10.エリシア、忍耐を試される
「・・・承知いたしました。ちゃんと指示に従いますのでどうか私をお部屋付きに」
スカートから手を放し、先ほどまでと変わらない無表情で一礼したシオナを見ながらエリシアは内心、地面に頭を擦り付けたいくらい後悔していた。
あきらかに面倒ごとになるのは目に見えている。しかしああいう目には弱いのだ。
追い討ちのように、お前はよくいらない事を抱え込むからな、と嘲笑する友の幻聴が聞こえてさらに落ち込む。というかどこかで聞いたような言葉だと思ったら実際昔言われた言葉だった。どうやらそんなに成長していないらしい。
うっさいグレイ。お互い様だ、ばーか。
声に出さずに友に愚痴を零して気持ちを切り替える。いまさら嘆いても遅い。マリーネがくれたチャンスを捨てたのは自分なのだから何かあったときは自分でなんとかしよう。
エリシアは誰にも気付かれないようにひとつ息を吐き、決意を笑顔にしてシオナに対して鷹揚に見えるようにゆっくりと頷いた。
「ええ、よろしくお願いしますね」
一度だけ下げられたシオナの頭を流し見、部屋へ戻るためにマリーネのいる方向へと向き直る。エリシアの視界に入ったマリーネとルチル、さらにはその先のほうでちらほらと固まっていた使用人達がざわめきながら左右に別れて道を開けるのを見て、絶対噂になるな、と苦笑したい気分になった。
「失礼。もう通ってもいいのかな?」
踏み出そうとしたエリシアの足を止めるように男の声がその場に響いた。侍女ばかりだったその場のざわめきは小さいながらも一転して華やかな黄色さを帯び、使用人達が分かれた道の先に立っていた男に熱い視線が集まっている。
まあ理由はわからないでもない。近寄ってきた男は爽やかな笑顔を浮かべたイケメンだったのだから。
柔らかそうな明るい茶髪に切れ長の薄緑の瞳。30代前後の年で、線が細いながらも男臭さを残した端麗な顔には親しみやすい笑みが浮かんでいる。動きやすそうな白い筋の入った仕官服の上に飾りの少ない薄灰色を基調とした長めのローブを羽織り、右肩の辺りに貝殻に山羊の模様の銀の止め具が付いていた。
灰色は見習いの色、地面を擦るほど長いローブは大臣、貝殻・山羊の装飾は財務系。てーことは、つまりこの男は“白”の大臣見習い・・?!
思わぬ人物の登場にエリシアは引きつりそうになる顔を気合で引きとめた。
セスティアでは大まかに四つに分けられた国の役職がそれぞれ色の名前で“赤”、“青”、“白”、“黒”、と呼ばれており、役人は下っ端にいたるまでその部署の色の入った服を着ている。だから白い服を身に纏い、貝殻と山羊を身につけた目の前の男は“白”の部署の次期トップという事になる。
何でこんな所に大物がいるんだ、と思ったが理由はおそらく男が手に持っている書類らしき物だろう。そんなもの部下に運ばせればいいと思うが“白”の部署は国の財政関連を担当しているだけあって部下であろうと見せられない物が存在してもおかしくない。次期トップが使いっぱしられても仕方がない代物なのかもしれない。
・・・っていうか、なんでそんなヤツがいたのに僕はこんな目立つところで不毛なやり取りやってたワケ・・っ!?
今すぐ廊下を駆け抜けて部屋に飛び込みたい衝動が襲ってきたがそれでもなんとか足を踏ん張って耐えた。そんな挙動不審な娘、カーティス家の爺さんが望んでいるエリシアではない。
礼儀正しく優雅に振舞いながら控えめで目立たない平凡な娘。
くそう、男の僕に高い理想を望みやがって、と目の前にいないからこそ思える愚痴を心の中でボツボツと零しつつ顔は目の前の大臣候補の男に笑みを浮かべてみせる。
「ごめんなさい。お仕事中にとても迷惑をかけてしまって・・・」
少し眉を寄せながら申し訳なさそうに視線を落とすと男は、いや、と軽く頭を振った。
「迷惑など。女性達の会話はどんな物でも華やかで可愛らしいものですよ、エリシア様」
やはりエリシアの事を知っているらしい男が見せたキラッと歯が光らんばかりの笑顔に、ぞわりとエリシアの中で何かが駆け抜けた。周りでキャーキャー言い始めた王宮侍女達に対してもその笑顔を振りまいているところを見ると、元々気さくな性質らしい。
キラキラしい笑顔を振りまきながら近寄ってきた男にルチルがちょっと気圧されたようにマリーネの背後にあとずさる。ああいうノリの男が肌に合わない女性というのもいるようだ。
一方、マリーネの方は堂々と顔を上げて男の顔を見ていた。引きはしないが特別な感情も覚えない、といった感じか。
「おや、美しいお嬢さん。エリシア様のお連れの方ですか? 主従揃って美しいとはさすがカーティス家」
マリーネと視線が合ったのだろう、いい笑顔を振りまきながらの男の言葉にエリシアの必死の笑顔もさすがに壊れそうになった。
もうホントやめてくれ・・・っ 僕の精神がゴリゴリと削れる・・・っ!!!
男に美女と褒められるのがこんなに苦痛とは。
マリーネは確かにめちゃくちゃ美人だが僕まではいらない。世辞はいいから愛想振りまいてないでさっさとどっか行ってくれ。
切実に思いながら実際に声をかけられたマリーネの方を見ると、マリーネはどう思ったのか知らないが、その綺麗な顔に楚々とした微笑みを浮かべて軽く腰を折った。
「マリーネと申します。こちらはルチル。あちらにいるのがシオナ。ともにエリシア様のお部屋付きです」
いきなり高官の前で名前を呼ばれて驚いたのか、ルチルはひょこんと小さく跳ねてから慌てて腰を折り、シオナの方はエリシアの斜め後ろの位置でそつなく頭を下げる。
許可もなく使用人が高官に声をかけるのはどうかとも思うが、男はそこら辺厳しそうじゃないので多分大丈夫だろう―――・・・と思って男の顔を見て吃驚した。男は驚いたように大きく目を見張り、口元から笑みが消えていた。え、なにコレヤバい?
咄嗟に二人のもとに歩み寄り、顔を見られないように俯き気味にしながら男との間に割り込む。エリシアの乱入に男も数歩下がって距離を離したので近距離で顔をガン見されるという事態は防げた。
「ご無礼を」
なるべく深く顔を伏せるようにして短く謝意を示して二人を庇うと男は、あぁ、と力の抜けたような声を上げた後、声をあげた事に気付いたように先ほどと同じように口元に笑みを浮かべながら困惑したように少しだけ眉根を寄せる。
「いえ、別に無礼だとか思ったわけではなくて、ただ、知り合いに同じ名前の娘がいただけで。それで驚いてしまって」
言いながら近づいてきてルチルの顔を覗き込む。
「別に珍しい名前でもないのにね。―――ルチル、君に似合った可愛い名前だ」
「ひゃ、ひゃいっ」
歯の浮くような台詞とともに輝くような笑顔を間近で向けられ、ルチルの顔がカァッと茹蛸のように真っ赤に染まった。傍から見ていて寒気でゾクゾクする。
もし僕がこんな台詞を義妹達や村の女性に言ったら鼻で笑われるかぶん殴られるかだろうし、誰かに正面きって言われたら僕は相手の顔面をぶん殴りそうだ。薄ら寒い。
けれどルチルだけでなく、男と視線が合ったマリーネもはんなりと笑ったところを見ると、もしかして女性は男にこんな台詞を言って欲しいものなのだろうか・・・・・・・・・・・・女心がわからない・・・・・・
周りの女性達を次々と落としていく男の行動を見ながら、ぼうっと考えていたエリシアは、突然自分に手を差し伸べてきた男に意味がわからず首を傾げた。その傍ら、マリーネには男の行動がわかったらしくサッとエリシアの手から籠を取り上げる。え?え?え??
「?」
意味もわからず己の腕の中から消えた籠の行方を辿っていると、男はエリシアを男慣れしない初心だとでも思ったのか宥める様な笑みを浮かべながら藤色の長手袋に包まれた左手をそっと手にとって膝を折る。
こ、、、れは・・っ!! 見たことある・・・っ!!!
おそらく自分が出会いたくないシーンのうちのひとつだ。
男性から女性に対して敬愛を表して行う、手の甲へのキス。こんな廊下の片隅で、覚悟も何も整ってない状況で出会おうとは・・・っ!
徐々に己の手の甲に近づいてくる男の頭を見ながらエリシアはここが正念場だと悟った。僕は淑女僕は淑女、と何度も脳内で呟いて刷り込みながら体を微動だにしないよう、握られた腕以外全ての筋肉を強張らせる。
そっと藤色の長手袋にキスを落とされ、そのままきらめきスマイルで見上げられた時、エリシアは自分がきちんと笑顔を浮かべていられたかどうかまったく自信がなかった。
「ご挨拶が遅れました。エリシア様。私はグラッド・タグル。白の大臣の補佐をさせていただいております」
「まあご丁寧に、グラッド様。私の事はもうご存知なのですね。タグルと申しますと、白の大臣・ゲイル・W=タグル様の関係者かしら」
自分の態度が大丈夫なのかどうかはわからなかったが、とりあえずエリシアの口から零れた声は平素と変わらぬ穏やかなアルトボイスだった。目の前でまるで騎士のように片膝を折ったグラッドの表情や態度が変わらぬところを見ると楚々とした態度は貫き通せているのだろう。
もう挨拶はいいだろ、と手袋で手の大きさが誤魔化されているうちにそっと腕を引き抜くと、グラッドは笑顔に少々の驚きを乗せて立ち上がった。
「エリシア様は博識ですね。ゲイルは私の伯父です。階級持ちでもないこの身がこの地位にあるのはひとえに伯父のおかげで、恥ずかしいばかりです」
「ゲイル様は市井の出ながらその類まれな経営手腕で貴族級の個人称号“W”を受け賜ったと聞いています。そのような方が身内びいきだけで大臣補佐など用意しないと思いますけど」
違いますかしら?、と首を傾げるとグラッドは一瞬、虚を突かれたようにきょとんとしてからますます笑顔を輝かせ、一度離したエリシアの手をもう一度手に取る。
「聡明なレディ。貴女にそう言っていただけただけで十分です」
手の甲にキス。
ぞわあぁぁああああぁっ!!!
エリシアの背筋に本日最大限の怖気が走っていった。それだけでは納まらず、さらに間断的にざわざわと背筋を這い登る怖気に襲われながらなんとか手先にまで伝わらないように肩に力を込める。悪寒となんともいいがたい感情で唇が震えそうになるのを一度思いっきり噛み締めてやり過ごした。
「・・・―――光栄ですわ、グラッド様」
言葉をなんとか捻り出すまでに少々時間がかかったのはしょうがないと思う。むしろ未だに笑顔を保っている――だろう自分の表情筋を褒め称えたい。
エリシア、ファイト、頑張れ、もう少し、と心の中で何度も掛け声をかけながら目の前の男を殴りたくなる自分の意思と戦っていた。
「申し訳ございません・・・エリシア様、お食事の用意が」
さすがにマリーネはそんなエリシアの心情を見通したのか硬直するエリシアの斜め後ろの事務的にそっと告げた。口実をもらってエリシアは内心安堵の息を吐きながらさりげなく男の手から自分の手を取り戻す。
「ごめんなさい、私、そろそろ部屋に戻らないと」
「いえ、こちらこそ引きとめてしまって申し訳ない。貴女との会話が魅力的すぎてつい仕事を忘れて過ごしてしまいました」
若干身を引きながらそういったエリシアにグラッドは左手に持った書類を見せるように持ち上げて苦笑した。いちいち気持ち悪い言い方するなよ、と言いたくなるがこれがこの男の性格なのだろう。
笑顔、笑顔、と言い聞かせながらドレスの裾をさばいて身を正す。
「では、失礼します」
「ええ、楽しいひとときでした」
グラッドは朗らかに笑いながら頭を下げ、視界に入った王宮侍女達に軽く手を振る。遠巻きにエリシア達を見守っていた王宮侍女達は途端にキャーッという黄色い声を廊下を響かせた。
エリシアが視線を向けるとすぐに己の職を思い出してサッと顔を背けて声を落とすが、それでも朝の廊下に華やかな空気が舞う。
もう一度手を振ってグラッドがエリシアのきた方向へと歩き出すのを見送りエリシアはマリーネ達三人を従えて廊下をしずしずと歩き出した。
もう二度と会いたくないな、と顔には出さずにげんなりとした空気を背負うエリシアの背後で遠くなる男の背中をマリーネが。そのマリーネをルチルが気付かれないようにそっと見つめていた。