第33話 新たなる奸計、平和の使節の旅立ち
第33話 新たなる奸計、平和の使節の旅立ち
焦燥の炎が燃え上がる宰相執務室で、アンドレアス・ラーセンは激しく歯噛みしていた。
「くそ、まさかあの小娘がここまで名声を高めるとは……」
机の上には魔王領からの報告書が散乱していた。どれも内容は同じ——取引相手のバロッサとの連絡途絶、魔王領のナーナとの交信不能、そして何より、勇者フェリシアが民衆の圧倒的な支持を集め続けているという、彼にとって最悪の報せばかりだった。
(あの勇者は、魔王と戦うどころか、北部の領主や民衆の支持を得てますます影響力を強めている。忌々しい……)
扉を叩く音が響いた。入室の許可も待たずに、マリーネ・アクィナス大司教が姿を現す。マリーネの表情は、アンドレアスと同じく苛立ちに歪んでいた。
「宰相閣下、お疲れ様でございますの。私も困っておりますの」
マリーネは優雅に椅子に腰掛けると、扇子をパタパタと煽ぎ始めた。
「バロッサから融通されていた『素材』の供給が完全に止まってしまいましたの。あの愚か者、一体何をしてくれたのでしょう。おかげで私の大切な『研究』に深刻な支障が出ておりますわ」
「研究、とは随分と上品な表現だな」
「あら、宰相閣下こそ。『駒の配置』がお上手でいらしたのに、今回はずいぶんと乱れていますのね」
二人は互いを睨み合った。だが、すぐに現実的な利害が優先される。
「それに」マリーネが続けた。「先の事件で勇者フェリシアの評判が上がったせいで、教会内部でもアンブロジウス枢機卿のような和平派が息を吹き返しつつありますの。このままでは、我々の望む『秩序』が乱されてしまいますわ」
アンドレアスの目に、狡猾な光が宿った。
「和平派……そうだ、そこに解がある」
「まあ、何か妙案でも?」
「マリーネ殿、考えてもみよ。魔王と勇者とは何のために存在するのか?」
マリーネは扇子を止めて、興味深そうに身を乗り出した。
「戦争の道具として、でしょう?魔王は恐怖を生み出し、勇者はその恐怖を取り除く。民衆を支配するには、この二つの駒が不可欠ですの」
「その通りだ。だが今はどうだ?勇者は魔王と戦うことなく民衆の支持を集め、魔王は恐怖の象徴ではなく交渉相手として扱われている。これでは戦争の道具として全く機能していない」
アンドレアスの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「ならば、『殉教者』を作り出して民衆の怒りを煽り、勇者を本来の役割——魔王討伐へと強制的に戻すのだ」
「なるほど、それは面白そうですわね。で、どなたを『殉教者』にご指名で?」
「決まっているだろう。和平派の長老、アンブロジウス枢機卿だ」
マリーネの目が愉悦に輝いた。「まあ、素晴らしい!あの偽善者が最後に人の役に立つなんて、感動的ですわ」
* * *
翌日、老司教アンブロジウスは宰相執務室の重厚な扉の前に立っていた。七十を超えた老体は杖に頼りながらも、背筋は真っ直ぐに伸びている。
「アンブロジウス枢機卿、お忙しい中をお越しいただき、恐縮です」
アンドレアスは立ち上がり、深々と頭を下げた。アンドレアスの殊勝な態度に、アンブロジウスは眉をひそめる。
「宰相閣下、一体どのようなご用件で?」
「実は……」
アンドレアスは苦悩に満ちた表情を作った。
「この度の北部での一件を受け、私自身、深く反省をしております。これ以上の無益な流血は避けねばならない」
アンブロジウスの古い心臓が跳ね上がった。主戦派の筆頭であるアンドレアスの口から、和平という言葉が出るとは。
「それで、枢機卿にお願いがあります。貴殿の豊富な経験と高潔な人格をもって、魔王領との公式な和平交渉の道を開いていただけないでしょうか」
沈黙が執務室を支配した。アンブロジウスの鋭い眼差しがアンドレアスを見詰める。
「宰相閣下、失礼ながら、これまでの貴殿の言動と今のお言葉には、大きな隔たりがございます。一体、何が貴殿の心境を変えたのですか?」
「……正直に申し上げましょう」
アンドレアスは窓に目を向けた。
「北部での一連の事件を通じて、これ以上の争いが王国にもたらす損失の大きさを痛感いたしました。また、勇者フェリシア様の報告により、魔族との対話の可能性も見えてまいりました」
嘘と真実を巧妙に織り交ぜた言葉。アンブロジウスの疑念は消えない。
(たとえ罠であったとしても……万に一つの平和への道であるならば)
老司教アンブロジウスは心の中でそう呟いた。
「枢機卿?」
「分かりました」アンブロジウスは杖をつきながら立ち上がった。「この老いぼれの命、平和の礎となるなら本望。お引き受けいたしましょう」
(フフフ……アンブロジウス、お前の傷つくほどの優しさが、お前の断末魔となる……)
アンドレアスの内心で、悪魔的な笑いが響いた。
大聖堂前の広場は、群衆で埋め尽くされていた。王都の民衆が、これほど大勢集まることは滅多にない。
壇上では、マリーネ大司教が白い法衣に身を包み、涙を浮かべながら演説を続けていた。
「皆様!今日この日、我らが愛する枢機卿アンブロジウス様は、平和のために危険を顧みず、魔王領へと旅立たれます!」
群衆からどよめきが上がった。
「枢機卿様は、これまで長きにわたり神の愛と慈悲を説き続けてこられました。そして今、その教えを実践されるのです!我々は、この尊い聖職者たちのために、心からの祈りを捧げましょう!」
マリーネの声は、広場の隅々まで響き渡った。民衆の心はマリーネの言葉に揺さぶられ、多くの者が目に涙を浮かべている。
壇上の一角で、アンブロジウスは複雑な表情を浮かべていた。隣に立つ見習い司教レオは、緊張で顔を青くしている。
「師父、本当に大丈夫でしょうか」レオが小声で囁く。
「レオよ」アンブロジウスは穏やかに微笑んだ。「恐れることはない。神は我々と共におられる」
(アンドレアスの真意、マリーネの過剰な宣伝、そして何より、この完璧すぎる状況設定……)
老司教アンブロジウスはその心の奥で、不安の影を感じ取っていた。
「民衆よ!」マリーネの声が再び響く。「枢機卿様に神の御加護がありますよう、共に祈りましょう!」
「神よ、枢機卿様をお守りください!」
「平和をもたらしてください!」
「無事にお帰りください!」
民衆の祈りの声が、青空に響き渡った。
アンブロジウスは群衆を見詰めた。群衆の期待に満ちた顔、希望に輝く目。
(この人々のために、たとえ命を落とすことになっても、平和への道を切り開かねばならない)
「では、出発いたします」
老司教は杖をつきながら、ゆっくりと階段を降りた。レオと和平団のメンバーが後に続く。
王都の門が開かれた。馬車と護衛の騎士たちが待っている。
「枢機卿様、万歳!」
「神の御加護を!」
「必ず平和を!」
民衆の万歳と祈りの声援が、使節団を包み込んだ。アンブロジウスは馬車の窓から手を振り、群衆に応えた。
馬車がゆっくりと動き出す。王都の門をくぐり、街道へと向かっていく。
群衆の歓声が次第に遠ざかり、やがて静寂が戻った。
王宮のバルコニーから、アンドレアスとマリーネが並んで使節団の出発を見送っていた。
「今頃、民衆は感動に浸っていることでしょうね」
マリーネが扇子をパタパタと煽ぎながら呟く。
「これで、後の『悲報』への下地は完璧ですわ」
「ああ」
アンドレアスの口元に冷酷な笑みが浮かんだ。
「さあ、第二幕の始まりだ」




