第05話 夕暮れの戯れ、あるいは試練の始まり
第05話 夕暮れの戯れ、あるいは試練の始まり
ラゴマジョレの街を囲む古い城壁が、傾き始めた太陽の光を浴びて茜色に染まる頃。フェリシアは街門を抜けた先にある広大な空き地に立っていた。
かつて激しい攻城戦があったのだろう、草木もまばらな地面は固く踏み固められ、遠い過去の武器の残骸や古い矢じりが土の間に見え隠れしている。そこは、生の営みから切り離された、戦いの記憶だけが残る場所だった。風が吹き抜けるたび、錆びた金属片がかすかに鳴り、まるで過去の戦士たちの呻き声のようにも聞こえる。
(ここで、この男の実力を確かめる)
フェリシアは手にした長剣の切っ先を真っ直ぐにドラーゲンへと向け、真剣な眼差しで勝負を挑む。
「あなたの実力、見せてもらいます!」
その瞳には、先ほどの酒場での複雑な感情を整理したいという思いと、この男の正体を見極めたいという強い意志が宿っていた。もし彼が本当に魔王より強いというなら、それを証明してもらわなければならない。
対するドラーゲンは、東方風の絹の着流しを軽やかに風になびかせながら、それを面白がるように口元を緩める。
「よろしい。では、君も手加減は一切不要だ。私は君の実力を見極めたいからね。ただし、私の方は君を傷つけるわけにはいかないので、受けに回らせてもらうよ」
彼は特に武器を構えるでもなく、ただ自然体で立ち、両腕をだらんと下げたままだ。腰の木刀にも手をかけようとしない。そのあまりにも無防備で余裕綽々な態度に、フェリシアの眉がぴくりと動いた。
「……舐めないでください!」
苛立ちを闘気へと変え、フェリシアは聖なる力を解放する。彼女は短く、しかし清らかな響きを持つ呪文を唱えた。
「《勇者装備装着》(アルマトゥーラ・ベラトーリス)!」
その言葉を合図に、フェリシアの全身がまばゆい光の奔流に包まれる。光が収まる時、彼女の姿は一変していた。
それまでの紺色を基調とした装束は、純白と銀を基調とした、より神々しく、戦闘的なドレスへと変化していた。幾重にも重なる純白のフリルと、要所を守る銀の装甲。動きやすさを重視した設計でありながら、その姿は戦場に舞い降りた聖女か、あるいは神の代行者たる魔法少女を思わせた。
変身と同時に全身にみなぎる、圧倒的な力。フェリシアは手にした長剣に意識を集中させる。剣身が呼応するように、青白い光のオーラを激しく立ち上らせた。ビリビリと周囲の空気を震わせる冷たい輝き。
「ほう、これは見事な。神聖魔法による装備具現化か。それに身体強化と反応速度強化のバフも同時にかけているな。これだけでも相当な才能だ」
ドラーゲンの言葉には、純粋な賞賛が込められていた。彼の瞳に宿る評価の光を感じ取り、フェリシアは微かに頬を染める。しかし、すぐに気を引き締めた。
次の瞬間、彼女は地面を蹴った。
「はぁぁっ!」
一瞬のうちにドラーゲンとの間合いを詰め、鋭い踏み込みと共に放たれた渾身の斬撃。それは、セレスティナの騎士団でも一流と謳われる剣士でさえ、捉えることすら困難な、高速かつ正確無比な一撃だった。
しかし――。
ドラーゲンは、まるで未来が見えているかのようだった。迫りくる光の斬撃に対し、柳のように半身でその力を受け流し、体をわずかにひねっただけで、それを回避する。
その動きには、無駄が一切なかった。必要最小限の動作で最大の効果を生み出す、まさに達人の体捌き。
「えっ!?」
フェリシアが驚愕の声を上げる間もなく、ドラーゲンは影が滑るような軽やかな体捌きで、逆に彼女の懐深くに潜り込んでいた。
「お嬢ちゃん、基礎ができた素晴らしい動きだ。だが、動きが正直すぎて、次が読めてしまうよ」
落ち着き払った声が、すぐ耳元で囁かれた。ぞっとするほどの近さ。フェリシアが反応するよりも早く、ドラーゲンは彼女の軸足にさりげなく自身の足をかけ、巧みにバランスを崩させる。
体勢を崩し、後ろに倒れそうになるフェリシア。とっさに踏みとどまり、立て直そうとしたその瞬間――
ドラーゲンの手がスルリと伸び、彼女の尻を軽く、しかしはっきりと撫でる感触があった。
「な、な、何をするんですか!?」
フェリシアは顔を真っ赤にして叫び、慌てて数歩飛び退ってドラーゲンから距離を取る。今の感触は、間違いなく。スカートの上からとはいえ、あの手つきは明らかに意図的だった。
「そ、そんなの反則です!」
心臓が激しく鼓動している。怒りなのか、羞恥なのか、それとも別の感情なのか——自分でも分からなかった。
「戦場に反則なんてルールはないよ、お嬢ちゃん」
* * *
【視点切り替え:フェリシア → ドラーゲン】
* * *
「戦場に反則なんてルールはないよ、お嬢ちゃん」
ドラーゲンは悪びれる様子もなく肩をすくめ、飄々と言い放つ。フェリシアの混乱した表情を見ながら、内心では彼女の反応を分析していた。
なるほど、予想通りの反応だ。純真で、型にはまった訓練しか受けていない。だからこそ、こういう「型破り」な攻撃に対しては完全に対処法を知らない。
「それに、どんな不意打ちや屈辱的な攻撃を受けても、すぐに冷静さを取り戻して対応できなきゃ、生き残れないぜ?これも立派な戦術指導の一環さ」
フェリシアの表情を見る限り、呆れと怒りの中に、わずかながら理解の光も見える。賢い子だ。感情的になりながらも、論理的な部分でドラーゲンの言葉を受け入れようとしている。
「くっ……!せいやっ!」
フェリシアは怒りと羞恥で唇を強く噛みしめ、気合と共に再び剣を構え直す。
良い反応だ。怒りに任せて無謀に突っ込むのではなく、一度気持ちを整理してから攻撃に移る。基礎的な精神制御はできている。
彼女の連続攻撃が始まった。上段、中段、下段と変化に富んだ斬撃の嵐。聖なる力によって強化された速度と威力は、通常の戦士なら一撃で致命傷となるほどのものだった。
だが、ドラーゲンにとってはまだまだ読みやすい。彼女の筋肉の微細な動き、重心の移動、呼吸のリズム——全てが次の攻撃を予告している。
ドラーゲンはそれらを受け止めることも弾くこともせず、ただ風に揺れる柳の枝のように、攻撃の流れに身を任せて躱し続ける。
彼女の剣が右から来れば左に、上から来れば斜めに、まるで相手の攻撃と踊っているかのように動く。そして、その全ての動作が、攻撃の軌道を完璧に予測した精密さを持っている。
フェリシアの焦りが手に取るように分かる。自分の実力に自信を持っていたが、それが通用しない現実に直面している。この感情の揺れが、彼女をさらに成長させるきっかけになるだろう。
「これでっ…!」
フェリシアが渾身の力を込めた袈裟切りを放つ。この一撃には、彼女の全てが込められている。だが、彼女が力を込めた瞬間には、ドラーゲンは既にわずかに身を引き、剣の間合いから悠々と外れていた。
空を切った剣戟が通り過ぎる。その刹那、まるで引き絞られた弓から放たれた矢のように、ドラーゲンは前進。フェリシアが振り抜いた剣の残像をなぞるかのように体をくるりと回転させると、その遠心力を利用して、彼女の背後へと滑るように密着した。
今度はもう少し明確に教訓を与えてやろう。
「良い剣だ。だが、力任せでは美しくないな」
そう耳元で囁きながら、ドラーゲンの手が胸当ての隙間から彼女の胸元に差し込む。薄い生地の上からでも分かる柔らかな感触。
「きゃっ!ま、また...!」
案の定、フェリシアは慌てて前に飛び出し、振り返ってドラーゲンを睨みつける。その顔は怒りで真っ赤になっていたが、同時に深い困惑も浮かんでいた。
「お嬢ちゃん、君の剣は確かに強い。だが、それは『教科書通りの強さ』だ」
ドラーゲンは、教師が生徒に諭すような口調で続ける。
「型は美しく、威力も申し分ない。だが、それゆえに予測しやすい。本当の戦いでは、相手は君の『次の手』を読んでくる。そして、最も効果的なタイミングで、最も嫌な場所を狙ってくるものさ」
ドラーゲンの言葉が、フェリシアの心に深く突き刺さっているのが見える。彼女の表情に、理解と受け入れの色が浮かんでいる。
確かに、自分は王国で習った『正しい剣術』しか知らない。型通りの、教科書通りの戦い方しかできない——彼女はそう気づき始めている。
「君が真に強くなりたいなら、その『正しさ』から一歩踏み出す必要がある」
ドラーゲンは瞳に深い真剣さを込めて言った。
「世界は、君が思っているほど綺麗なものじゃない。敵は卑劣で、狡猾で、時には理不尽だ。そんな相手に『正しい戦い』で挑んでも、勝てるのは運が良い時だけさ」
フェリシアが剣を握り直すのが見えた。ドラーゲンの言葉が、彼女の心の奥に眠っていた何かを呼び覚ましつつある。
「では...どうすれば...」
「それを教えてやるのが、私の役目だろうな」
ドラーゲンは満足げに笑みを浮かべた。彼女は今、本当の意味で学ぶ準備ができている。
「だが、その前に君の真の実力を見せてもらおうか。剣だけでなく、魔法も含めてな。魔王と戦うなら、あらゆる手段を駆使する必要がある」
フェリシアは剣を握り直した。その目に宿る光は、先ほどとは明らかに違っている。迷いが消え、新しい可能性への期待に変わっている。
「分かりました。全力で...行かせていただきます」
計画通りだ。この子はドラーゲンの真意を理解し始めている。あとは、適切な指導で彼女の潜在能力を引き出してやるだけだ。