第一話 空に近い場所
月が、近かった。
雲の海の上に浮かぶ空中庭園は、夜そのものを切り取ったように静まり返っている。
石畳に落ちる月光は淡く、風は高空特有の冷たさを含んでいた。
その中央に、ひとりの少年が立っている。
ユウ――十七歳。
若くして名を知られ始めた格闘家だ。
細身の身体に道着を纏い、無駄な装飾は一切ない。
拳一つで生きることを選んだ者の佇まいだった。
ユウは、ゆっくりと拳を握る。
骨と筋が噛み合う感触が、心を現実へ引き戻す。
(……ここまで来た)
視線の先、雲の切れ間から微かに見える地上の灯。
そこには、家族がいる。
だからこそ、ここに立っている。
「相変わらず、一人で考え込むのが好きだな」
背後から、軽い声。
振り向くと、茶髪の少年が立っていた。
がっしりとした体格。鍛え抜かれた腕。
同じ道着を着ていても、雰囲気はまるで違う。
マコト――十八歳。
ユウと同じく格闘家だが、その戦い方も性格も対照的だった。
勝負の場でも笑みを忘れず、拳に迷いを持たない。
「緊張してる?」
「……してない」
「はいはい」
マコトは肩をすくめ、隣に並ぶ。
「空の上でトーナメントだぞ。
しかも、人生を変えるって噂のやつだ。
普通は、もっとソワソワする」
ユウは答えず、月を見上げた。
「なあ、ユウ」
マコトの声が、少しだけ低くなる。
「お前、本当にこれでいいんだな」
問いの意味は、説明されなくても分かった。
「……守るためだ」
短い言葉。
だが、揺らぎはなかった。
マコトはそれ以上踏み込まなかった。
親友として、そこには触れないと決めている。
その時だった。
空気が、沈んだ。
風が止み、月光が歪む。
庭園の中央に、影が落ちた。
誰も音を立てていない。
それでも、“現れた”としか言いようのない存在。
黒衣の男が、そこに立っていた。
長い髪を背に流し、年齢は三十前後。
纏う雰囲気は、明らかに他とは違う。
カイゼル――
このトーナメントに名を連ねる、格闘家にして頂点に立つ存在。
圧倒的な力と、孤高の戦歴。
彼の名は、恐怖と敬意を同時に呼び起こす。
「……来たな」
誰かが、喉を震わせた。
カイゼルは周囲を一瞥し、最後にユウへと視線を向ける。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
見られている。
鍛えた肉体ではなく、心の奥を。
「集まったか」
低く、感情の読めない声。
「拳を振るう者は多い。
だが、理由を理解している者は、そう多くない」
一歩、前へ。
それだけで、空気が軋んだ。
「少年」
呼ばれたのが自分だと、ユウは理解する。
「お前は、何のために拳を振るう」
逃げ場はない。
ユウは、胸の前で拳を握る。
「……守るためです」
格闘家としてではなく、
一人の人間としての答えだった。
カイゼルは、わずかに口元を歪める。
「守る、か」
月光が、冷たい瞳に反射する。
「ならば覚えておけ。
守る拳は――最も砕けやすい」
次の瞬間、男の姿は霧のように消えた。
風が戻り、庭園が再び息を吹き返す。
「……冗談じゃねえな」
マコトが、ようやく息を吐く。
「ありゃ、人じゃない」
ユウは、自分の拳を見つめた。
砕けやすい。
その言葉が、胸の奥に沈む。
それでも――
(進むしかない)
格闘家として。
守る者として。
蒼空に最も近い場所で、
拳が舞う物語は、静かに幕を開けた。




