第14話 死線上の覚醒、勇者の戦術と慈悲の光
第14話 死線上の覚醒、勇者の戦術と慈悲の光
絶体絶命の状況。
ザガトの鉄槌が振り下ろされる瞬間、フェリシアの意識は不思議なほど明晰になった。
朦朧とする視界の奥で、師匠との過酷な修行の日々が鮮明に蘇る。あの厳しい言葉、容赦ない指導、そして——
「観るというのは、単に視覚で対象を捉えることじゃない。相手の微細な動作、その奥にある思考の動き、そして周囲に発散される気配――それら全てを、五感、いや六感全てを使って感じ取り、読み解くことだ」
師匠の教えが、フェリシアの内で一つに結ばれていく。「観見の目付」の真髄。それは単なる受動的な察知能力ではない。それを活かした能動的な戦術展開こそが、本当の力なのだ。
「これで決着だ!」
ザガトが勝ち誇ったように鉄槌を振り上げるが、フェリシアはその動きを冷静に観察していた。彼の呼吸、筋肉の緊張、重心の移動——全てが手に取るように見える。
(足の指先に僅かに力が入る瞬間。肩が微妙に傾く角度。呼吸のリズムが変わる瞬間……師匠に教わった通りだ)
フェリシアは鉄槌を間一髪で回避し、同時に反撃の剣閃をザガトの脇腹に走らせる。鎧に阻まれたが、確実に浅い傷を刻んだ。
「小娘が……!」
ザガトが力任せに攻撃軌道を修正してきたが、フェリシアはそれすらも先読みしていた。彼の筋肉の動き、体重移動のパターン、そして何より焦りから生まれる力の入れ方——全てが予測可能だった。
(先程までは読みきれず、剣で受けて吹き飛ばされるしかなかった軌道修正……でも今度は違う。先生の教えを理解した今なら、余裕を持って回避できる)
フェリシアは軌道修正された鉄槌を、慌てることなく流れるような動作で回避する。
「小娘が、しぶとい!」
ザガトの声に焦りが滲む。予想以上に粘っていることに苛立ちを覚えているのだ。その焦りが、彼の動きを微妙に変化させていく。
力任せで大振りになる攻撃。次第に単調で雑になっていく動き。
フェリシアは冷静に距離を取りながら、周囲の兵士たちとの間合いも計算していた。ザガトだけではない。この戦局全体を、今度はフェリシアが支配し始めていたのだ。
フェリシアは「観見の目付」でその変化を冷静に分析していた。そして——
大振りの一撃を紙一重で躱したフェリシア。その僅かな隙、ザガトが次の攻撃に移る瞬間の意識の途切れを見抜いたフェリシアは、彼に悟られないよう極めて短い詠唱と最小限の動作で、自身の左肩に密かに回復魔法をかけ始める。
「《癒しの光よ、静かに宿れ》」
声にならない程の小さな詠唱。師匠との手合わせで学んだ、相手の意識の外で行動する術。気配を殺して魔法を発動する技術の成果が、今ここで花開く。
温かな光が傷ついた肩を包み、激痛が和らいでいく。完全な回復ではないが、戦闘を継続するには十分だった。
ザガトはフェリシアが予想以上に粘ることに気づいても、それが密かな回復によるものだとは気づかない。さらに苛立ちを募らせ、攻撃が一層雑になっていく。
そして、フェリシアの反撃が始まった。
回復で余裕を取り戻したフェリシアは、今度は積極的に攻勢に出る。ザガトの隙を突いて鋭い突きを繰り出し、周囲の兵士が援護に入ろうとすれば、その動きも先読みして牽制する。
一人、また一人と、フェリシアの剣の前に兵士たちが膝をついていく。形勢は完全に逆転していた。
気がつけば、この場で立っているのはザガト一人だけになっていた。周囲の兵士たちは皆、負傷して戦闘不能な状態だった。
「いいかげんつぶれろ!!」
すべての攻撃をいなされて、動揺したザガトが渾身の力で鉄槌を叩きつけてくる。だが、フェリシアはもはや恐れていなかった。
フェリシアは鉄槌の構造、振り下ろす際の微妙な角度の癖、そして何よりも彼の力任せな戦闘スタイルそのものを「観る」ことに集中する。
そして、その瞬間——
フェリシアはザガトの渾身の一撃を受け流すのではなく、剣を巧みに使い、鉄槌の柄の最も負荷がかかる一点——事前に見抜いていた構造的な弱点である柄と槌頭の接合部に、最小限の力で精密な一撃を打ち込んだ。
「なっ……!?」
金属の断裂音が森に響く。ザガトの巨大な鉄槌の柄が、接合部から折れて飛んでいく。
武器を失い、丸腰同然となったザガトは、信じられないという表情で自身の得物の残骸とフェリシアを交互に見つめた。
フェリシアは静かに剣先をザガトに向ける。その動作に迷いはなく、落ち着き払っていた。
「もはや勝敗は決しました。これ以上戦いますか?」
その言葉と態度に、ザガトは戦意を完全に喪失した。自身の武器を破壊されたという事実が、彼のプライドを木っ端微塵に砕いていく。
「覚えていろ、小娘……!」
屈辱に顔を歪めたザガトは、捨て台詞を残すと、なんと残った部下たちを見捨てて一人で戦場から逃走していく。
【視点切り替え:フェリシア → ボルグ】
ボルグは苦い思いで辺りを見回した。ザガト様に見捨てられた俺たちは、この森の開けた場所に絶望的な状況で取り残されていた。武器を失った者、負傷して動けない者。俺たち魔王軍第三軍団の精鋭部隊は、もはや戦闘集団ではなく、単に混乱し、怯える「敗残兵」に成り下がってしまった。
幸い、死者は出ていない。勇者の剣技は確かに鋭かったが、致命傷を与えるものではなかった。それでも、ボルグを含めて多くの兵が動けないほどの重傷を負っている。
俺の名前はボルグ。今回の奇襲作戦の実務を担った中間管理職だ。ザガト様の脳筋ぶりでは細かい作戦立案など不可能で、実際の計画はすべて俺が練ったものだった。幹部ナーナ様が王国の情報筋から入手した勇者の位置情報を受け取り、完璧な待ち伏せ作戦を組み上げていたのに……それが、この様だ……。
特にボルグは、若い部下たちを庇って負傷した。自分の身体で盾になったせいで、左肩と脇腹に深い傷を負っている。だが、部下たちが無事なら、それで良い。
その時、勇者が俺たちに向かって歩いてきた。
(終わりか……せめて部下たちには手を出さないでくれ)
ボルグは覚悟を決めた。だが、勇者の表情には勝利の高揚も、敵への憎悪も見えない。むしろ、何か深い悲しみを湛えているようだった。
今回の作戦では、ザガト様の無謀な突撃を何とか戦術的に補うべく、精密な待ち伏せ計画を立案していた。だが、上官が敗走した今、その全てが無意味になってしまった。
勇者の接近に、ボルグは警戒と諦めの表情を浮かべていた。
「……何をする気だ?」
ボルグはかすれた声で問いかけた。敵である勇者が近づいてきたことに困惑していた。
しかし勇者は、敵意を示すどころか、膝をついてボルグに何かの魔法を施し始めた。
「《癒しの光よ、傷を包め》」
温かな光がボルグの傷を包む。ボルグの目が驚きで見開かれる。回復魔法だと……?
「あなたたちがなぜ私を襲ったのか、その理由は私には分かりません。でも、これ以上ここで誰かが苦しむのを見過ごすことはできません」
勇者の声に迷いはなかった。
「なぜだ……?」
ボルグは思わず声に出していた。
「普通なら、敵を殲滅するか、捕虜にするかのはずだろう? なぜ、俺たちを助ける?」
「私は勇者として、魔王を倒すことを運命づけられています。でも……それが本当に正しいことなのか、最近分からなくなってきました。ある魔族の方に出会って、魔族にも心があり、家族があり、守りたいものがあることを知りました」
フェリシアは続ける。
「敵も味方もありません。命は……命は等しく尊いものです。もし私に本当の使命があるとするなら、それは誰かを倒すことではなく、誰かを守ることなのかもしれません。今ここであなた方を殺しても、それは新たな遺恨を生むだけです。きっと誰かが復讐を誓い、また戦いが続いていく。でも……もしあなた方が生きて帰り、この出来事を語ってくれるなら、それは争いを止める小さな種になるかもしれません。私は、そんな希望を信じたいんです」
ボルグは、この勇者の予想外の行動と、その言葉に込められた真摯な響きに、ただただ驚くしかなかった。
(この人は……本気で言っている。敵である俺たちを、本当に命ある存在として見ている。なぜだ? なぜこんなにも……優しいのだ?)
この光景は、ボルグを含む残された魔王軍兵士たちに、言葉では言い表せない静かな、しかし大きな衝撃を与えた。
俺たちは皆、長い間戦場を生きてきた。だが、敵に治療を施す勇者など、見たことも聞いたこともなかった。
「勇者殿……」
治療を受けながら、ボルグは勇者の顔をじっと見つめる。やがて、ボルグは深々と頭を下げた。
「このご恩は、決して忘れませぬ……いつか、何らかの形でお返しできれば……」
その言葉には、単なる感謝以上の、何か心からの敬意と、将来への何らかの繋がりを示唆する響きが込められていた。
【視点切り替え:ボルグ → フェリシア】
フェリシアは他の負傷兵たちにも治療を施していく。その姿を見て、何人かの兵士たちが涙を流し始めた。
「俺たちは……俺たちは一体何をしていたんだ……」
「上官に見捨てられて……それなのに敵である勇者に救われるなんて……」
兵士たちの間に、自分たちが行ってきた戦いへの疑問が広がっていく。
フェリシアの行動は、この日この場にいた全ての者の心に、深い印象を刻み込んでいた。それは勇者とは何か、戦うとは何か、そして命とは何かを問い直すきっかけとなった。
夕日が森を染め始める頃、治療を終えたフェリシアは立ち上がった。疲労で足元がふらつくが、フェリシアの心は不思議なほど軽やかだった。
「皆さん、もう大丈夫です。でも……」
フェリシアは兵士たちを見回した。
「本当の戦いとは、誰かを傷つけることではないはずです。守りたいものを守ること、大切な人を大切にすること……それこそが真の強さなのではないでしょうか」
フェリシアの言葉は、まるで森全体に響くかのように、静寂の中に広がっていく。




