第51話 妖狐の追跡開始、方向音痴の宿命
## 【千景視点】6-7 妖狐の追跡開始、方向音痴の宿命
レオニス王宮の東棟に差し込む朝日が、千景の琥珀色の瞳を輝かせていた。
昨夜からの興奮で一睡もしていない千景は、東方風の部屋で落ち着きなく歩き回っている。3本の狐尻尾が、焦燥感に合わせてせわしなく動いていた。
コンコン、と控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、レオニス諜報長官エドウィンだった。痩身の中年男性は、昨夜から徹夜で情報収集に当たっていたらしく、疲労の色が濃い。しかし、その目には重要な報告を携えてきた者の緊張があった。
「千景様、お待たせいたしました」
エドウィンは恭しく一礼した後、羊皮紙を取り出した。
「使節団の詳細が判明いたしました。アルピリア・ノクテルヴァルト合同使節団は、昨日の早朝にラゴマジョレを出発し、アルカ・ポリス連邦の首都アルカへ向かいました」
千景の狐耳がぴんと立った。
「アルカじゃな!? 方角は!?」
「北東の方角です。おそらく2日から3日の行程かと思われます」
「よし!」千景が勢いよく立ち上がった。「では早速追いかけるのじゃ!」
エドウィンが地図を広げて千景に手渡した。西方大陸の詳細な地図には、街道や都市が丁寧に描き込まれている。
千景は地図を受け取ると、何の疑いもなく逆さまに持った。
「よし、わかった! アルカはここじゃな!」
千景が指差したのは、地図上では明らかに南西の位置だった。しかし本人は堂々と頷いている。
「あの……千景様」エドウィンが恐る恐る声をかけようとした時——
「千景様、お待ちください」
謁見の間から、ヴァレリウス王の声が響いた。75歳の老獅子は、朝の公務の合間を縫って駆けつけてきたようだった。
「お一人で行かれるのは危険です。護衛をつけましょう」
「わらわに護衛など不要じゃ!」
千景の語気が強くなった瞬間、部屋の空気が変わった。
金色の光が千景を包み、その体躯が急激に拡大していく。あっという間に、体長3メートルほどの美しい狐の姿に変身した。九本の尻尾はまだ現れていないが、それでも圧倒的な迫力だった。
「40年も待たせおって! 今度こそ捕まえてくれる!」
狐と化した千景の咆哮が、王宮全体に響き渡った。エドウィンは恐怖で後ずさりし、ヴァレリウスも思わず一歩下がった。
「では、行ってくるのじゃ!」
千景は東棟の大きな窓を勢いよく突き破って外に飛び出した。庭園に着地すると、そのまま一目散に駆け出す。
その時、駆けつけたマルクスが慌てて叫んだ。
「千景様! 北東はあちらです!」
マルクスが正しい方向を指差したが、千景は振り返りもしなかった。
「わかっておる!」
そう言いながら、千景は明らかに北西の方向に向かって疾走を始めた。時速80キロはあろうかという驚異的な速度で、森林地帯へと消えていく。
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**【視点切り替え:千景 → 千景の追跡】**
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レオニス王宮から北へ延びる街道は、春の新緑に包まれていた。
千景は狐の姿で街道を駆け抜けていたが、最初の分かれ道で立ち止まった。
「ふむ……」
人の姿に戻った千景が、地図を逆さまに持ちながら首を傾げる。
「太陽の位置を見ると……朝日は東じゃな。ということは……」
千景は空を見上げて太陽の位置を確認した。しかし、その解釈が根本的に間違っていた。
「東がこっちなら、北東は……こっちじゃ!」
千景が指差したのは、実際には北西の方向だった。迷うことなく、その方向の道を選んで再び狐の姿になって駆け出す。
1時間ほど走り続けた頃、街道で商人の一行と出会った。
荷車を引いた商人たちは、突然現れた巨大な狐に仰天した。
「ひ、ひいい! 化け物だ!」
商人たちが逃げ惑う中、千景は人の姿に戻って呼びかけた。
「待つのじゃ! 道を聞きたいだけじゃ!」
「ば、化け物が喋った!」
商人の一人が腰を抜かした。
「失礼な! わらわは千景という者じゃ!」千景が憤慨した。「アルカはどっちじゃ?」
「ア、アルカ……?」
商人たちは恐怖で震えながらも、千景の質問に答えようとした。
「アルカでしたら……南東の方角ですが……」
「南東じゃと?」千景が首を傾げた。「でもわらわは北東と聞いたのじゃが……」
商人たちは混乱したが、巨大な狐に変身した存在に逆らう勇気はなかった。
「も、もしかして……別のアルカかも……」
「そうか! ならばこのまま進むのじゃ!」
千景は納得したような表情で、再び狐の姿に戻って北西に向かって疾走していった。
残された商人たちは、しばらく呆然としていた。
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**【視点切り替え:商人たち → 千景】**
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3時間ほど走り続けた千景は、ようやく休憩のために立ち止まった。
「おかしいのう……」
人の姿に戻った千景が、地図を逆さまに持ちながら首を傾げる。
「もうアルカに着いてもよい頃じゃが……」
周囲を見回すと、森はさらに深くなり、明らかに人里から遠ざかっているように見える。だが、千景にはその変化の意味が理解できなかった。
「まあよい。急げば今日中には着くじゃろう」
千景は再び狐の姿になって疾走を再開した。完全に北西のシェリフィール方面へ向かっているとも知らずに。
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**【視点切り替え:千景 → ヴァレリウス】**
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レオニス王宮では、ヴァレリウスが執務室で報告を受けていた。
「陛下、斥候からの報告です」
エドウィンが困惑した表情で羊皮紙を読み上げた。
「千景様は……北西の方角へ向かわれています。完全に逆方向です」
ヴァレリウスは一瞬驚いたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「方向音痴とは聞いていたが、これほどとは……」
「追手を差し向けましょうか?」マルクスが提案した。
「いや」ヴァレリウスが手を振った。「まあ、すぐには追いつけまい。これも時間稼ぎになるか」
老王の表情には、呆れと安堵が混じっていた。千景を引き止めたかったヴァレリウスにとって、この展開は予想外の好都合だった。
「それに、千景様のことだ。いずれは正しい方向に向かうだろう」
「しかし、このままではシェリフィールの銀森領に向かってしまいます」エドウィンが心配そうに言った。
「それはそれで興味深い」ヴァレリウスが笑った。「エルドリック大公と千景様が出会ったら、どうなるか……」
マルクスは主君の楽観的な態度に複雑な心境だった。正しい方向を教えたのに聞いてもらえなかった無力感と、千景への心配が入り混じっている。
「千景様の安全は大丈夫でしょうか?」
「心配はいらん」ヴァレリウスが断言した。「あの方を心配すべきは、出会う相手の方だ」
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**【視点切り替え:ヴァレリウス → 千景】**
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その頃、千景は森の中の街道を駆け続けていた。
「ドラーゲンよ……わらわは来るぞ」
狐の姿で疾走しながら、千景の胸には40年の想いが燃え続けている。
だが、その方向は目的地とは正反対。しかも、向かう先は西方でも最も閉鎖的なエルフの国、シェリフィールの銀森領だった。
長い年月を生きてきた妖狐の方向音痴が、予想もしない出会いと混乱を生み出そうとしている。
千景の追跡劇は始まったが、それは最初から「すれ違いの運命」の第一歩となっていた。春の陽光が森を照らす中、東方の妖狐は西方の深部へと向かっていく。
この時、千景は知らなかった。自分が向かう先に、千年の記憶を持つエルフの大公が待っていることを。そして、その出会いが西方世界にさらなる波紋を巻き起こすことになることを。
ただ、千景の心には一つの想いだけがあった。
「今度こそ……今度こそ逃がさぬからな、ドラーゲン」
その執念が、予想もしない冒険の始まりとなろうとしていた。




