3-6 羊羹と玉露
俺は少し迷ったが、田村さんと目を合わせて頷く。
「ゴーグルとマスクだけ外しましょうか。ヘルメットは念のため被ったままで」
みんなも同意してくれた。ヘルメットのヘッドセットは片方だけ跳ね上げて、片方は嶺守島の桐島博士に繋がったままの状態にする。全員のヘルメットについている小型カメラをONにして、これらも桐島博士に繋がるようになっている。
3階の奥の部屋の前で装備を確認してから、俺がドアをノックした。
「失礼します」
「どうぞお入りください~」
穏やかな返事が聞こえた。
ドアを開けると、そこには穏やかな光景が広がっていた。窓際に車椅子に座った2人の女性、ベッドの背もたれを少し上げた状態で横になっている1人の男性、そしてその横に立っている男性。女性2人とベッドの男性は、こちらを見て微笑んでいた。立っている男性だけが、少し戸惑っているような表情だ。
グルッと室内を見回すと、火山灰で薄暗く埃っぽい外の景色とは対照的に、部屋の中は清潔に保たれ、どこか温かい雰囲気があった。観葉植物が多いせいか、とても空気が清浄で、外では見かけないような鮮やかな花が咲いたプランターも窓際に並んでいる。
「あら、お客様は久しぶりだわ~どうぞ座ってちょうだいな」
車椅子の女性の一人が、上品な口調で声をかけてくれる。髪は真っ白だが、背筋を伸ばして座る姿は凛としていた。
「はじめまして。詳しくはお話しできませんが、この地域の安全確認をさせていただいています」
俺たちは、丁寧に頭を下げた。
「私は神崎、こちらは田村、如月、橘です。皆さんのご様子を伺いに参りました」
「まぁ、ご丁寧に。私は田中と申します」
先ほど話しかけてくれた車椅子の女性がにこやかに答える。
「私は西山でございます」
もう一人の車椅子の女性が、やや控えめな笑顔で挨拶する。
「野村と申します」
ベッドに横になった男性も、少し体を起こして頭を下げようとする。
「どうぞ、お体を楽にしてください」
レオさんが慌てて制止すると、ベッドの横に立っている男性が野村さんを介助しながら、少し困惑した表情でこちらを見ている。俺たちは迷彩服で、ヘルメットから靴までがっつり装備しているし、かなり怪しいだろう。
「私が施設長の高瀬です。ここは『みどりの里老人ホーム』という介護施設です。こんな状況でも、安全確認のお仕事をされているんですね。自衛隊の方ですか?」
高瀬さんは60歳前後に見える。やや疲れた表情だが、しっかりとした口調で話してくれる。
「いえ、民間人ですよ。ですが、多少の装備や物資がありましたので、こうやって回らせていただいてます。よろしければ、この1か月半の状況をお聞かせいただけませんか?」
俺の問いかけに、高瀬さんは少し暗い表情を見せた。
「早いものですね、もう1か月半がたちましたか……あの大津波の当日は、入居者18人と日勤の職員6人、そして私がいました。ですが、その日から家族が迎えに来て、9人の入居者を連れて行きました。残っていた職員たちも 『家の様子を見てくる』 と言って出て行ったきり、誰も戻ってきていません」
高瀬さんは窓の外を見つめながら続けた。
「残った9人の入居者と私で、何とか頑張ってきましたが...... 電気が使えなくなったり、薬がなくなったりして、この1か月半で6人の方が亡くなりました。遺体は2階に安置して、残った我々は3階で暮らしています」
「そうでしたか......大変でしたね」
レオさんが深いため息をつく。
「でも、私たちはまだまだ元気なのよ、うふふ」
田中さんが明るく笑う。その笑顔は不思議なほど穏やかだった。
「津波の一週間後に、頭の中に不思議な声が響きませんでしたか?」
陽菜乃ちゃんが物質化のアナウンスのことを確認する。
「ああ、あれですか」
高瀬さんが、少し落ち込んだような表情を見せる。
「急に頭に声が響いて、とても驚きました。18時頃でしたよね。私は夕食の配膳をしていたので、すぐに皆さんの部屋を回って確認しているうちに締め切りの10分が過ぎてしまって......後悔先に立たずです」
「でもね、私は成功したのよ」
田中さんが嬉しそうに手を叩く。
「 『美味しいお茶が飲みたいわ』 って思ったら、とっても良いお味の玉露を出せるようになったの。手品みたいなのよ~不思議でしょ?」
田中さんの手の中に、銀色のアルミのパッケージが現れた。
「本当だ! 物質化できてるぅ~」
陽菜乃ちゃんが拍手する。
「こういう施設なので、30人1週間分の食料備蓄がありました。なので、切り詰めながら何とか食べています。電気は使えませんが、水は問題ないのです。カセットコンロとガスもまだあります。ですが、あの奇妙な告知の時に、薬か発電機を頼んでいたらと……」
高瀬さんが、視線を落としつつ現状を説明してくれる。
「その後、黒い犬みたいな魔物には遭遇しましたか?」
田村さんが確認する。
「あれは魔物なのですか? 窓から何回か見たことはありますが、この建物からは1回しか出たことがないのです。最初の頃、近所のコンビニに食料を探しに行って戻ると、入居者の一人が亡くなってしまっていて......それからはここを離れないようにしていて。後悔ばかりです」
高瀬さんの表情が曇る。今でも、その時のことを忘れられないようだ。
「私が言うのも無責任ですが、高瀬さんに落ち度があったわけではないでしょう。お一人でここまで施設を維持し続けるのは大変だと思います。だが、この部屋は、とても清潔で気持ちがいい。皆さんも、穏やかな表情をしていらっしゃる」
田村さんが、高瀬さんに優しく声をかける。
「そうなのよ~、言ってやってちょうだい。何回も施設長のせいじゃないと言っているのに、この方、元教師で真面目だから何でも背負い込んじゃうのよ」
「そうだよ。あの時、亡くなった峰岸さんは津波の前から、もう長くないと言われてたじゃないですか。もう90超えてたし寿命ですよ、寿命。ははは」
玉露を手に持った田中さんとベッドの男性の野村さんが、施設長を励ましている。もう何度も、この会話は繰り返されているのだろう。
「それでは、皆さんの健康状態を確認させていただけませんか? 医師がいますので、遠隔ですが診察できるんですよ」
4人とも驚きつつも、嬉しそうな顔になった。
俺はタブレットを取り出し、桐島博士とのビデオ通話を繋いだ。インカメラにして、画面を4人の方に向ける。
『皆さん、はじめまして。医師の桐島です』
画面の向こうから博士の落ち着いた優しい声が聞こえる。
「まぁ、お医者様なのね、嬉しいわ~。ありがとうございます」
田中さんが丁寧に頭を下げる。
『レオさん、聴診器をお願いします』
レオさんがカバンから聴診器を取り出し、博士の指示に従って一人ずつ心音を確認していく。
『顔色はいかがですか? むくみはありませんか? 水分は十分に摂取できてますか?』
博士が画面越しに観察しながら質問を続け、レオさんが指示通りの場所を触って桐島博士に伝えたり、カメラに映したりする。このやり方は練習していたので、スムーズに進んでいるようだ。
『お薬の在庫はいかがですか?』
「血圧の薬と痛み止めが、あと1週間分ほどです」
高瀬さんが答える。
『わかりました。後ほど、必要なお薬をお渡ししますね』
博士の診察が一通り終わると、物資を取ってくると説明して、俺たちは一旦車に戻った。
「どうでしょうか?」
俺が博士にヘッドセット越しに確認すると、博士は少し言いよどんでいた。
『そうですね……正直に申し上げると、皆さんの状態はあまり良くありません。特に田中さんは心臓に負担がかかっているようですし、西山さんは食欲が無いようでかなり体力が落ちていますね。野村さんも腎機能の低下が見られます。三人とも、もう......長くはないかもしれません』
重い言葉だった。
「わかりました。できることをしましょう」
俺たちは車から物資を運び込んだ。医薬品や食料や物資、どれも量は多くは無い。吟味した最低限だ。継続支援が必要な燃料を使うものや、使い捨て用品はない。
そして、拳銃と銃弾。
武器を渡すことについては、昨日、少し議論になったが、現場で田村さんが判断することになっていた。俺たちは全員、タグを身に付けているので、渡した拳銃の安全装置が働いて、その場で撃たれることは無い。田村さんが武器ケースを取り出したので、どうやら渡すつもりのようだ。
「あら、羊羹! 甘い物なんて、久しぶりだわね~」
渡した物資を見て、田中さんが嬉しそうに声を上げる。
「まぁ、こんなものが食べられるなら、いつ死んでも悔いはないわね」
西山さんが羊羹を一口食べて、心底嬉しそうに笑った。
「私の分も召し上がってください」
高瀬さんが自分の羊羹を3人に分けて配る。
その優しい表情に、胸が熱くなった。だが、言いにくいが、ハッキリと伝えなければならないことが俺にはあった。
「皆さん、本当に申し訳ないのですが……残念ながら、皆さんを安全な場所に避難させることはできません」
俺は苦渋の思いでそう伝えた。しかし、3人は顔を見合わせてから笑い出した。
「あら、避難しろと言われても、ここから動かないわよ」
田中さんが手をひらひらと振る。
「私たちは3人とも、この施設に10年以上いるの。もうたぶん身寄りもいないし、最後までここにいるわ」
「もう長くないってわかってるから、心配しないでちょうだいね」
「あら西山さん、次は私の番よ~。だって私の方が年上だもの、うふふ」
田中さんと西山さんが明るく言う。
「いやいや、私の方が持病は深刻ですよ。ほら、男性の方が寿命も短いし、はははっ」
野村さんも笑いながら主張する。
「あら、競争かしら?」
3人が顔を見合わせて笑い合う。死について、まるでピクニックの話をするような軽やかさだった。生き延びることが第一だった俺には、その異常なほどの死への距離感に言葉が出なかった。
「もう、おばぁちゃんもおじぃちゃんも、そんな勝負しないで長生きしてよ~! あのね、いいものを持って来たんだよ。見てみて~」
陽菜乃ちゃんが明るく雰囲気を変えて、網戸用のフィルターを取り出した。思わず吞まれそうになっていた俺も、気を取り直して作業を始める。
「花粉用ですが、これを貼ると、火山灰をある程度は防ぎながら窓を開けられます。濡らした布と二重にしたら、さらに効果が上がりますし、海風が入ってくるから涼しくなりますよ」
「それは助かりますね。冷夏になりそうとはいえ、それでも夏ですからね」
高瀬さんが喜んで、フィルターを確認している。
田村さんと俺で網戸にフィルターを貼り、3か所の窓を開け放つと爽やかな海風が部屋に流れ込んだ。
「あら、気持ちいいわね~」
田中さんが目を細める。
「少し面倒ですが、週1回、このブラシで優しく撫でて詰まった灰を落としてください」
ブラシと一緒に、小袋も渡す。
「あと、少しですが、これは本当に辛い時に使ってください」
中には、塩分タブレットと経口補水液の粉末が入っている。継続的な支援はできないが、この夏を乗り切ることができるくらいの手助けはしたかった。
田村さんが、高瀬施設長を廊下へ呼び出したので、武器を渡しているのだろう。俺たちは、淹れてもらった玉露をいただきながら、田中さんと西山さんのおしゃべりを聞いていた。
それから、戻ってきた田村さんと一緒に、ベッドに寝ている野村さんの身体を拭いたり、みんなの寝具の交換をして洗濯したりと、力仕事をまとめて引き受けた。
「では、そろそろ失礼しますね。最後に......2階の遺体を引き取って、海に流させていただきましょうか?」
俺が申し出ると、4人の表情が一気に明るくなった。
「本当ですか? ありがとうございます」
特に高瀬さんは、深く頭を下げる。ずっと気がかりだったのだろう。
「皆さん、久しぶりに楽しい時間を過ごせたわ~どうかお元気でね」
田中さんの言葉が、胸に深く響いた。
次はいつ来るのかと聞かれることに、俺たちは身構えていたが、4人は何も言わず、にこやかに見送ってくれた。
遺体をクルーザーの砂浜に運び、予備のゴムボートで少し沖に出てから流す。一緒に流してくれと頼まれた鮮やかな花と千代紙の折り鶴が、海面に浮かんだり沈んだりクルクル回ったりする中、重りの石を入れた遺体は静かに海の底へと沈んでいった。
俺はお茶をいただいていた時の会話を思い出した。
少し温めのお茶を飲みながら、陽菜乃ちゃんが、恐る恐る尋ねた。
「ご家族は……迎えに来なかったんですか?」
田中さんが、ふっと笑った。
「息子家族? 来るわけないわよ」
「田中さん……」
野村さんが止めようとする。
「いいのよ。もう、どうでもいいの。夫と私が苦労して築いた店とお金、全部取り上げて、 ここに捨てたのよ。あの子たち」
田中さんが窓の外、海の方を見る。
「でもね、港に近い所に新しく家を建てたって聞いたから、津波で私より先に死んじゃってるわね、うふふ」
空気が凍りついた。陽菜乃ちゃんが息を呑む。だが、田中さんの笑顔は、すぐに崩れた。
「……ごめんなさいね。嫌な婆さんでしょう。あの子たちを恨んでるのかしら……もう、私にもわからないのよ」
田中さんが、少し疲れたような顔で小さく呟く。
俺は、何も言えなかった。やるせなさ。それを笑顔で隠していたのだろうか。それは災害とは関係のない、これまでの長い人間関係がもたらした恨みや諦めだった。
拠点へと戻る車の中で、窓の外を見たままレオさんが、静かに言う。
「人間は、強いですね」
「強いのか……それとも……わからねぇな」
田村さんが小さな声で呟いた。
◇ ◇ ◇
1か月後、俺たちは再び老人ホームを訪れた。
3階に上がると、高瀬さんが一人で後片付けをしていた。
「皆さん、お疲れ様です」
高瀬さんの表情は穏やかだったが、どこか寂しげでもあった。
「お年寄りの方々は......?」
俺が確認すると、高瀬さんは静かに頷いた。
「この1週間で、3人とも亡くなりました。痛み止めを飲む間隔が短くなり、食事を自分たちの意思で減らすようになって......とても立派に穏やかに逝かれました」
高瀬さんは机の上の包みを俺に差し出した。
「皆さんからのお礼です」
包みを開けると、丁寧に折られた手紙と、美しい千代紙に包まれた玉露が入っていた。
『神崎さん、田村さん、如月さん、橘さん、そして桐島先生へ
あの羊羹、本当に美味しかったです。
毎日、少しずつ、大切に食べました。
私たちは十分、幸せでした。
災害のおかげで、自分の最期を、自分で決めることができました。
最期まで人間らしく過ごせました。
どうか、これからも多くの人を助けてあげてください。
わずかばかりですが、お返しです。
美味しいお茶を飲みながら、私たちのことを思い出してくだされば幸いです。
ありがとうございました。
田中・西山・野村』
陽菜乃ちゃんが手紙を読み上げるうちに、嗚咽をもらした。
俺も目が熱くなるのを、上を向いてこらえる。
「高瀬さん、今後はどうされるんですか?」
俺が確認すると、高瀬さんは首を振った。
「まだ何も考えていませんが……」
その少し虚ろな表情に、危うさを感じた。
「よろしければ、高瀬さんのことを教えていただけませんか? 教師をされていたとか?」
「元々は小学校の教師でした。父がやっていたこの施設を継いだんです」
「実は......まだ、詳しくはお話できませんが、近いうちに子供たちを安全な場所に疎開させる計画があります。できましたら、そのお手伝いをしていただけませんか?」
俺の提案に、高瀬さんの表情が一変した。
「本当ですか?」
「はい。それまでは、私たちが問題ないと判断したコミュニティに一時的に移住していただければと思います」
「ぜひ、お願いします!」
高瀬さんの目に、みるみるうちに力が宿った。
3人の遺体を、一か月前と同じように、だが今回は高瀬さんも一緒に、海に流した。
沈んでいく3つの白い塊を見送りながら、俺は考えていた。
俺は今まで、前世のトラウマから 「とにかく生き延びること」 しか考えていなかった。だが、老人ホームの3人は、避難所に行かず、最期を自分の意思で決めた。彼らは確かに尊厳を持って生き、そして逝った。
生き残ることと、納得して生きることは違うのかもしれない。
老人たちが身をもって教えてくれた、大切な教えだった。
──そして、この一か月で出会った人たちは、尊敬できる人ばかりでは、もちろんなかった。
本当に、誤字・脱字のご指摘、ありがとうございます。
今更ながら「そうだったんだ~」とお勉強させていただいたりなんかして……
何かお返ししたいレベルで大感謝です。これからも、よろしくお願いいたします<(_ _)>




