足元をすり抜けた影に驚いて足をばたつかせ、再度後ろに転びかけた。
バランスを崩し目の前で宙をかいた手を咄嗟に握って再びその場に留めながら足元をすり抜けようとした影を認識したエリシアは、一瞬の判断で廊下へと逃げようとしたソレに左足を思いっきり振り下ろした。床にぶつかりガツンッ!!という鈍い音を立てた硬いローヒールは柔らかそうな小さなお尻を掠めて細長い尻尾を踏みつける。
ヂュ・・・・ッッッ!!!!
甲高く鳴くというよりは、耐え切れずに漏らされた悲鳴はどこぞで聞いた事のある、というか、昨晩聞いたような・・・と視線を下に落としてみると、まさに昨夜見たばかりの白鼠がエリシアの足の下で毛を逆立てながら痛みにもだえていた。その首元でゆらゆらと揺れる赤いリボンに溜息をつきたくなる。
「・・・・・・昨日の鼠か・・・」
誰にも聞こえないよう低く吐き捨ててエリシアは目の前の少女の姿勢を安定させた。
漏らされた鼠の悲鳴にエリシアと同じく足元に視線を落としていたココットは、もう大丈夫だろうとエリシアが手を離した瞬間、とびずさるようにエリシアから距離をとる。部屋の中央に置いてあったテーブルに腰をぶつけながらエリシアの左足から目を逸らさずにまだまだ幼い顔を恐怖に引きつらせた。
「きゃ、きゃああっ!!・・っね、ねねね、ねず、ねず・・・っ!!」
どうやら鼠が怖いらしい。先ほどと同じような悲鳴をあげているところをみると、先の悲鳴も鼠に驚いてあげたものだろう。たいした事ではないな、と知らず張っていた気を落とす。
「いい加減になさいっ! いつまで私に恥をかかせるつもりなのっ!?」
一人騒ぎ続ける少女にいい加減苛立ちが募ったのだろう、再び顔を覗かせたセレネーはまだ出入り口で突っ立っていたエリシアを見つけて苦々しげに顔を歪めたが、再び引っ込む事はしなかった。数瞬の躊躇の後、使えない子、と涙目で立ち竦んでいるココットに吐き捨てながら体を押して近くにあった椅子に座らせ、エリシアの方に視線を投げる。エリシアが身に着けた鮮やかなドレスにグッと息を飲み込み、けれど青い瞳は強い光を放ったままエリシアの顔を睨み付けた。
「・・・汚い四足に触れるなんて、貴女正気? カーティス家の名を汚す事になるわよ」
捻り出された皮肉は弱い。それでも精一杯の虚勢だったのだろう。エリシアはこの時になってようやく、セレネーが隠れていた理由を理解した。
見事な金髪は素のまま背中に流し、整った顔立ちは化粧が施されていないので出会った頃よりも若干、幼く見える。身につけているのは装飾もフリルも何もない薄灰色の地味な麻のワンピースで、とても上位貴族、T=クロスコット家の娘とは思えない。市井で人気の看板娘といったところだ。にわかにマリーネから聞いたクロスコット家の実情が現実味を帯びてきた。
部屋の中も、エリシアの部屋と同じ間取りのようだが、エリシアの部屋よりずっと質素だ。エリシアだって鏡台やベッド等、余計な物を持ち込んでいらぬ気苦労したくなかったので必要最小限の物だけにしたはずだったが、それでも毎日のドレスや晩餐会やお茶会に出る為のドレス、それに合わせた装飾品、靴類、化粧品はもとよりお茶を飲むための磁器からちょっとした小物に至るまで、総額すると眩暈が起こりそうな程の品々に囲まれている。
どうせお前に合わせて用意した品物だからコレが無事に終わったら全てくれてやる、とかカーティス家当主から恐ろしい言葉を聴いたような気がするが、それは置いておくとして・・・――この部屋は女性の部屋としても質素だと思う。余計な荷物がないどころか、必要そうな衣装箱等もあまり見当たらない。・・・・・・用意、出来なかったのだろうか。
「・・・・・・何か言いたい事があるのかしら? 私を笑いに来たのならばもう十分でしょう? さっさと出て行って」
この部屋に入ってから見た内容を脳内で整理していたエリシアにセレネーは青々と冷めた視線を突き刺す。傍から見るとぼぅっと突っ立ってセレネーを眺めていたような感じなのだろうか。平静を装ったセレネーだがその語尾は少しだけ震えており、彼女の中の貴族としての誇りがなんとか彼女を踏み止まらせているのだろう。
「・・・別に何か用があったのではありません。ただ悲鳴が聞こえて、何かあったのかと心配になっただけです」
「貴女一人で確認に? 馬鹿も休み休み言ってくださらない?」
本当の事を言ったのに信じてもらえなかった。まあ普通そうだろうけど。
セレネーの後ろではココットが椅子に座ったまま目を白黒させながらアワアワと手を動かしてこの状況に焦っている。口を挟むわけにもいかないので余計この空間に居るのが辛いのだろう。足の下では未だに白鼠がジタバタと暴れているのが感じられるし、ここはもう一旦引いた方がいいようだ。足元の鼠が原因なのだから、この鼠を持っていけば騒動も治まるだろうし。
「私はもう引き上げます。ごめんなさい。貴女を不快にさせるつもりはなかったの」
「・・・・・・」
短い謝罪には何の返事も貰えなかったが、まあしょうがない。エリシアはスカートの両端を摘まんで小さく持ち上げるように一礼するとその体制から足元に転がる鼠の体を素早く握り締めて身を翻す。ヂーヂーとうるさく鳴き喚く鼠を無視したままニッコリ笑顔で扉を閉じた。
ヂーッ ヂヂューーーッ!! チーッ!!
「・・・・・・ハァ・・・うるさい」
気分が若干沈んでいるのに、と大きくひとつ溜息を吐いて手の中の鼠をブンブンと数度振り回すと鼠はようやく鳴くのを止めてエリシアの掌中でしんなりと体を伸ばした。気を失ったわけではないようだが、やけにおとなしい。乗り物酔いのようなものだろうか。ぜひそのまま静かにしていてほしいものだ。
「・・・・・・このまま返すにしても、この子の飼い主って誰だっけ?」
昨夜会った少年は何処の誰とも聞いていない。薄暗かったしあまり顔も見えなかった。
「う~ん・・・このまま放して主人の元に帰れるかなぁ?」
ぐったりと手の中で弛緩した鼠を眺めながらエリシアは小首を傾げた。ふくふくとして普通の鼠より大きいし、毛並みもきちんと手入れされているようだ。あの少年はちゃんと可愛がっているのだろうが、いかんせん、昨夜逃げ出した鼠がまったく関係ない女性の部屋に入り込んでいる時点でこの鼠が自力で帰れるかどうか怪しいところだ。
だからといって進んで役人を探し回りたくもない。
「どうしたものか・・・」
「おう便所姫っ! ブツブツと独り言とは随分寂しそうだな」
鼠をまじまじと見つめながら呟いていたところで、聞きたくない声が聞こえてきた。一瞬、きゅっと指に力が篭って鼠が変な声を上げたが、それには構わずエリシアは凍りつきそうになる頭を無理やり動かして声が聞こえた方を伺った。自分を“便所姫”などと呼ぶ男など一人しか知らない。
それはもう嫌そうに振り返ると15メートル程先にある階段から現れたノスリがニヤニヤと性質の悪い笑みを浮かべて、よっ、と片手を挙げた。出会った時とあまり変わらない、王宮内に入るにしては少々場を弁えていないような砕けた格好で、腰の左右にこれまた使い込まれていそうな長剣を差している。
・・・この男、ここに入ってくる時、武器を取り上げられなかったのか? 不審者の態だろ・・・
少々疑問には思ったが流石に口には出さなかった。その代わり表情も取り繕わない。愛想笑いなど欠片も浮かべず、さっさとどっか行け、と視線に刻み込む。
「んな嫌そうな顔すんじゃねーよ。昨日の愛想笑いはどこ落っことしたんだ?」
「貴方相手にそんなもの用意して何の意味があるんです?」
「へっ 随分とまあ嫌われたもんだなぁ」
「まあ面白い。好かれる要素が何処にあると思ったのか、逆に疑問ですね」
冗談も程ほどにしろよ、とエリシアが女性らしくツンと澄まして答えるとノスリはクツクツと笑いながらゆったりと歩み寄ってきた。ここに来る前に修練でも重ねたのか男臭い汗の匂いが漂ってきて演技ではなく眉を顰める。
「なあ、さっきの悲鳴、なんだったんだ? あれ、あんたじゃないんだろ?」
「女性の部屋に侵入した不調法モノに驚いただけです。でもたいした事ではないのであまり細かく詮索するのは悪趣味ですよ」
さりげなく手の中の鼠が見えるように動かしながらそう言うと、ノスリは感嘆したように眉を動かして手の中の鼠とエリシアを数度見比べた。
「その不調法モノって、あんたの手の中の鼠の事か? あんたよく平気な顔して掴んでんな」
「この程度、毎年よく見かけますから」
「マジかよ。便所姫、あんたどんな田舎住んでんだぁ? そういう害獣系ってこの国じゃ滅多と見ないもんだぜ?」
「え? なにそれ」
村から出た事がなかったのでまったく知らなかった事実に、思わず素が出た。
竜の守護範囲では暖かくて気候が変動せず害獣が出ない? それってうちの村、実はその範囲から外れてんじゃないの?? ちょっとヘコむよっ?!
新たにもたらされた情報は、生まれてからコレまでエルトが持っていた常識を揺るがすような代物で、他人と対峙してからずっと張っていた力が思わず抜けた。その瞬間を待っていたかのように掌中から鼠がするりと抜け出す。
「あっ」
慌てて掴みなおそうとしたエリシアの手をすり抜けて器用に地面に着地した白鼠は、駆け出そうと半歩前に出て正面に立つノスリに一瞬体を停止させ、踵を返してエリシアのスカートの裾から少しだけ出ていた足を駆け登った。
「ぉわっ!! なんでっ!?」
咄嗟にふわふわと膨らみを持つスカート越しにそれ以上の侵入を防ごうと両手で鼠が居るだろう場所にあたりをつけて押さえつけたが一歩遅く、さらに奥へと侵入する鼠に瞬間的にパニックに陥った。逃がしてはいけないという意識が働いてその場にしゃがみ込む。
出入り口を封鎖するように床に広がったスカートの裾が汚れるのはもう後回しにして、まずは太ももの辺り、パニエ越しに爪を立ててしがみ付いている鼠の処理だ。パニエのふくらみが多少邪魔だが、このまま容赦なくぶん殴ってどこかが潰れてもいいか、とまで思考がいった所で、目の前にいた男が予想外の行動に出た。真正面にひょいと屈みこんだかと思えばいきなりスカートの中に手を突っ込んだのだ。
「!?!?!?」
あんまりの状況に硬直したのは一瞬。次の瞬間、エリシアは躊躇も容赦も一切考えずにしゃがみ込んだ状態から立ち上がり気味に右の膝をノスリの顎に叩き込んでいた。ふんわりパニエとしゃがんだ状態からのスタートであまりスピードは乗らなかったが、丁度膝の真上に顎があった為にそれなりの威力があったのだろう、ノスリは頭に受けた衝撃で上半身を後ろに逸らし、その衝撃で手がスカートの中から引っこ抜かれた。
「・・・・ぃってぇ・・・いい膝してんなぁ。舌噛むかと思ったぜ」
「な、なん、、、っなにしや・・考え・・・っ!」
驚きと女装を続けなければという緊張感とバレるかもという恐怖が入り乱れて咄嗟に反応が追いつかず、エリシアは誤変換が行われる混乱した脳みそからなんとか言葉をひねり出そうと口を開閉させる。
そんなエリシアに痛そうに左手で顎を擦りながらノスリはなおどこか上機嫌に笑って右手に掴んでいたものを突き出して見せた。その手の中には弱弱しく手足を動かす白い鼠。
「せっかく人が取ってやろうとしたのにたいした仕打ちだぜ」
「・・・・・・・・・女性のスカートに手を突っ込んでそれで済んで良かったと思ってください」
「そりゃそうだ。お咎め無しで頼むぜ。・・・――――ん?」
なんとか平静そうな仮面をかぶり直して言葉を返すとノスリも特に違和感は感じなかったのか肩を竦めるように茶化して、不意に手の中の鼠に眉を寄せた。つられてノスリの顔から鼠へと視線を落としたエリシアの目にその鼠が口に銜えているものが飛び込んできて、ザッと血の気が引く。
怪しい文字。見覚えのある小さな紙片。ズボンのポケットに入れておいた物。
「ちょ・・・っ ソレは・・・っ!」
ポケットの中にしまっていたはずの代物の登場に慌てて取り戻そうと引っ掴むと、鼠も抵抗を思い出したかのように暴れだし、小さな音と共に二つに引き契れて手の中に小さな紙片だけが残った。とりあえず取り戻した方を手の中に握りこみ、残りは口の中に指を突っ込んででも取り戻そうと小さな口をこじ開けた途端、あまりの鼠の暴れように握っているのが難しくなったのかノスリの手の中から鼠が抜け出る。するりと上部に逃げ出した鼠はノスリの肩まで駆け上がり、再度捕まえようと手を伸ばしたノスリとエリシアの手をくぐり抜けて廊下へと飛び降りると脇目も振らず駆け出した。全速力なのかあっという間に視界から消えてしまう。
「あ・・っちょっ早っっ」
「いいだろ別にあんな紙切れ。なんか大事なもんなのか?」
「え・・・いや、・・・・・・・どう、かな?」
焦り気味にその姿を見送ってしまったエリシアとは反対に、とっくに追及を諦めたように振り返ったノスリが肩をすくめた。
冷静にそう切り返されると自信がなくなる。元々自分のモノではないのだし、怪しい内容だがどうせすぐ鼠の胃の腑に落ちてしまうのならば焦って取り返す必要もない。まあいいか、と溜息ひとつでけりをつけ、エリシアはそこでようやく結構近くに寄ってしまった男からそそと距離をとった。
「おう、傷つく反応だぜ」
「あまり馴れ馴れしく寄らないで下さい」
嫌味がわりにここに来てようやくニッコリ笑顔を浮かべてやると何故かノスリは耐えきれなくなったようにぶはっと噴き出した。怪訝そうに眉を顰めたエリシアにさらに笑みを深める。
「んだよ、あんたとオレが出来てるなんつー噂、気にしてんのか?」
「・・・・・・・・・・・・はぁっ!?」
数秒の時を経てエリシアの口から飛び足したのは廊下に響くかと思うほど素っ頓狂な声だった。反応が鈍くなったのは想定外のノスリの言葉に何を言われたのか把握するのが遅れたためだ。
この男と、僕が!? なんだソレ!?!?!?!
驚愕にそのまま固まってしまったエリシアに、笑いで肩を揺らしていたノスリがとうとう耐え切れなくなったのか自分の膝を叩くほどに爆笑しだす。
「いやいやいやっ マジでうけるよなぁっ あんたとオレはあの時が最初の出会いだってのに、あそこで逢引してたとかっ!」
「正真正銘初対面ですけど!? 第一他にも人がいましたが?!」
「いやぁあの捏造ぐあい、スゲェって! さっすが王宮っ 本人も吃驚のラブロマンスっぷりだぜ!」
「はぁあ!!??」
もう開いた口が塞がらないとはこの事か! 本人達を無視したラブロマンスなど悪趣味極まりない。もう何も言う気がおきずにエリシアは呆然と相手の顔を眺めた。
便所姫。新しい使用人。傭兵とのラブロマンス。
あ、ヤバイ。僕の死亡動機がどんどん濃くなってる・・・・・・・
爆笑するノスリの声を聞きながらエリシアはくらりと感じた眩暈になんとか耐え、同時にその元凶でもある目の前の男を殴っていいものかどうか半ば真剣に思案し始めた。
ヂ、チチチ・・・ッ
背後から聞こえてきた鳴き声に主の元へと運ぶ途中だった茶器を抱えたまま足を止め、ヴァルドはチラリと視線を流した。周囲に誰もいない事を確認し、慣れた様子で自分の肩に駆け上ってきた鼠にクッと唇を歪める。
「どうしたヘッジ。日の出ている時にやってくるとは珍しいな」
《・・・・・・サいアク ダ》
「どうかしたのか?」
《あイツ あッタ イたイッ ラんボウ!》
肩の上で器用に体を丸め、自分の尻尾を労わる様に撫でるヘッジにヴァルドは喉の奥で笑った。大方ヘッジの言っている“あいつ”とはあのヴァーチナムのお姫様の事だろう。彼女にかかわるとヘッジはろくな目にあわないのかもしれない。
「――――で、どうしたんだ? そんな事で報告になど来るわけないよな?」
確かに乱暴を働かれたのは本当だろうが、そんなものいちいち取り合うような事ではない。さっさと本題に移れと暗に促すと、ヘッジはヴァルドの手元まで駆け下り、その両手で持つお盆の中に口内でくちゃくちゃになった紙片を吐き出した。
《あイツ モッテた》
「ふぅん」
短い一言と共に再び肩に戻ったヘッジに適当に返事してお盆を左手に回し、片手で器用にシワを伸ばして現れた内容を一読。フっと顔から表情が消えたのは一瞬で、すぐに紙切れを持ってきたヘッジに視線を流しながら唇を笑みの形に吊り上げた。
―――― 接触に成功しま ――――
途中で切れているが、それでもまあずいぶんと面白い内容だ。
「これはまた面白いものを見つけたな」
《フまレタ すカァとのナカ みツケた》
「おっ前踏まれたのか。とんだ間抜けだ」
ククッと堪えきれずに笑い出したヴァルドに、チチチ、とヘッジが不満そうに一声鳴く。あれは逃れようがなかったのだと言いたいのをグッと堪えてまだ痛みが残る尻尾のお手入れを入念に始めた。どうせ言い足したところでさらに笑われるのがオチだ。
ペロペロと毛の少ない尻尾を舐めながら、そこでヘッジはもうひとつ言うべき事を思い出した。
《あト オトこ イた》
「男? 誰だ?」
《カたな フたツ》
端的に特徴を挙げるとヴァルドは、ああ、と若干面白くなさそうに薄水色の瞳を細める。
「副団長か」
《ニギりつブさレた》
「お前がか?」
《ふツウ ノ ネズみ ナら シヌ チから》
「・・・・・・ふぅ~ん」
切れ切れに報告するヘッジを横目に眺めながらヴァルドの声が若干低くなった。薄水色の瞳から一切の感情が消え、途端に纏う空気が重く変わる。
「正体がばれそうになったら即刻殺すからな」
囁くように落とされた声にヘッジは肩の上で小さく蹲って弱弱しく鳴いた。
なんだかとても自分を殴りたそうに眺めていたエリシアが、若干の未練を残しながら部屋へと入っていくのを見送ってからノスリは強張った肩をぐるりと回した。途端に顎に鈍い痛みが起こって患部を擦る。
「・・・・・・いててっ ホンットいいところにキマったもんだぜ」
痛みにわずかに眉を潜めながら階段の方へ向かうと、階下から上がってきていた騎士がノスリに気付いてハッとその場で立ち止まり、敬礼をした。
「副団長っ!」
「ンだよめんどくせェ。今度はなんだ?」
「昨晩の侵入者に対しての報告会がこれから行われるということですっ」
律儀にそのまま声を上げた部下に溜息をひとつ吐いて顎から手を離す。だるそうに階段を下りると男はノスリの背後にぴったりと着いてきた。
「なんか進展あったのか?」
「いえ。逃してしまった一人に関しては未だに要として知れないそうですが、死体の身元検証で少しは絞り込めるのではないかという事です」
「侵入者がいちいち身元の分かるようなモン持ってるとも思えねェがな」
「どのような些細な事でも情報の共有は必要であるとの総隊長からのお達しです」
「タイチョーは相変わらず真面目だねぇ」
肩を竦めるように茶化すと、ノスリは不意に己の掌に視線を落とした。背後で訝しがる部下にハッと笑って掌に残っていた白い毛を吹き飛ばす。
「鼠の飼い主は誰だかなっと」
「侵入者の飼い主、ですか?」
「いんやぁ、独り言。まあ気にすんな」
カラカラと笑みを浮かべた近衛騎士団副団長は適当に部下の追及を誤魔化しながらこれから行われる会議にメンドクサイとため息をついて兵舎へと足を向けた。
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