没落令嬢ですが、隣国の小王子に攫われました〜真の聖女の力は偽物に横取りできないようです〜「見つけた、僕の真珠」
帝国ガラルド。大陸随一の軍事力を誇るこの国の象徴とも言える「黄金の薔薇の夜会」は、その名の通り煌びやかな虚飾に満ちていた。
シャンデリアの水晶が放つ光が、着飾った貴族たちの宝石を照らし、最高級のワインの香りがホールに満ちる。
だが、その華やかさの影——ホールの隅、影になった柱の陰で、一人の少女が膝をついて床を磨いていた。
「……っ、……」
リディア・アステル。
かつては帝国一の魔力を持つと謳われたアステル伯爵家の令嬢。
そして二年前までは、この国の「聖女」の座に最も近いと言われていた少女だ。
今の彼女が身に纏っているのは、絹のドレスではない。
泥と石鹸水で汚れた、洗濯係のボロボロの制服だ。
リディアの手はあかぎれでひび割れ、かつて「月の雫」と称えられた銀髪は、艶を失い乱雑にまとめられている。
「おい、そこ。邪魔だ。どけよ『偽聖女』」
通りすがりの若い貴族が、リディアの指をわざと踏みつけるようにして歩いていく。
リディアは声も上げず、ただ静かに指を引き、深く頭を下げた。
声が出ないのだ。
二年前、現在の聖女であるミナが現れたあの日。
リディアは「聖女の力を詐称し、ミナを呪おうとした」という身に覚えのない罪を着せられ、その喉から「声」を奪われた。
アステル伯爵家は取り潰され、リディアは奴隷同然の洗濯係として、この王宮に留め置かれることになった。
(……ミナ様。あなたが、私の力を奪ったのに)
リディアは、ホールの中心で男たちに囲まれている少女を見やった。
ふわふわとした桃色の髪に、潤んだ瞳。
今代の聖女、ミナ。
彼女の背後には、この国の第一皇子レオナードが守るように立っている。
「レオナード様、もうそれくらいにして差し上げてくださいな。セリーナ様も、きっと悪気はなかったのですわ……」
ミナが、消え入るような声で訴える。
その視線の先には、一人の高慢そうな令嬢が立っていた。
セリーナ・ド・ラ・ヴァリエール。公爵家の令嬢であり、レオナード皇子の婚約者だ。
彼女は、まるで悪人のようなきつい目つきと派手な美貌を持っていた。
「黙りなさい、この泥棒猫! あなたがレオナード様をたぶらかし、聖女の座をリディア様から奪い取ったこと、私は忘れていませんわ!」
セリーナが扇を広げ、鋭い声で言い放つ。
周囲の貴族たちは、その言葉に一斉に冷ややかな視線を浴びせた。
「見苦しいぞ、セリーナ! ミナは慈悲深く、お前の非礼すら許そうとしているのだ。それを恩に感じるどころか、この聖なる夜会で罵倒するとは……。やはりお前は、この国の国母にはふさわしくない!」
皇子レオナードの怒声が響く。
リディアは、床を拭く手を止めてその様子を見つめていた。
(……セリーナ様。ダメです、それ以上言っては……。あの女は、あなたの言葉を逆手に取るわ)
リディアは知っている。セリーナが悪役令嬢などではないことを。
リディアが没落し、周囲の全員が石を投げる中、唯一人、夜中にこっそりとリディアの洗濯部屋を訪れ、「これを食べて生き延びなさい」と、高級なパンや薬を置いていってくれたのはセリーナだった。
彼女は、あまりに不器用だった。
リディアへの恩義と、ミナへの疑念を、激しい言葉でしか表現できなかった。
その正義感が、今まさに彼女を破滅へと追い込もうとしている。
「セリーナ、今ここで宣言する。お前との婚約を破棄し、お前を国外追放に処す!」
レオナードの言葉に、会場がざわめいた。
セリーナの顔から血の気が引く。だが、彼女は震える膝を必死に抑え、顎を引いて立ち尽くした。
「……後悔なさいますわよ、レオナード殿下。真実を見誤った王に、この偉大なる帝国を導く資格はありませんわ」
「黙れ! 衛兵、この女を連れて行け!」
セリーナが腕を掴まれ、引きずられていく。
その時、セリーナの視線が一瞬だけ、隅で震えるリディアと交差した。
彼女は悲しげに微笑み、口の形だけでこう言った。
——『逃げなさい』
セリーナは、自分の破滅が決まった瞬間でも、リディアのことを案じていたのだ。
ミナがレオナードの胸に顔を埋め、勝ち誇ったような笑みを浮かべるのを、リディアははっきりと見た。
(そんな……。セリーナ様まで失ったら、私は……)
絶望がリディアを包み込もうとした、その時だった。
「——ずいぶんと騒がしい夜会ですね。帝国ガラルドの『正義』とは、か弱い女性二人を虐げることなのですか?」
静かだが、ホールのざわめきを切り裂くような凛とした声が響いた。
貴族たちが道を開ける。
現れたのは、帝国の派手な正装とは異なる、洗練された、だが質素な旅装の男たちだった。
その中心に立つ青年を見て、リディアは息を呑んだ。
燃えるような金髪。深い海のような蒼い瞳。
彼は、帝国とは国境を接するものの、小国ゆえに軽んじられている「ロゼル王国」の第三王子、カイルだった。
「……何だ、カイルか。小国の王子の分際で、私の決定に口を挟むつもりか?」
レオナードが不快そうに鼻を鳴らす。
カイル王子は、レオナードの無礼な言葉を柳に風と受け流し、ゆっくりと歩みを進めた。
彼はセリーナを見、そして——。
なぜか、ホールの隅で膝をついている、薄汚れたリディアの前にまでやってきた。
カイルは、優雅な所作で片膝をついた。
泥だらけの床に、彼の高価な衣服が触れるのも厭わずに。
「……見つけた、僕の真珠」
彼の手が、リディアのあかぎれだらけの指をそっと包み込む。
リディアは驚きに目を見開いた。声が出ない彼女は、ただパクパクと唇を動かすことしかできない。
カイルは愛おしげに目を細め、リディアの指先に、誓いのようなキスを落とした。
「リディア様。二年前の約束を、果たしに来ました。——あなたを、この薄汚れた檻から救い出しに」
会場にいた全員が、言葉を失ってその光景を見つめていた。
聖女ミナの顔から、余裕の笑みが消え、醜い困惑が広がっていく。
◇
「な、何を言っている、カイル! その女が誰だか分かっているのか?」
静まり返ったホールに、レオナード皇子の困惑した声が響いた。
カイル王子は、リディアの手を握ったまま、一度も視線を外さずに答える。
「もちろんです、レオナード殿下。彼女はリディア・アステル。かつてこの国で最も清らかな魔力を持ち、そして今、あなた方がその尊厳を泥にまみれさせている女性だ」
「フン、買いかぶりすぎだ。そいつは聖女ミナを呪おうとした大罪人だぞ。声を奪われ、魔力も枯渇した、ただの『搾りかす』だ」
レオナードの冷酷な言葉に、会場の貴族たちからクスクスと嘲笑が漏れる。
その嘲笑を、カイルの鋭い視線が射抜いた。
「『搾りかす』、ですか。……なるほど、帝国の方々の目は節穴のようだ。僕の国では、真珠が泥に汚れていても、その価値を見誤るような愚か者はおりません」
カイルは懐から、雪のように白い外套を取り出すと、それをリディアの細い肩に優しく掛けた。
汚れきった洗濯係の服が、上質な毛皮に覆われて隠されていく。
「リディア様。二年前、僕がこの国に留学していた折、行き倒れた僕に魔力を分け、救ってくださったことを覚えていますか?」
リディアは驚いて顔を上げた。
二年前……。確かに、路地裏で魔力酔いを起こして倒れていた少年を助けた記憶がある。
だが、あの時の少年はもっと幼く、ボロボロの服を着ていた。まさか、それが隣国の王子だったなんて。
声の出ないリディアは、ただ唇を震わせる。
カイルは慈しむような微笑みを浮かべ、彼女の頬を指先でなぞった。
「あなたはあの日、『お礼はいらないわ。あなたが無事に国へ帰れることが、私への一番の贈り物よ』と笑ってくれた。……その優しさが、どれほど僕の支えになったか。今度は、僕があなたを救う番です」
「ふざけるな!」
レオナードが声を荒らげ、一歩踏み出した。
「その女は帝国の所有物だ。いかに他国の王子といえど、勝手に連れ出すことは許さん。それに、婚約破棄されたセリーナもだ。この女はこれから辺境の修道院へ送ることに決まっている」
「お言葉ですが、レオナード殿下」
カイルが、凍りつくような冷笑を浮かべた。
「ガラルド帝国と我がロゼル王国の間には、百年前の協定があります。『帝国がその価値を認めず、放逐した人材については、我が国がその身柄を預かる権利を有する』。特に、国外追放を命じられた者は、その時点で帝国の所有権を放棄したと見なされます。本来なら貴国の極悪人の処理を我が国に押し付ける不平等条約でしたが、まあなんと都合の良い協定なのでしょう!」
「そんな古い紙切れのような約束……!」
「紙切れ、ですか。……では、来月から我が国から輸出している『魔石』の供給を止めても、文句は仰らないということでよろしいですね?」
その言葉に、レオナードだけでなく、周囲の重鎮たちの顔色が変わった。
ロゼル王国は確かに小国だ。しかし、世界最大級の魔石鉱山を有し、その品質は他国の追随を許さない。
魔導具で文明を維持している帝国にとって、ロゼル王国からの魔石供給が止まることは、国家の機能不全を意味する。
「貴様……脅すつもりか!」
「滅相もない。ただ、我が国の宝を傷つけるような国に、これ以上の便宜を図る理由がないと申し上げているだけです。……それから、セリーナ様」
カイルは、衛兵に腕を掴まれていたセリーナへ視線を向けた。
セリーナは驚きに目を見開いている。
「あなたも、我が国へお越しいただけませんか? 帝国最強と謳われたヴァリエール公爵家の騎士道精神、我が国でこそ活かしていただきたい」
「私を……? ですが、私はレオナード様を……ミナ様をいじめた悪女ですのよ?」
「真実がどうあれ、リディア様が信頼しているあなたを、僕は信頼します」
カイルの言葉に、セリーナの瞳から大粒の涙が溢れた。
彼女は衛兵の手を振り払い、リディアの側へと駆け寄った。
「……リディア様。私、あなたをお守りしたかったのに、何もできなくて……」
リディアは首を振り、セリーナの冷えた手を両手で包み込んだ。
(ありがとう、セリーナ様。あなたは、私の唯一の光でした)
声にはならないけれど、心からの感謝を込めて。
「行こう、二人とも。ここはもう、君たちがいるべき場所じゃない」
カイルが二人をエスコートするように導く。
レオナードは地団駄を踏んだが、カイルの背後に控えるロゼルの精鋭騎士たちの威圧感に、手出しをすることができなかった。
ホールを出る間際、リディアは振り返った。
そこには、レオナードの腕にすがりつきながら、忌々しげにこちらを睨みつける聖女ミナの姿があった。
ミナの胸元で、鈍い光を放つペンダントが見える。
リディアは直感した。あれこそが、自分の魔力と声を奪い、封じ込めている魔道具なのだと。
(返してもらうわ。いつか必ず……あなたが奪ったすべてを)
リディアの瞳に、絶望ではなく、静かな闘志の火が灯った。
王宮の外には、小国ロゼルには不釣り合いなほど、豪華で重厚な魔導馬車が待機していた。
馬車に乗り込んだ瞬間、外の喧騒が嘘のように消える。
「さあ、まずは温かいお茶を。リディア様、セリーナ様」
カイルが自ら茶を淹れる。その所作の一つ一つが、リディアたちを「罪人」や「洗濯係」としてではなく、一国の「貴賓」として扱っていることを示していた。
「カイル様、本当に……よろしいのですか? 私のような、もう何も持たない女のために、帝国と対立するような真似をして」
リディアは、震える手で膝の上に置いたカイルの外套を握りしめた。
「何も持たない? リディア様、あなたは何も分かっていないようだ」
カイルはリディアの前に座り、彼女の目を見つめた。
「あなたの魔力は枯渇などしていない。あの偽聖女が、特殊な呪具であなたの魔力の『出口』を塞ぎ、自分のパイプラインとして繋いでいるだけです。いわば、あなたは彼女の歩く魔力タンクにされている。彼女が奇跡を起こすたび、あなたの命が削られている状態だ」
「……っ!」
セリーナが息を呑む。「なんて卑劣な……!」
「ロゼルに到着すれば、我が国の王宮魔導師たちがその呪いを解きます。その時、帝国は知ることになるでしょう。自分たちがどれほど愚かな選択をしたのかを。……リディア様、あなたは我が国の、そして僕の、かけがえのない宝物なんです」
カイルの熱い視線に、リディアの頬が赤く染まる。
彼が自分に向ける感情は、単なる恩返し以上のものだと、今の言葉で痛いほど伝わってきた。
「セリーナ様も、あなたの鋭い洞察力は外交に役立ちます。帝国があなたを『悪役』に仕立て上げたのは、あなたの正義感が彼らにとって不都合だったからに過ぎない」
「カイル様……。私、全力でお仕えいたしますわ。リディア様を、二度とあのような目に遭わせないために!」
セリーナが力強く宣言する。
リディアは二人を見渡し、久しぶりに、心からの安らぎを感じていた。
だが、馬車が帝国の国境に近づいたその時——。
突如として、馬車が激しく揺れた。
「何事だ!」
カイルが窓の外を見る。
そこには、帝国の追撃部隊の姿があった。それも、聖女ミナを同伴した、レオナード直属の精鋭騎士団だ。
「逃がさないわよ、リディア!あなたは死ぬまで、私の召使いなの!」
◇
帝国の国境付近、深い霧に包まれた「嘆きの森」。
そこで馬車は、帝国騎士団の重厚な包囲網によって強制的に止められた。
「……ここまでだ、小国の王子。その女は帝国の『資源』だ。返してもらおうか」
馬車の外からは、レオナード皇子の冷酷な声が響く。傍らには、聖女の法衣を纏ったミナが、悲劇のヒロインを演じるように俯いて立っていた。
だが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥と殺意が渦巻いている。
「資源、ですか。どこまでも彼女をモノ扱いするのですね」
カイルが静かに馬車の扉を開け、外へと降り立つ。続いて、剣を手にしたセリーナがリディアを庇うようにして降りた。
リディアはカイルから贈られた純白の外套を握りしめ、冷たい夜気を吸い込む。
「カイル様、無駄ですわ。この女は、私がいないと魔力を制御できない『欠陥品』なんですもの」
ミナが一歩前に出る。彼女の胸元で、あの不気味な輝きを放つペンダントが脈動していた。
「リディア、いい加減に戻ってきなさい。あなたが勝手に逃げるから、私の……いえ、帝国の加護が弱まっているのよ。あなたが大人しく私に魔力を捧げ続けていれば、みんな幸せでいられたのに」
ミナの声に、周囲の騎士たちが頷く。彼らは信じ切っているのだ。
ミナが起こす奇跡こそが正義であり、リディアはそのための「道具」に過ぎないという歪んだ理屈を。
(……違う。私は、あなたの道具じゃない)
リディアは声にならない叫びを飲み込む。
ミナがペンダントに手を触れた瞬間、リディアの心臓に鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走った。
「あ、……っ……!!」
リディアが膝をつく。無理やり魔力を吸い上げられる感覚。視界が白く染まる。
「リディア様!」
セリーナが叫び、剣を抜こうとするが、レオナードが冷笑を浮かべてそれを制した。
「無駄だ。聖女ミナの『聖域』の中では、逆らう者には苦痛が与えられる。大人しくリディアを引き渡せば、セリーナ、お前の命だけは助けてやってもいいぞ」
「……お断りいたしますわ、この節穴皇子!」
セリーナが叫ぶ。
「私はもう、リディア様の騎士として生きると決めましたの!」
「フン、死にたいようだな。ミナ、やれ」
レオナードの命に従い、ミナが勝ち誇った顔でペンダントを掲げた。
「さあ、リディア。あなたのすべてを私によこしなさい!」
ドクン、と世界が揺れるほどの魔力の奔流。
リディアの生命力が、文字通り吸い尽くされようとしたその時——。
「——そこまでです。偽りの聖女」
カイルの声が、冷徹に響いた。
彼の手には、ロゼル王国の国宝である『黎明の魔石』が握られていた。
それは、あらゆる魔力の繋がりを「本来あるべき場所」へと強制的に送り返す、原初の石。
「な……!? 魔力が、吸えない……? 逆に、流れ込んで……!?」
ミナの顔が、驚愕に歪む。
カイルが魔石を掲げると、リディアとミナを繋いでいたどす黒い魔力の糸が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。
「このペンダントは、持ち主の魔力と声を『核』として封じ込める呪具だ。だが、より強大な浄化の炎に触れれば——その契約は破棄される」
カイルがリディアの背中にそっと手を添える。
「リディア様。取り戻してください。あなたの声を、あなたの光を。……僕の名前を、呼んでください」
その瞬間。
リディアの中で、二年間せき止められていた巨大な魔力のダムが決壊した。
奪われていた魔力が、本来の持ち主を求めて猛烈な勢いで逆流を始めたのだ。
「あああああど、どうして!? 私の力が、私の美しさが……っ!!」
ミナが悲鳴を上げる。
リディアから奪った魔力で「若さ」と「美貌」を保っていたミナの肌が、みるみるうちにどす黒く変色し、その瞳からは聖女の輝きが失われていく。
そして。
リディアの喉の奥で、熱い塊が弾けた。
「…………カ……イル…………」
掠れた、けれど鈴を転がすような、あまりにも美しい声。
リディアの口から溢れたのは、二年間、夢にまで見た「言葉」だった。
「カイル様……! 私、声が……出ます……!」
リディアが自分の喉に手を当て、涙を流す。
その背中から、純白の魔力が翼のように広がり、夜の森を昼間のような輝きで照らし出した。
「お、おい、ミナ、どうしたんだその顔は!? 化け物のような……っ!」
レオナードが、醜く変貌していくミナを突き放した。
ミナは地面を這いずりながら、リディアに手を伸ばす。
「返して……私の魔力を、返してよ! 私が、私が聖女なのよぉ!」
「いいえ。あなたは、ただの泥棒です」
リディアは、まっすぐにミナを見据えて言い放った。
その瞳には、もう怯えはない。
「私がこれまでにあなたに奪われた魔力……それはすべて、この国の民のために使われるべきものでした。自分の私欲のために浪費した報いは、ご自身で受けてください」
リディアが放つ圧倒的な魔力に、帝国の騎士たちは恐れおののき、次々と武器を捨てて膝をついた。
これが「本物」の聖女の力だと、理屈ではなく本能で理解したのだ。
「さて、レオナード殿下」
カイルが、凍りつくような笑顔でレオナードを見つめる。
「我が国の『宝』を道具として扱い、挙句の果てにこれほど惨めな姿に晒した。……この落とし前は、外交の場で正式に付けていただきますよ。もっとも、魔力を失い、聖女を失った帝国に、我が国と対等に話す力があればの話ですが」
「くっ、……う、うわあああああ!」
レオナードは、変わり果てたミナを置き去りにし、無様に馬に乗って逃げ出した。
後には、力を失い、急激な老化に震えるミナと、呆然と立ち尽くす騎士たちだけが残された。
「行きましょう、リディア様。セリーナ様」
カイルが優しくリディアを抱き上げる。
「ここが、帝国の終わり。そして、あなたの新しい人生の始まりです」
国境の向こう側から、朝日が昇り始めていた。
リディアはカイルの胸に顔を埋め、セリーナと手を取り合いながら、かつて自分を苦しめた黄金の帝国に、静かに別れを告げた。
◇
帝国との国境を越え、ロゼル王国の領土に入った瞬間、世界の色が変わったようにリディアには感じられた。
乾燥し、どこか殺伐としていた帝国の空気とは違い、ここは瑞々しい緑の香りと、穏やかな風が吹き抜けている。
「リディア様、見てください。あそこが我が国の王都、ルミナスです」
カイルが指さした先には、美しい湖のほとりに佇む、白亜の城下町が広がっていた。
小国ながら、建物の一つ一つが丁寧に手入れされ、行き交う人々の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
ロゼル王国に到着したリディアを待っていたのは、想像を絶する歓迎だった。
「聖女様が来てくださった!」
「あの方が、殿下が命がけで救い出した真珠様か!」
カイルはリディアの手をとり、王宮のバルコニーから民衆の前に立った。
リディアが、取り戻したばかりの声で「皆さんに、幸あらんことを」と短く祈りを捧げると、彼女の指先から溢れた純白の光が、雪のように王都に降り注いだ。
それは、帝国の聖女ミナが見せていた「見せかけの奇跡」とは全く異なるものだった。
光に触れた街路樹には大輪の花が咲き、病に伏せっていた者は活力を取り戻し、枯れかけていた井戸からは清らかな水が湧き出した。
本物の聖女の力——それは奪うものではなく、世界に愛を分け与え、循環させる力だったのだ。
一方、その頃。
リディアとカイルに「断罪」された帝国ガラルドは、急速に崩壊の道を辿っていた。
本物の聖女であるリディアを失い、さらに偽聖女ミナが貯め込んでいた魔力をリディアに奪還されたことで、帝国の魔導インフラは一夜にして沈黙した。
宮殿を照らしていた魔導灯は消え、農地を潤していた灌漑システムは止まり、街には不穏な空気が漂い始める。
「ミナ! 何とかしろと言っているだろう! お前の奇跡はどうした!?」
レオナード皇子が叫ぶが、目の前にいるのは、かつての愛らしい聖女ではなかった。
魔力の逆流によって急激に老け込み、白髪混じりの老婆のような姿になったミナは、ガタガタと震えながら虚空を睨むばかり。
「……リディア……リディアさえいれば、私はずっと若くて、綺麗でいられたのに……あの子は私の、電池だったのに……」
そんなミナの言葉を聞いた貴族たちは、ようやく気づいたのだ。自分たちが崇めていたのが、他人の命を啜る化け物であったことに。
激怒した皇帝により、レオナードは皇太子の座を剥奪され、北方の不毛の地へ一兵卒として送られた。
ミナは「偽聖女」の汚名を着せられ、一生を光の届かない地下牢で過ごすことになったという。
さらに追い打ちをかけたのは、ロゼル王国からの通告だった。
『我が国の至宝を害したことへの賠償として、今後、帝国への魔石輸出を無期限で停止する』
資源を断たれた帝国は、かつての覇権を失い、周辺諸国への謝罪と賠償に追われる「落ちぶれた大国」へと変貌していったのである。
それから一年後。
ロゼル王国の王宮庭園には、幸せな笑い声が響いていた。
「リディア様! 今日の公務、少し詰め込みすぎではありませんか? あまり無理をなさると、私がカイル様に叱られてしまいますわ」
そう言ってリディアに駆け寄ったのは、凛々しい騎士服に身を包んだセリーナだった。
かつての「悪役令嬢」としての尖った雰囲気は消え、今の彼女はロゼル王国の近衛騎士団長として、その真っ直ぐな正義感を存分に発揮している。
「ふふ、大丈夫ですよ、セリーナ。ロゼルの皆さんが喜んでくれるのが、私にとっても一番の幸せなんです」
リディアは微笑み、手元の花壇にそっと触れた。
彼女が歩く場所には常に花が咲き、人々は彼女を「慈愛の真珠」と呼んで慕っている。
没落令嬢として泥にまみれていた頃の面影はどこにもない。
今の彼女は、内側からも外側からも、真の聖女としての輝きを放っていた。
「……全く。リディアは少し、自分を疎かにしすぎだね」
背後から、低く甘い声が聞こえた。
振り返る間もなく、リディアの腰は強い腕によって抱き寄せられる。
「カ、カイル様……!」
「セリーナ。リディアを独り占めにするのはそこまでだ。これからの時間は、僕が彼女を『愛でる』ための時間だからね」
カイルはセリーナを冗談めかして睨むと、リディアの髪に優しく口づけをした。
セリーナは「はいはい、ご馳走様ですこと」と肩をすくめ、わざとらしく距離を置いて二人を見守っている。
カイルのリディアに対する溺愛ぶりは、今やロゼル王国の名物となっていた。
リディアが少し指先を切れば、国中の名医を呼び寄せようとし、リディアが「あのお菓子が美味しそう」と呟けば、翌日にはその職人を王宮に雇い入れる。
リディアに贈られる宝石やドレスは、もはや保管する部屋が足りなくなるほどだった。
「カイル様、そんなに甘やかされては、私はダメな人間になってしまいます……」
「いいんだ。君は二年間、世界中から厳しくされてきた。その分、僕が一生をかけて、君を甘やかし続ける。君が『もうこれ以上は幸せになれない』と泣いて頼むまでね」
カイルはリディアの瞳をじっと見つめ、その唇に、誓いのキスを落とした。
リディアはそっと目を閉じ、彼の温もりを受け入れる。
かつて、声を奪われ、名前を奪われ、泥の中を這っていた少女。
彼女は今、自分を心から愛してくれる女騎士と、命をかけて守ってくれる最愛の人に囲まれ、本当の自分の居場所を見つけた。
空はどこまでも青く、ロゼルの大地は聖女の加護によって黄金色に輝いている。
泥に投げられた真珠は、今、誰よりも眩い光を放ちながら、幸せな未来へと歩み始めたのだった。
(完)
いかがだったでしょうか?
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