第01話 玉座の間の追放劇
第01話 玉座の間の追放劇
魔王領ノクテルヴァルトの首都シャッテンシュタット。その心臓部たる魔王城の玉座の間——ドラーゲンはもう何度この場所に立ったことだろうか。
黒曜石と磨き上げられた銀で構成された、荘厳という言葉すら陳腐に響くほどの威圧感。天井から吊るされた巨大なシャンデリアが魔法の光を宿し、その柔らかな輝きは床に敷き詰められた深紅の絨毯に吸い込まれながら、壁に並ぶ歴代魔王の肖像画に幻想的な陰影を落としている。
しかし、今日のこの空間に満ちているのは威光ではなく、氷のように冷たく張り詰めた緊張だった。それも無理はない。
玉座に腰掛ける若き魔王ヴァルブルガを見れば、一目瞭然だ。黒を基調とした豪奢なゴシックドレスに身を包み、その小柄な体躯には不釣り合いなほどの威厳を纏おうと、懸命に背筋を伸ばしている。しかし、額に生えた可愛らしい角の間からのぞく美しい顔は、抑えきれない怒りで紅潮していた。そして、その感情に呼応するかのように、ドレスの裾から伸びる硬質な鱗に覆われた立派な竜の尻尾が、苛立ちを隠しきれずにぴくりと震え、石の床を小さく叩いている。
カツン、と。
ドラーゲンの眼には、今日も機嫌が悪い魔王の姿が映っていた。
「――答えよ、ドラーゲン!セレスティナに新たな勇者が現れたとの報を受け、そなたに調査を命じたはずじゃ! なのに貴様は、その責務を放棄し、一体どこで油を売っておったのじゃ!」
ヴァルブルガの鈴を転がすような、しかし今は怒りに震える声が玉座の間に響き渡る。彼女なりに魔王らしい威厳を込めた詰問のつもりだろうが、ドラーゲンにはどうしても年相応の少女の癇癪にしか聞こえない。彼はそれを見ていて微笑ましくもあり、痛ましくもあると感じていた。
確かにドラーゲンは調査を命じられたが、あえて放置していたのは事実だった。
案の定、待ってましたとばかりに、魔王補佐官のナーナ・シュトラーセが追撃してきた。
「魔王様、ご報告申し上げます。ドラーゲン殿の規律違反は、今に始まったことではございません」
ナーナは手にした羊皮紙の巻物を広げ、まるで定型文を読み上げるかのように淡々と続ける。その表情は氷のように硬く、眼鏡の奥の瞳には個人的な恨みがきらめいている。
「重要軍事会議への遅刻十三回、無断欠席七回。提出物の遅延、多数。作戦への非協力的な態度、数知れず。さらに、執務室に勤務する女性兵士や文官への不適切な言動、多数に上ります。そのうえ...!」
ここで彼女の声に、初めて感情——激しい憤りが混じった。
「この私に向かって、『行き遅れ』『鉄面皮のお局様』など、職務と無関係かつ極めて侮辱的な発言を!...おほん。これらの行動は軍の規律を著しく乱し、他の兵たちへの示しがつきません。厳罰に処すべきと進言いたします!」
ドラーゲンには、氷の補佐官殿が自分に揶揄われた私怨もたっぷり込めているのが分かった。実に分かりやすい。
今度は筋骨隆々たる巨漢が吼えた。軍団長ザガト・ブローディア。その鉄槌のように太い腕を振り上げ、唾を飛ばさんばかりの勢いでドラーゲンを指差す。
「魔王様!このような男に調査など任せるから、いつまで経っても戦の準備が進まぬのです! 奴の影魔法とやらも、所詮は諜報ごっこの小細工!我ら魔族は力をもって示すべき!」
(お次は脳筋軍団長か。力押しだけで戦果も上がらないくせに、よく人のこと言えるものだ。過去何度も自分に勝負を挑んできては撃退されているくせして。まあ、魔族らしい価値観ではあるが)
玉座の間の隅では、魔王領商会頭バロッサ・スコルピオが腕を組みながら、このやり取りを品定めするように眺めている。肥満した体に悪趣味なまでに豪奢なスーツを纏い、その指には宝石がいくつも下品にきらめいている。彼は、この緊迫した状況を、まるで競りにかけられた極上の商品でも値踏みするかのように、にやにやと楽しんでいる。
ドラーゲンは内心で苦笑いを浮かべた。出たな、強欲商人。あの金への嗅覚だけは認めてやるが、そのせいでどれだけの血が流れることか。実に愉快そうじゃないか。戦争は儲かるもんな、バロッサ殿。
すべての敵意と侮蔑、そして悪意を一身に浴びながら、ドラーゲンはどこ吹く風だった。むしろ、これは好機かもしれない、と彼は思った。
ドラーゲンはヴァルブルガの詰問に対し、わざとらしく困ったように頭を掻くと、ふらりと一歩、玉座へと近づいた。縁側で日向ぼっこでもするかのような、のんびりとした気安さを演出する。
「いやあ、若くて可愛らしい魔王様が、わざわざ血なまぐさいお話に頭を悩ませなくとも、このドラーゲンがひょいっと……ねぇ?」
緊張感というものを全て時空の彼方へ置き忘れてきたような、軽薄な口調。ヴァルブルガが「無礼者!」と咎める声を上げるよりも早く、ドラーゲンは行動に移った。
影魔法。室内に差し込む魔法の光が作り出す陰影と同化し、瞬時にその存在を別の場所へと移す術——まあ、ザガトの言う通り「諜報ごっこの小細工」かもしれないが、なかなか便利なものだ。
次の瞬間、ドラーゲンはヴァルブルガの玉座の真横に、音もなく現れていた。そして、彼女の怒れる視線を意にも介さず、悪戯っぽく笑いながら、その指先をそっと伸ばす。
狙いは、ヴァルブルガの背後で不機嫌そうに揺れていた、竜の尻尾の先端。
ちょん、と。
まるで猫じゃらしで戯れるかのような、軽い、あまりにも軽い接触。
その、瞬間。
「ひゃっ!?」
予想通りの反応だった。ヴァルブルガの口から、魔王の威厳など微塵も感じさせない、素っ頓狂な悲鳴がほとばしる。全身に電撃が走ったかのようにその体を硬直させ、顔をカッと真っ赤に染め上げる。彼女の尻尾は、びくん!と大きく跳ね上がった。
ドラーゲンは心の中で苦笑を漏らした。ああ、相変わらず敏感だな。まるで猫が急所を触られた時のような、純粋で本能的な反応。
「な、な、何をするか、この破廉恥者がーーーっ!!」
それは、魔王としての計算された怒りではない。年頃の少女が、最も触れられたくない部分に不意に触れられた時の、生々しく、本能的な絶叫だった。
本気の怒りと羞恥心が、彼女の中で混線し、爆発する。顔を真っ赤にしたまま、涙すら浮かべながら、しかし魔王としての威厳を保とうと必死に声を張り上げた。
「き、貴様のようなふざけた男に、我が軍の未来は任せられぬ!ドラーゲン!そなたを魔王軍幹部から解任し、魔王領からの即時追放じゃ!」
涙目になりながらも、自分なりの最大限の威厳を声に込めようとする姿は、怒りに震える幼い竜のように、愛らしくも、痛ましい。
「――そのふざけた面、二度と妾の前に見せるな!」
静寂が、玉座の間を支配する。
ドラーゲンは、ほんの一瞬だけ、その瞳から全ての感情を消し去った。真顔——ヴァルブルガですら滅多に見ることのない、彼の素顔の一端。深い洞察と、何か遠くを見据えるような、静かな決意。
まあ、こうなることは分かっていた。
すぐに、ドラーゲンはいつもの飄々とした人の悪い笑みに戻ると、大げさに肩をすくめてみせた。
「おっと、これは失敬。どうにも可愛らしい尻尾を見ると、つい、ね。」
ドラーゲンはくるりと背を向け、衛兵たちが固唾を飲んで見守る中、玉座の間を悠々と横切り始める。追放される男のそれとは到底思えぬほど、軽やかで自由な足取りで。まるで、重い鎖から解き放たれた鳥のように。
扉に手をかける直前、ドラーゲンはふと足を止め、悪戯っぽく片目をつぶって振り返る。
「......じゃあね、ヴァルブルガちゃん」
その親密な呼び方に、ヴァルブルガの肩が微かに震える。ドラーゲンには分かる——彼女の心の奥で、幼い頃の記憶が蘇っているのだろう。いつも自分を守ってくれた、頼もしい大人の背中。でも今は、魔王としての立場がある。彼女は魔王としての仮面を崩すまいと、必死に唇を噛み締めている。
健気な子だ。ドラーゲンはそんな彼女の強さを見届けたかのように満足げに頷くと、今度こそ扉の向こうへと姿を消した。
* * *
【視点切り替え:ドラーゲン → ヴァルブルガ】
* * *
ドラーゲンの気配が完全に消え去った後。
ヴァルブルガは、誰にも気づかれぬよう、まだ熱を持ったままの自身の尻尾の先をそっと押さえながら、唇を強く、強く噛み締めていた。
あの破廉恥者め……なぜ、いつもあのようなことを……。
しかし、ヴァルブルガの思考を遮るように、いち早く動いたのは、商会頭バロッサだった。彼は媚びへつらうような、それでいて計算高い笑みを浮かべ、ヴァルブルガの元へとすり寄ってくる。
「魔王様、実に賢明なるご判断! これで、ようやく我らも思う存分"戦争の準備"に集中できますな! 我が商会も、来るべき聖戦のために、全力で支援させていただきますぞ、ヒヒヒ......」
不気味な笑い声が、やけに大きく響く。その声には、戦争という"商機"への期待が露骨に込められていた。
その様子を、ナーナ・シュトラーセは冷え切った瞳で一瞥した。計算通りに障害は排除された、とでも思っているのだろう。次は、この愚かな武人と強欲な商人を、いかにして自分の駒として使いこなすか——彼女の思考は、既に次なる盤面へと移っているのが分かる。
ヴァルブルガは魔王としての威厳を保とうと、背筋を伸ばす。しかし、心の奥で、小さく呟いていた。
(……馬鹿者が。妾のことなど、放っておけばよいものを)
だが、その呟きの向こうに、ほんの僅かな寂しさが混じっていることに、ヴァルブルガ自身は気づいていなかった。