第02話 境界の街、酒場の出会い
第02話 境界の街、酒場の出会い
協定歴3955年、セレスティナ王国。魔王領との緊張が常に燻る境界の街、ラゴマジョレ。
その昼下がりの酒場は、様々な人種の喧騒で満ち満ちていた。行き交う商人たちの威勢の良い掛け合い、古い冒険譚を語る傭兵たちの粗野で豪快な笑い声、遠い故郷を懐かしむ旅人たちが交わす郷愁混じりの訛り。それら全てが、活気という名の濁流となって渦巻き、酒場全体を包み込んでいる。だが、この混沌とした喧騒こそが、様々な思惑を抱いた者たちにとっては最高の隠れ蓑でもあった。
その濁流から切り離されたように、酒場の隅のテーブルで、一人の少女が黙って湯気の立つ薬草茶のカップを手にしていた。
フェリシア——セレスティナ王国が擁する、「勇者」の称号を持つ少女である。
教会から下賜されたという彼女の戦装束は、聖女の清廉さと騎士の軽快さを合わせたような特異なデザインをしていた。白銀の胸当てには神聖な紋章が精巧に刻まれ、白い襟元には教会の聖印が丁寧に刺繍されている。大きく結ばれた紺色のリボンは、彼女の年齢にふさわしい可憐さを演出し、動きやすさを重視したプリーツ入りの短いスカートもまた、同じ紺色で統一されていた。可憐さと実用性を見事に両立させたその装束は、確かに美しく、神々しくすらあった。
しかし、この雑多な酒場の中では、それがかえってフェリシアを浮き立たせていた。まるで、汚れた世界に降り立った天使のように。
(なぜ、私が……)
カップの中で揺れる薬草の葉を眺めながら、フェリシアは内心で何度目になるか分からない問いを繰り返す。北部の辺境の村で生まれ育った、ただの平凡な少女。それが、二年前の彼女だった。
15歳の誕生日を迎えた朝、何の前触れもなく、フェリシアの脳裏に直接、冷たく無機質な声が鳴り響いたのだ。
『汝、次代の勇者たれ』と。
神からの宣託。それは絶対であり、抗う術などなかった。その日から、フェリシアは勇者となった。しかし、それは彼女が望んだ運命ではなかった。
故郷から王都へ召し上げられ、待っていたのは、フェリシアという存在を「解析」し「利用」しようとする冷たい視線の日々だった。宰相アンドレアス・ラーセンは「勇者とは国家の象徴であり、個人の感情は不要だ」と冷徹に告げた。まるで、フェリシアが人間ではなく、道具に過ぎないかのように。
そして大司教マリーネ・アクィナスは、狂信的な探求者の目でフェリシアを隅々まで調べ上げ、力を測定しながら恍惚と呟いた。
「素晴らしい!このデータさえあれば、勇者の量産も夢ではない…!あなたは神が我らに与えたもうた、最高の"サンプル"です!」
実験動物。それが、彼らにとってのフェリシアの価値だった。
人々を守りたいという純粋な願いは、いつしか国家という巨大な機構の歯車に組み込まれ、すり減っていくばかりだった。真の正義とは何なのか、本当に守るべきものは何なのか——そんな根本的な疑問を抱く時間すら、フェリシアには与えられなかった。
今回受けた勅命もそうだ。「魔王城の威力偵察を実施せよ」——表向きは「将来的な脅威への備え」と謳われているが、過去の勇者たちが単身で魔王城に乗り込み討伐を試みていたのとは違い、今回は情報収集が目的だと説明された。しかし、その実態が魔王領の軍事力や希少な鉱物資源を調査し、戦いたがる連中の計画を前進させるための国家戦略に過ぎないことを、フェリシアはもう知ってしまっている。そして、たった一人でこの最前線まで送り込まれたが、その好戦的な計画を先延ばしにするため、実際に魔王城に向かうことを躊躇していた。
幸い、今は戦争が起きているわけではない。魔王領との間にも、表面上は平和が保たれている。だからこそ、この平和を維持したいとフェリシアは心から願っていた。人々が笑顔で暮らし、子どもたちが安心して遊べる日々——それこそが、彼女が本当に守りたいものだった。
しかし、王都から送られてくる指令書には、常に戦争を煽るような文言が踊っている。「魔族の脅威」「積極的な対策」「先制攻撃の検討」——まるで戦争を望んでいるかのような、好戦的な言葉ばかり。彼らは平和よりも、自らの権力と利益のために戦争を欲しているのではないか。そんな疑念が、フェリシアの心に日に日に強くなっていった。
(私が守りたいのは、この平和そのものなのに……なぜ私には戦うことばかりが求められるのだろう……)
その時だった。
隣のテーブルから、穏やかで、しかしどこか人を食ったような声がかけられた。
「お嬢さん、それは随分と格式高いご衣装だ。しかし、神の宣託とはいえ、今どき『勇者』なんてものものしい肩書きを背負わされるとは...ご愁傷様ですな」
* * *
【視点切り替え:フェリシア → ドラーゲン】
* * *
魔王城を後にして数日後。ドラーゲンは魔王領との国境に位置する街、ラゴマジョレにいた。
(まあ、追放されたとはいえ、すぐに遠くまで逃げる必要もない。しばらくはこの辺りで情報収集でもしながら、次の手を考えてみるか)
酒場に足を向けたのは、情報が集まりやすい場所だからというのもあるが、正直なところ、少し酒でも飲んで気分を紛らわせたかったというのが本音だった。
店内は賑やかで、様々な人種が入り交じっている。商人、傭兵、旅人——この手の境界の街らしい光景だ。
適当な席を探していたドラーゲンの目に、ふと一人の少女が映った。
酒場の隅のテーブルで薬草茶を手にしている、白銀の装束を身に纏った少女。その格式高い衣装と神聖な紋章を見れば、一目瞭然だった。
勇者だ。
しかも、その表情に宿る深い疲労と迷いの色を見れば、これがセレスティナ王国の新たな勇者——ドラーゲンが調査を命じられていた人物に違いない。
興味深い。こんな場所で、こんな形で出会うとは。
ドラーゲンは彼女の近くのテーブルに腰を下ろし、ワインを注文した。そして、しばらく彼女の様子を観察する。
その精悍なツリ目の奥に宿る疲労、薬草茶のカップを見つめる憂鬱そうな表情、時折小さくため息をつく仕草——どれも、勇者としての活動に疲れ切っているようだった。
なるほど、これは面白い。
ドラーゲンは意を決して、彼女に声をかけることにした。
「お嬢さん、それは随分と格式高いご衣装だ。しかし、神の宣託とはいえ、今どき『勇者』なんてものものしい肩書きを背負わされるとは...ご愁傷様ですな」
案の定、彼女の目がドラーゲンに向けられた。深い疲労の底にあった警戒心が、瞬時に頭をもたげる。フェリシアは神聖魔法の使い手だ。その研ぎ澄まされた感覚が、ドラーゲンが放つ魔力の流れに、決定的な"違和感"を捉えたのだろう。
「……あなたは、魔族ですね?」
静かに、しかし確信を込めて問い詰める。手は自然と、腰に提げた聖印に添えられていた。
ドラーゲンはその言葉に驚くでもなく、むしろ面白そうに目を細めた。予想していた反応だと言わんばかりに。
「まあ、そうだな。だが今は見ての通り、しがない旅の者さ。この街の賑わいに紛れれば、魔族の一人や二人、そう目くじらを立てられるものでもあるまい?」
ドラーゲンは軽く両手を上げて降参のポーズを取ると、あっさりと続ける。
「特に今は、魔王領から追放されたばかりの無害な男だ。君に敵対する理由も、力もないよ」
ドラーゲンの悪びれない態度に、フェリシアは言葉を失ったようだった。追放された魔族——突飛な情報だが、彼女の表情を見る限り、ドラーゲンが嘘を言っているとは思っていないらしい。
ドラーゲンは、そんな彼女の困惑を楽しむように、悪戯っぽく笑いながら、グラスをテーブルに置いた。そして、静かに、しかし核心を突くように、こう問いかけた。
「それより、お嬢さんは……本当に『勇者』に、なりたかったのかい?」