第39話 影を欺き、竜の尾を撫でる時
第39話 影を欺き、竜の尾を撫でる時
魔王城の最深部、薄暮の影が長く廊下を覆い始めていた。
城内は最高レベルの警戒態勢が敷かれている。特に、魔王ヴァルブルガの私室へと続く回廊は、忠臣グレイウォル将軍と、彼が率いる狼系獣人の精鋭部隊によって固められていた。
獣人たちの鋭敏な嗅覚と聴覚は、どんな微細な音や匂い、気配の変化も見逃さない。グレイウォルは完璧な警備網を敷いているつもりだった。
だが――
(馬鹿な……)
グレイウォル将軍の低い唸り声が廊下に響く。いくら時間が過ぎても、いくら感覚を研ぎ澄ませても、侵入者の気配は一向に感じられない。
(ザガトの報告は確かだったはず。これほどの警備をどうやって……?)
グレイウォルの心に、焦りと未知の侵入者への苛立ちが募っていく。
その時、部下の一人が駆け寄ってきた。
「将軍!魔王様よりお召しです!」
グレイウォル将軍が私室に入ると、玉座に腰掛けていたヴァルブルガが退屈そうにため息をついていた。
美しい角としなやかで立派な竜の尻尾を持つ十七歳の少女は、どこか不機嫌そうに口を尖らせている。
「未だ侵入者の気配は掴めず……しかし、警戒は万全に――」
グレイウォルが緊迫した面持ちで報告を始めた瞬間、ヴァルブルガは立ち上がって彼のそばへやってきた。
そして、報告を続けるグレイウォルを意に介さず、その豊かな銀狼の尻尾を無言でわしわしと撫で始める。
「ヴァルブルガ様!今は非常時です!尾の方は、何卒おやめください……!」
グレイウォルの悲痛な訴えに、ヴァルブルガは顔を尻尾にうずめたまま答える。
「うるさい、グレイウォルよ。お主の毛は落ち着くのだ」
「だ、だからと言って……!」
「勇者が来ると聞いて緊張しているのだ。少しくらいもふもふさせよ」
ヴァルブルガは銀狼の尻尾を抱きしめるように撫で続けながら、小さな声で呟いた。
「……本当に、勇者が妾を倒しに来るのじゃろうか。皆は妾を魔王と呼ぶが、妾はまだ……」
「ヴァルブルガ様」グレイウォルが優しく声をかける。「あなたは立派な魔王でいらっしゃいます。民を守り、国を治める。それ以上に何が必要でしょうか」
「そうじゃろうか……」
ヴァルブルガは尻尾にさらに顔を埋めた。
「勇者というのは、きっと立派で強い者なのじゃろう。妾なぞ、本当に戦えるのじゃろうか……」
「案ずることはございません。我々がお側にいる限り、決してあなたを傷つけさせはしません」
グレイウォルの力強い言葉に、ヴァルブルガは少しだけ安心したような表情を見せた。
そんな時、扉の向こうから部下の声が響いた。
「将軍!緊急事態です!」
グレイウォルは振り返ると、ヴァルブルガに向かって頭を下げた。
「申し訳ございません、魔王様。少々席を外させていただきます」
「……分かったのじゃ。行ってよいぞ」
グレイウォルは深々と頭を下げて部屋を後にした。
【視点切り替え:フェリシア】
部屋には、ヴァルブルガ一人だけが残された。
ヴァルブルガは小さくため息をつくと、王座に戻ろうとゆっくりと歩き始めた。グレイウォルの温もりが去った今、再び孤独感と緊張が彼女を包む。
その瞬間、部屋の隅の影から、静かに人影が立ち上がった。フェリシアである。
フェリシアは物陰から初めて魔王ヴァルブルガの姿をはっきりと捉えた。美しい竜の角を持つ少女の姿。その立派な竜の尻尾。
だが、その瞬間――
フェリシアの脳裏に、これまで感じたことのない無機質な衝動が閃光のように走った。まるで神々か、あるいは世界そのものから発せられるかのような、冷たい強制力。
【対象:魔王を確認。目的:これを打倒せよ】
絶対的な命令が、フェリシアの意識を支配しようとする。その瞬間、フェリシアの瞳が青から金色へと変化し始めた。勇者システムが発動している証だった。
フェリシアの手は意思に反して剣の柄を握りしめ、全身の筋肉が戦闘のために強張る。
「い、いや……!これは……私じゃない……!」
彼女は必死に抵抗しようとした。システムの強制力に逆らい、自分の意志を保とうと歯を食いしばる。だが、金色の瞳はさらに強く輝き、彼女の体は勝手に戦闘態勢を取ろうとする。
その時、冷たいシステム命令と同時に、ドラーゲンのふざけた、しかし真剣だった声が脳内で響き渡った。
『――魔王に、セクハラしてこい』
フェリシアの瞳の金色が、一瞬青に戻りかけた。師の声が、システムの制御を揺らがせる。
「師匠……?でも、これは……!」
【打倒せよ】という絶対的なシステム命令と、【セクハラせよ】というあまりにも人間的で馬鹿げた師の試験内容。二つの相反する強烈なインプットが、彼女の中で混線し、火花を散らす。
フェリシアの瞳が金と青の間で激しく明滅した。システムの制御と彼女の意志、そしてドラーゲンの指示が三つ巴の戦いを繰り広げる。
「わからない……何が正しいのか……!」
そして、奇妙な化学反応の末に、命令は歪み、変容した。
【打倒す】が【押し倒す】という、音は似ているが全く異なる衝動へと歪んで書き換わってしまった。
フェリシアの瞳が、金でも青でもない、奇妙な紫色に変化した。システムの制御と彼女の意志、そしてドラーゲンの指示が歪んで混ざり合った結果だった。
純粋な殺意は消え、代わりにどこか獲物を見つけたかのような、本人にも理解できない熱を帯びた、奇妙に据わった眼差しが宿る。
「……これは、一体何なの……?私は……私は何をしようとしているの……?」
フェリシアは自分の中で渦巻く理解不能な衝動に深く困惑し、震える声で呟きながらも、もはや制御できない体で音もなく床に降り立った。
* * *
剣を抜くでもなく、魔法を構えるでもなく、フェリシアはただ静かに、無防備な魔王の背後へと歩み寄る。
制御の効かない状況でありながら、ドラーゲンとの訓練で身につけた「観見の目付」が、相手の弱点を自動的に探り始めていた。魔王の体の動き、呼吸のリズム、そして特に敏感そうな部位……それらすべてが、戦闘用の技術として彼女の脳裏に浮かび上がる。
だが今、その技術は全く違う目的に使われようとしていた。
彼女の視線が捉えたのは、床でしなやかに揺れる、ヴァルブルガの立派な竜の尻尾。その動き方、無防備に揺れる様子から、フェリシアの戦闘本能が「急所」を察知した。
そして同時に、これまでドラーゲンから受けてきた数々のセクハラやいたずらの記憶が蘇る。不意打ちのタイミング、相手が油断している瞬間の狙い方、そして……尻尾や耳といった敏感な部位への効果的なアプローチ。
(師匠が私にしてきたあの……まさか、こんな時に役立つなんて……)
フェリシアは自分でも信じられない思考に愕然としながらも、体は勝手に最適な隠密ルートを選択していた。足音を完全に消し、気配を断ち、影から影へと移動しながら、魔王の死角へと近づいていく。
それはもはや作戦ではなく、訓練で叩き込まれた技術と、これまで受けてきた「被害」の経験が組み合わさった、抗いがたい衝動だった。
フェリシアの手が、なかば勝手にそっと伸びていく。奇しくもドラーゲンがよく狙っていた、尻尾の根元から少し上の、最も敏感そうな部分を狙って。その指先がヴァルブルガの硬質な鱗に覆われた尻尾に触れ、師匠から「教わった」通りに優しく撫でた――
その瞬間。
「っっっっっっ!?!?」
ヴァルブルガの全身に、文字通り電撃が走ったかのような衝撃が突き抜けた。
ヴァルブルガは、これまで誰にも聞かせたことのないような、甲高い、そしてどこか甘い悲鳴を上げる。
「な、な、何をするのじゃ!? アフゥンッ!!?」
ヴァルブルガは尻尾をビクンと跳ねさせ、顔を真っ赤にして飛び上がるように振り返った。
そこには、どこか恍惚としたような、それでいて真剣な、奇妙な表情で立つフェリシアの姿があった。
「こら、やめるのじゃ!妾に触れるでないぞ!!」
ヴァルブルガは、威厳も何もなく、涙目で後ずさり、フェリシアから大きく距離を取った。
魔王としての威厳が一瞬にして崩壊し、ただの恥ずかしがる少女の姿がそこにあった。
フェリシア自身も、自分が何をしているのか分からず、ただ困惑の表情を浮かべながら立ち尽くしていた。
従来の「勇者vs魔王」という対決の構図が、開始一秒で完全に破壊された瞬間だった。




