第64話 千景の漂流、海の迷子
## 【千景視点】8-4 千景の漂流、海の迷子
タラッサでの海戦から2日後、早朝。
千景は小さな漁船の上で途方に暮れていた。
「おかしいのう...海の上ではドラーゲンの匂いが全くせぬ」
狐の姿(体長3メートル)で船首に立ち、鼻をひくひくさせる。しかし、潮風と海の匂いしか感じられない。
3日前、ある漁村で漁船を借りた——正確には、勝手に使わせてもらった。
「東へ行く」
そう言って出航したはずだった。しかし、千景は気づいていなかった。自分が西へ向かって漕ぎ出していたことに。
霧が立ち込める中、千景は孤独に海を漂っていた。
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**【視点切り替え:千景 → ビョルン】**
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そんな霧の海域を、ノルディア戦団の残存部隊長ビョルンが10隻のロングシップを率いて航行していた。タラッサでの敗戦から逃げ延び、北の海へ戻る途中だ。
「くそ...あの竜め、あの魔王め」ビョルンが悔しそうに呟いた。
旗艦の甲板には、疲弊した戦士たちが座り込んでいる。神々の加護を破られた屈辱は大きい。ラグナル戦団長は本隊を率いて先に撤退したが、ビョルンには小規模な艦隊が残されていた。
「隊長、このまま何も成果なしで戻れば...」副官が不安そうに言った。
「分かっている」ビョルンが歯噛みした。「何か手柄を立てねば、戦団での地位を失う」
その時、見張りが叫んだ。
「霧の中に何か...小さな船です!」
「あれは...」
霧の中から、粗末な漁船が現れた。そして船首には、体長3メートルほどの巨大な狐が立っている。白銀の毛並みが霧の中でも美しく輝いていた。
「なんだあの小舟は...狐が乗ってるぞ?」
戦士たちが不思議そうに見ていた。
ビョルンの目が輝いた。
「あれは...狐の妖獣か?」
「隊長、あの毛皮は高く売れますぞ!」一人の戦士が興奮して言った。
「よし!獲物だ!生け捕りにしろ!」
ビョルンが命じると、戦士たちが一斉に弓を構えた。
「待て、まずは威嚇だ。逃げ出したところを包囲する」
ビョルンが手を上げ、一人の戦士に合図した。
弓兵が矢を放つ。威嚇のつもりで、狐の近くを狙った矢が——
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**【視点切り替え:ビョルン → 千景】**
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矢が千景の耳を掠めた。
「無礼者!」
千景の狐耳がピンと立った。怒りが全身を駆け巡る。
「わらわは急いでおるのじゃ!邪魔をするな!」
激怒した千景は、本来の姿に変身した。
体高25メートルの巨大な九尾の狐が、海面に立つ。妖術による水面歩行で、まるで大地に立っているかのように安定している。九本の尻尾が扇のように広がり、それぞれが青白い妖気を纏っている。
当然、小舟は沈没した。しかし千景は気にしていなかった。
「ひいいいい!」
ノルディア戦士たちが悲鳴を上げた。
「化け物だ!」
「狐の海魔だ!」
ビョルンが慌てて叫んだ。
「落ち着け!戦神の加護を!祈祷師、祈りを!」
残された数少ない祈祷師たちが慌てて祈りを唱え始める。青白い光の加護が船体を包もうとした。
しかし、千景の怒りは収まらなかった。
「わらわを邪魔する者は容赦せぬ!」
千景が九本の尻尾を振り回した。
「うおおおお!」
戦士たちが櫂を漕いで逃げようとするが、巨大な尻尾の一振りで3隻のロングシップが転覆した。神々の加護が船体を守ろうとするが、妖気の暴力的な力の前では十分ではない。海水が大きく波打ち、船が次々と沈んでいく。
「撃て!撃て!」
ビョルンが必死に命じ、弓兵たちが一斉に矢を放つ。だが矢は千景の毛皮に当たっても弾かれてしまう。
「ちょこまかと!」
千景が妖狐火を放った。九本の尻尾から青白い炎が放たれ、3隻のロングシップが炎に包まれる。神々の加護が炎を防ごうとするが、妖術の炎は物理的な攻撃ではない。加護をすり抜けて黒帆を焼き尽くし、戦士たちが海に飛び込む。
「祈祷師が倒れた!加護が...!」
さらに2隻が千景の尻尾に叩き潰され、海に沈む。
「うるさい!ドラーゲンはどこじゃ!」
千景が咆哮すると、残った2隻の戦士たちが完全にパニックに陥った。
ビョルンの旗艦だけが残っていた。周囲には沈没した船の残骸が浮いている。
ビョルンは必死だった。
「待て!待ってくれ!我々は答える!」
千景の巨大な顔が、ビョルンの船に近づいてくる。九尾の狐の黄金の瞳が、ビョルンを見下ろしていた。
「ならば答えよ!」千景が怒気を含んだ声で言った。「ドラーゲンという影使いを知っておるか!黒髪で、影を操る魔王じゃ!」
「タ、タラッサにいた男なら...」ビョルンが震えながら答えた。「使節団が東のドワーフの国へ向かったと聞いた!」
実際には南東だが、とにかく情報を提供しなければ殺される。
千景の狐耳がピンと立った。
「東か!そうか、ようやく情報が得られたのじゃ!」
千景の怒りが少し収まった。尻尾が穏やかに揺れる。
「礼を言うぞ。では、邪魔したな」
千景が尻尾でビョルンの船を軽く叩いた。「軽く」のつもりだったが、船は真っ二つに割れて沈没した。
「わあああああ!」
ビョルンが海に投げ出される。
千景は既に海面を走り始めていた。霧を切り裂いて、全速力で疾走する。
「待っておれドラーゲン!今度こそ捕まえるのじゃ!」
その姿が霧の中に消えていく。
しかし——千景が指差していた方向は、西だった。
千景は海を走りながら、内心で焦っていた。
(本当に東で合っておるのか?ドラーゲンの匂いが全く感じられぬ...)
しかし、引き返す気はなかった。とにかく走り続ける。ドラーゲンの匂いを探して、ひたすら前進する。
40年間の追跡で学んだことがある。それは、どんなに間違った方向へ行っても、いつかは目的地にたどり着くということだ。遠回りになるだけで、不可能ではない。大陸は丸いのだから、西へ行けばいつかは東に至る。
(今度こそ、今度こそ捕まえてみせる!)
千景の決意は固かった。その姿が水平線の彼方へ消えていく。
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**【視点切り替え:千景 → ビョルン】**
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ビョルンは海に浮かびながら、呆然としていた。
「あれは...なんだったんだ...」
周囲には沈没したロングシップの残骸と、助けを求める戦士たちが浮いている。10隻あった艦隊は、たった一匹の巨大狐に数分で全滅させられた。
神々の加護も、戦士たちの勇気も、何の役にも立たなかった。
副官が泳ぎ寄ってきた。
「隊長...あの化け物は何だったんです?」
「東方の妖獣...九尾の狐だ」ビョルンが震えながら答えた。「伝説でしか聞いたことがなかったが...本物だった」
生き残った戦士の一人が尋ねた。
「隊長...どうします?これでは戦団に戻れません」
「...泳いで帰る」
ビョルンが力なく答えた。もう戦う気力は残っていない。名誉挽回どころか、さらなる恥辱を抱えて帰ることになる。
「あの化け物が西へ向かったのは幸いだった。タラッサには近づかない」
せめてもの救いは、あの恐ろしい妖獣が自分たちとは別の方向へ去ったことだ。もし戻ってきたら、今度こそ全員が殺されていただろう。
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**【視点切り替え:ビョルン → アストリッド】**
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数日後、タラッサにその噂が届いた。
「ノルディア戦団の残存部隊が、単独で全滅させられた?」
アストリッドが報告を聞いて驚いた。
「はい」ベルント士官が答えた。「生存者の証言によれば、『巨大な九尾の狐が海面を走って』現れたそうです」
「九尾の狐...」アストリッドが顎に手を当てた。
「『東方の海魔』と呼ばれているそうです」
アストリッドが笑った。
「海魔か。面白い。誰が召喚したのか知らんが、我々にとっては好都合だ」
実際、ノルディア戦団への打撃は計り知れない。タラッサは思わぬ味方を得たことになる。
「提督、追跡しますか?」
「いや、放っておけ」アストリッドが手を振った。「我々に危害を加えていない以上、関わる必要はない」
その頃、千景は既に遥か西の海域を疾走していた。ドラーゲンから遠ざかるばかりの、果てしない追跡を続けながら。




