第49話 レオニスの情報、妖狐の確信
## 【千景視点】6-5 レオニスの情報、妖狐の確信
レオニス王宮の東棟に設けられた特別室は、千景のために急遽東方風に改装されていた。
畳が敷かれた床に、低い座卓。壁には山水画の掛け軸が飾られ、部屋の隅には香炉から立ち上る薄い煙が漂っている。夕刻の陽光が障子から柔らかく差し込み、故郷を思わせる懐かしい雰囲気を醸し出していた。
しかし、その部屋の主は——
「西とはどっちじゃ?」
千景が地図を逆さまに持ちながら、困惑した表情で首を傾げていた。
座卓の上に広げられた西方大陸の地図は、明らかに上下が逆になっている。それでも千景は真剣に「こっちが西で……いや、あっちか?」と呟きながら、狐耳をぴくぴくと動かしていた。
方向音痴は、長い長い年月を生きてきた妖狐にとっても克服困難な弱点のようだった。
コンコン、と控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、痩身の中年男性だった。50代と思われる彼は、元商人らしい機敏な動きと、情報収集者特有の鋭い目をしている。レオニス王国諜報長官エドウィンである。
「千景様、本日の報告に参りました」
エドウィンは千景に対して恭しく一礼した。その動作には畏敬の念が込められているが、同時に微かな緊張も見て取れる。300人の軍勢を一瞬で蹴散らした化け物への恐怖は、情報のプロである彼にとっても拭い去ることはできなかった。
「うむ、ご苦労じゃ」千景は地図から顔を上げた。「何か分かったか?」
「はい。本日、重要な情報が入りました」エドウィンが羊皮紙を取り出した。「大陸南部のアルピリア連邦とノクテルヴァルト同盟が、外交使節団を編成したとの報告があります」
千景は興味なさそうに狐尻尾をゆらりと揺らした。普段の3本の尻尾が、のんびりとした動きを見せている。
「ふーん、それがどうした?」
「彼らは我がアルカ・ポリス連邦との交易協定を締結するため、各国を訪問する予定とのことです」
「で?」千景の反応は相変わらず淡白だった。
エドウィンは内心で深呼吸した。ここからが重要な部分だ。ヴァレリウス王から指示された「情報の小出し作戦」の核心部分である。
「使節団の構成員についても詳細が判明いたしました」エドウィンが意図的に間を置いた。「政治顧問として、影魔法の達人が参加しているそうです」
その瞬間、千景の狐耳がピンと立った。
「影魔法じゃと!?」
千景の琥珀色の瞳が一瞬で鋭くなる。そして、驚くべき変化が起こった。普段は3本だった狐尻尾が、4本、5本、6本と増えていく。感情の高まりとともに、尻尾の数が変化するのは妖狐特有の現象だった。
「名は!? そやつの名前は何と申すのじゃ!?」
千景が勢いよく立ち上がった。6本の尻尾が興奮のあまりふわふわと舞い踊る。
エドウィンは一歩後ずさりした。化け物の迫力に気圧されながらも、任務を遂行しなければならない。
「それが……まだ確認中でして……」
「確認中じゃと!?」千景の声が一オクターブ高くなった。「そんな大事なことを確認中とは何事じゃ!」
尻尾がさらに増えて7本、8本となっていく。部屋の空気が張り詰めた。
その時、部屋の扉が開いた。
「千景様、お疲れさまです」
入ってきたのはヴァレリウス王だった。75歳の老獅子は、千景の激昂を予想していたかのように、落ち着いた態度で微笑んでいる。
「陛下!」エドウィンが慌てて礼をした。
「詳細は明日には分かるでしょう。焦ることはありません」ヴァレリウスが穏やかに言った。
だが、千景の興奮は収まらない。
「40年も逃げ続けた罪は重いぞ、ドラーゲン!」
ついに9本目の尻尾が現れた。9本の狐尻尾が逆立って、千景の怒りと興奮を如実に表現している。
「今度こそ逃がさぬからな! 覚悟せよ!」
ヴァレリウスは内心で(これで最低でも数日は引き止められる)と計算していた。千景を国に留める策略としては完璧に機能している。
千景は部屋中を歩き回り始めた。9本の尻尾が激しく揺れ、まるで嵐のような迫力だった。
「明日と言わず今すぐ調べよ! わらわは一刻も早くあの不埒者に会わねばならぬ!」
「千景様」ヴァレリウスが宥めるように言った。「我が国の諜報網は優秀ですが、正確な情報を得るには時間が必要です」
「時間など惜しい! 40年も待ったのじゃぞ!」
千景がエドウィンに向き直った。
「エドウィン殿! 使節団の行き先も全て調べるのじゃ! どこに向かい、いつ出発し、どのような経路を辿るのか、詳細に報告せよ!」
「は、はい! 承知いたしました!」
エドウィンは恐怖と忠誠心の板挟みになりながら、必死に頷いた。東方の化け物の命令を拒否するなど、命がいくつあっても足りない。
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**【視点切り替え:千景 → ヴァレリウス】**
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ヴァレリウスは千景の激情を見つめながら、複雑な心境だった。
(申し訳ないことをしているが……国のためには致し方ない)
老王の胸に、罪悪感がよぎる。だが同時に、この策略の効果は予想以上だった。影魔法使いという単語だけで、千景をここまで引き留めることができる。
(40年前に何があったのかは知らぬが、この方の執念は本物だ)
ヴァレリウスの長年の統治経験から見ても、千景の反応は尋常ではない。恨みか愛情か、あるいはその両方か。いずれにしても、非常に深い感情が関わっている。
「千景様」ヴァレリウスが声をかけた。「もしその影魔法使いが、お探しの方だとしたら、どうなさるおつもりですか?」
千景の動きが止まった。9本の尻尾がぴたりと静止する。
「どうするじゃと?」千景が振り返った。その瞳に、40年分の想いが込められている。「決まっておろう。まずは40年分の説教をしてやる」
「説教……ですか」
「そして……」千景の頬が僅かに赤く染まった。「……まあ、それは会ってから考えるのじゃ」
ヴァレリウスは老獪な笑みを浮かべた。これで千景を引き止める算段は完璧に整った。
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**【視点切り替え:ヴァレリウス → マルクス】**
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廊下で警備についていたマルクスは、室内から聞こえる千景の激昂に驚いていた。
(これほどまでに感情を露わにされるとは……)
マルクスは千景の人間らしい一面を垣間見て、少し安堵した。300人の軍勢を蹴散らした化け物も、結局は一人の女性なのだ。
(40年も一人の男を探し続けるとは……その一途さは見事なものだ)
マルクスの武人としての感性が、千景の執念を評価する。これほどの想いを抱かれる男とは、一体どのような人物なのだろうか。
部屋の中では、千景の足音が響き続けている。
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**【視点切り替え:マルクス → 千景】**
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千景は興奮と焦燥感で落ち着かなかった。
(ついに……ついに手がかりが!)
40年間探し続けた男の痕跡。それがようやく、確実な形で現れた。
「ドラーゲンめ……今度こそ逃がさぬぞ」
千景の9本の尻尾が、決意とともにゆらりと揺れた。
部屋の香炉から立ち上る煙が、夕日に照らされて金色に光っている。故郷を思わせる香りに包まれながら、千景は40年前の記憶を思い返していた。
あの時の屈辱。あの時の慰め。あの時の恋心。そして、あの時の別れ。
すべてが昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
「今度こそ……今度こそ決着をつけてやる」
千景の琥珀色の瞳に、燃えるような決意が宿った。
「ドラーゲンよ……わらわは来るぞ」
夕陽が沈み、部屋に薄暗がりが訪れる。だが、千景の心は燃え上がるような想いで満たされていた。
40年の時を超えて、ついに再会の時が近づいている。その予感が、9本の尻尾をそっと撫でていくのだった。
レオニス王国の諜報網が動き出し、千景の追跡劇の準備が整い始める。西方大陸に、新たな嵐が巻き起こる予兆だった。




