第10話 雑踏の試練、盗まれた財布と気配の教訓
第10話 雑踏の試練、盗まれた財布と気配の教訓
「さあ、では実際にやってみようか。最初は観ることから始めよう」
ドラーゲンは市場の人々の流れを眺めながら、フェリシアに最初の実践課題を出す。
「よし、お嬢ちゃん。今からしばらく、この雑踏に踏み込んで『これから何か悪さや問題行動をしでかしそうな人間』を正確に見抜け」
指を立てて説明する。
「何人でもいい、理由も添えて報告しろ。先ほど教えた観見の目付、早速試してみる時だ」
「悪さを...?」
フェリシアは困惑した。市場に響く商人たちの呼び込みの声、行き交う人々の笑い声。この平和な風景の中から、そんなものを見抜けというのか。
「どうやって見分けるのですか?」
「それが観見の目付だろう?」
ドラーゲンは肩をすくめた。
「筋肉の緊張、視線の動き、呼吸のリズム、周囲の人との距離感。全部を観察して、予兆を読み取るんだ。さあ、行け」
フェリシアは深呼吸をして、意識を集中させる。市場の喧騒の中で、人々の動きを注意深く観察し始めた。
しかし、案の定、どうしても目に付くのは、見た目に分かりやすく「怪しい」と感じる人物ばかりだった。これでは先ほど教わった観見の目付とは程遠い。
「あの...黒いフードを深く被った男性が怪しく見えます」
「理由は?」
「顔を隠していて、何か悪いことを企んでいるような...」
「ほう」
ドラーゲンは面白そうに目を細めた。
「では、あの派手な装身具をジャラジャラつけた一団はどうだ?」
「あ、はい!あの人たちも喧嘩っ早そうで...」
フェリシアは次々と、強面の男性や挙動不審に見える人物を指摘していく。しかし、それらの人物を観察していると、単に急いでいる商人だったり、日焼けで厳つく見えるだけの農夫だったりすることがわかってくる。
黒いフードの男性は、実は風邪を引いて顔を隠していただけだった。派手な装身具の一団は、どこかの祭りから帰る陽気な商人たちで、誰に対しても人懐っこく挨拶をしている。
「う...見た目だけでは判断できませんね」
「当然だ」
ドラーゲンは頷いた。
「派手な動きをする奴や、いかにも悪人面の奴が必ずしも危険とは限らん。むしろ、本当に巧妙な奴は気配を消すもんだ」
ドラーゲンは市場の別の方向を指差した。実際、ドラーゲンには既に何人かの「本物」が見えている。
「あそこの、野菜売りの前をうろついている男を見てごらん。一見、普通の客のようだが...」
フェリシアは指示された方向を見る。確かに、中年の男性が野菜の屋台の前にいた。特に変わったところは見当たらない。普通の買い物客にしか見えない。
「何か...おかしいのですか?」
「視線の動きを観察してみろ。野菜を見ているようで、実は何を見ている?」
フェリシアは集中して観察した。しばらく見ていると、男性の視線が野菜ではなく、店主の懐や、他の客の荷物に向けられていることに気づく。
「あ...!商品ではなく、人の持ち物を見ている...!」
「そうだ。それに、足の向きも見てみろ。いつでも逃げられるように、出口の方を向いている」
ドラーゲンの指摘は的確だった。
「呼吸も浅く、緊張している。あれはスリの下見だな」
フェリシアは息をのんだ。言われてみれば確かに、男性の立ち居振る舞いには、普通の買い物客とは異なる緊張感があった。
「すごい...そんな細かいことまで...」
「人混みに紛れ、呼吸や歩き方、視線の配り方...そういった日常に溶け込んだ些細な変化や違和感を見逃さないことだ」
ドラーゲンは教師のような口調で続けた。
「いいか、お嬢ちゃん。本当に危険な相手ほど、表面的には普通に見えるものだ。君が今指摘した派手な連中は、むしろ無害かもしれん」
その時、ドラーゲンは別の人物を指し示した。
「あそこの母親と子供を見てみろ。何か気づくか?」
フェリシアが見ると、母親が野菜を選んでいる隙に、その子供が店の品物に手を伸ばしているのが見えた。
「子供が...盗もうとしている?」
「そうだ。母親は気づいているが、見て見ぬふりをしている。恐らく常習犯だな。視線の動き、筋肉の微かな強張り、そして何より親子の間の無言の連携...全てが物語っている」
フェリシアは自分の観察眼の未熟さを痛感し、悔しさを滲ませている。
「そんな...微妙な気配の変化なんて、とても気付けませんでした...」
彼女が自分の不甲斐なさに気を取られている、まさにその時だった。ドラーゲンの目には、最初に指摘したスリの男が、フェリシアに接近しているのが見えていた。
彼女の腰に下げていた革製の財布を狙っているのは明らかだ。フェリシアが他の人物の観察に集中している隙を突いて、プロの技で盗みを働こうとしている。
ドラーゲンは敢えて止めなかった。これも良い教材になるだろう。
* * *
【視点切り替え:ドラーゲン → フェリシア】
* * *
フェリシアは自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。ドラーゲンの指摘はどれも的確で、フェリシアには見えていなかったものばかり。観見の目付というのは、こんなにも難しいものなのか。
一時間ほど経った頃、喉が渇いてきた。近くの屋台で果実水を買おうと思い、いつものように腰の財布に手を伸ばした時、フェリシアは愕然とした。
「あ...!財布が...!いつの間に!?」
顔面蒼白になる。確かに腰に下げていたはずの革製の財布が、跡形もなく消えていた。
「な、何で!?どうして...!」
ドラーゲンはため息をつきながら言った。
「お前さん、他人の気配を読むことに集中するあまり、自分自身の気配や周囲への警戒が完全に疎かになっていたぞ」
「でも、いつの間に...誰が...?」
「先ほど説明した通り、観ることと同時に自分を守ることも重要だと言ったはずだ。今のままでは、戦場に出れば真っ先にカモにされるだけだ」
ドラーゲンはニヤリと笑い、フェリシアに次の課題を告げる。
「さて、お嬢ちゃん。最初の実践訓練の仕上げだ。その財布、自力で取り返してこい。それが今日のノルマだ」
「と、取り返すですって!?」
フェリシアは真っ赤になって抗議する。
「わ、私にスリの真似をしろとでも言うのですか!?」
「やれやれ、だからお嬢ちゃんは早とちりが多い」
ドラーゲンは肩をすくめた。
「何も盗人になれと言っているわけではない。相手を特定し、どうすれば合法的に、あるいは交渉によって取り戻せるか。相手の隙や弱みを見抜き、自分の存在や意図を隠しながらどう接近し、財布のありかを探るか」
彼は人差し指を立てる。
「その過程の全てが『観見の目付』と『気配の管理』の応用であり、実践訓練だと言っているんだ。何も力ずくで奪い返せとは言っとらんぞ?」
ドラーゲンはあえて具体的な方法は示さず、フェリシアに考えさせる。
「さあ、どうする?できなければ、今夜の夕食は本当に抜きになるぞ」
フェリシアはドラーゲンの言葉の真意を完全に掴めないまま、しかし夕食抜きの恐怖と屈辱感に突き動かされ、市場でスリと思われる人物の姿を探し始めた。
しかし、そもそもスリを特定する「観る」力が圧倒的に不足している。誰が犯人なのか皆目見当もつかない。
人混みの中を歩き回り、それらしき人物を見つけては声をかける勇気もなく、結局、何の手がかりも得られない。
数時間が過ぎ、フェリシアの足取りは次第に重くなっていく。観見の目付どころか、普通の捜査すらままならない自分の無力さに、深いため息をつく。
「どうして...こんなに何もわからないの...」
昼が過ぎ、午後になっても状況は変わらなかった。市場の人々の流れは変わり続けるが、フェリシアには手がかりらしい手がかりも掴めない。
やがて、夕日が市場の屋台を赤く染め、店じまいの準備が始まる頃、フェリシアはついに空腹と疲労の限界を感じた。
とぼとぼとドラーゲンの元へ力なく戻る。
「ドラーゲンさん...だめでした...」
消え入りそうな声で報告する。
「スリの人、見つけられませんでした...。お腹が空いて...もう、一歩も動けそうにありません...」
フェリシアは恥ずかしそうに俯いた。
「あの、ぶしつけなお願いとは存じますが...今夜の夕食代を、お借りすることはできませんでしょうか...?」
「やれやれ、本当に情けないお嬢ちゃんだな」
ドラーゲンは、どこか楽しんでいるようにも見えるため息をつきながら、懐から何かを取り出す。
「まあ、仕方あるまい。ほら、ここから出すといい。今日の夕食は奮発してやろう」
それは、まさしく昼間にすられたはずの、フェリシア自身の革製の財布だった。
「え...!?」
フェリシアは目を丸くして絶句する。
「わ、私の財布...!?な、なぜあなたが!?い、いつの間に...!?」
「ああ、あのスリなら、お前さんが的外れな聞き込み(?)を始めた直後には捕まえて、財布はとっくに回収しておいたさ」
ドラーゲンはこともなげに言う。
「お前さんがあまりにも必死に、しかし滑稽なほど見当違いな捜索を続けていたからな。声をかけるタイミングを逸したというか、まあ、いい薬だろうと思って放っておいただけだ」
フェリシアは、ドラーゲンが既に財布を取り返していたこと、そして自分がその事実に全く気づかず、一日中無駄な努力と空腹に耐えていたことに、言葉を失うほどのショックを受ける。
自分の愚かさと、ドラーゲンの底知れぬ能力、そして何より、自分がドラーゲンの手のひらの上で踊らされていたという事実に、打ちのめされる。
「いいか、フェリシア」
ドラーゲンは静かに、しかし厳しく告げる。
「スリを見つけ出すこと以前の問題だ。お前さんは自分の大切なものがいつの間にか他人の手に渡り、そしてこうして私の手によって自分の目の前に戻ってきているというこの状況の変化すら、全く観ることができなかった」
彼は一呼吸置いて続けた。
「この私が、お前さんのすぐそばで財布を取り返し、それをずっと懐に隠し持っていたという気配すら、微塵も感じ取れなかった。――それが、今の君の『観見の目付』の、偽らざる実力ということだ」
ドラーゲンの言葉が、フェリシアの胸に深く刺さる。
「今日の教訓、骨の髄まで染みたか?」
フェリシアは顔面蒼白のまま、悔しさと情けなさで唇を噛みしめ、ただ俯くことしかできなかった。
夕闇がフェリシアの小さな肩を包み込んでいく。遠くで聞こえる市場の終わりを告げる鐘の音が、今日の敗北を象徴するかのように響いていた。
しかし、その深い屈辱感の奥で、フェリシアは確かに理解していた。観見の目付とは、単に相手を観察することではない。自分自身の状況を把握し、周囲の変化に敏感であり続けることも含めた、総合的な感覚なのだと。
そして、その道のりがいかに険しく、自分がいかに初歩の初歩にも達していないかということも。
「明日も稽古は続くぞ、お嬢ちゃん」
ドラーゲンの声には、厳しさと同時にどこか温かみがあった。
「今日の教訓を忘れるな。観ることと潜むこと。この両方を身につけなければ、真の戦いには臨めない」
彼は市場の人々を眺めながら、最後に付け加えた。
「お前さんが今日学んだのは、まだほんの入り口に過ぎない。俺が目指すパッシブ戦術の真髄は、もっと奥深いところにある」
フェリシアは小さく頷いた。心の奥で、必ずや今日の屈辱を越えてみせると、静かに誓いながら。




