1-12 津波と青空
津波の表現があります。
苦手な方はご注意ください。
「あれが……津波?」
博士の声が震えている。
「はい。約10分後に麓の町に到達します。第一波は、太平洋から津軽海峡を抜けて日本海へ回り込んできた波で、閃光の──隕石落下の2時間後に、25メートルの大波が街を飲み込みます」
俺は屋上の手すりに手をかけながら説明した。
「さっきのNASAの発表からすると、その後の第二波は、たぶん東シナ海から対馬海峡を抜けて来た波が30メートルの高さで再びやってくるのだと思います」
「あなたは、何故、そんな詳しい未来の情報を……」
博士が、子供たちの肩に手を乗せたまま、青ざめた顔で俺を見る。
研究所の屋上から見下ろすと、さっきまで子供たちがいた平屋の小学校も、町の大部分も、今まさに黒い水に覆われようとしている。
低く、腹の底に響くような「うねり」の音が聞こえた。
遠く、聞こえるはずがない誰かの叫び声が、風に乗って届いた気がした。
そして、それさえも、広がっていく波にゆっくりとかき消されていった。
俺たちの耳に聞こえたのは、津波によって建物が、町が、平和な生活が──世界が壊される音だった。
莉子ちゃんと悠真くんは、手をつないで町を見下ろしていた。
「ねぇママ、おうちは?」
莉子ちゃんが不安そうに博士を見上げる。
「おうちは……」
博士は答えられずにいた。彼女たちの家も、津波に飲み込まれた地域にあるのだろう。
俺は黒い水にゆっくりと覆われていく町並みを見つめながら、胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。
前世で大学のグラウンドから見た光景が、再び目の前で起こっている。あの時、SNSで見た津波も同じように太平洋側で起こったのだろう。あの時は知り合いがいなかったから、映画のティザーみたいだと、太平洋側は怖いねと、他人事のように動画を見ていた。
でも、今は……ホームセンターのフランチャイズ本部の鈴原さん……横浜に住んでいると言っていた芳村現場監督も、一緒に島の工事で汗を流したあの人たちも……海外に派遣した社員たちの実家も、きっと……みんな……
「間に合わなかった」
俺は小さく呟いた。
昨夜、招待状の最終チェックをしていた時、一人一人の顔を思い浮かべながら、「みんなで新しい世界を作ろう」と希望を抱いていた。
あの温かい笑顔の人たちを、俺は救えなかった。
1ヶ月早まった大災害のせいで、救えるはずだった命を失った。
くそっ! なんでだよ。
拳を握りしめた。なぜ1ヶ月も早く起きてしまったのか。あと1ヶ月あれば、みんなを島に呼べたのに。俺は場違いに晴れ渡った青い空を睨みつけるしかなかった。
強い風が吹いて、みんなの髪を乱した。
こらえきれなかった涙が一筋だけこぼれ落ちた。
ダメだ。今は悲しんでいる場合じゃない。
俺は深呼吸をして、無理やり気持ちを切り替えた。
「桐島博士、今から俺が知っていることを話します。そして、提案があります」
博士は、真剣な表情で頷いた。
研究所内では、他の職員たちが慌ただしく動き回っている。厳重な隔離区画にウイルスを移動させているそうだ。桐島博士が、現在、携わっている研究は、危険性がないウイルスばかりらしい。いくつかの機器の様子だけ確認して、すぐに俺たちは博士の個人研究室に移動した。
莉子ちゃんと悠真くんはここに慣れているのか、お菓子を棚から出して、自分たちで椅子に座って食べ始めた。
「莉子ね、チョコレート大好き!」
「僕はアンコがいい!」
子供たちの明るい声に、少し癒される。
「メールに書いたとおりに、大津波が起こりましたよね? これから話すことも、荒唐無稽で信じられないような内容ですが、本当に起こる未来です」
俺は、物質化能力の話、魔物の話、変異ウイルスの話を、簡潔に説明した。博士はたまにメモを取りながら真剣に聞いてくれた。
「1週間後に物質化のアナウンス……ですか?」
「はい。生き残った全員に、不思議な能力、物を作り出せる能力がもらえます。1日1回、1立方メートル分」
「1立方メートル、何もないところから物質が……それは科学的にあり得ないことですが」
「信じられないのはわかりますが、実際に起こるんです」
莉子ちゃんが興味深そうに聞いてくる。
「すごいね! 莉子も作れるの?」
「そうだよ、莉子ちゃん。でも、よーく考えて作るものを決めないと、後でとっても困るんだよ」
「僕はミニカーにしようかなぁ。うーん、でも、苺大福の方がいいかも? 莉子は何にする?」
悠真くんは、のんびりと莉子ちゃんに話しかけている。
俺は博士に向き直る。
「津波と火山噴火から生き残っても、その後の魔物の出現、ウイルス感染で次々と死んでいきます」
博士は、ピクリとしたが、研究者らしく、冷静に質問を続けた。
「その魔物から、何らかの病原体が感染する可能性があるということですね」
「そうです。博士は抗ウイルスの研究をされていると聞きしました。その知識と経験が、人類存続の鍵を握っていると俺は考えています」
俺は立ち上がって、窓の外を見た。かすかに街並みが見える。津波が少し引き始めているようだが、町は変わり果てた姿だった。
「神崎さんは、どうして未来のことをご存じなんですか?」
もっともな質問だった。
「今は答えられません。何を言っても、信じてもらえないと思いますから」
俺は決意を込めて博士を見つめた。
「桐島博士、一緒に来ていただけませんか? もちろん莉子ちゃんと悠真くんも一緒に」
「どちらに向かうのですか?」
「どこよりも安全な場所を用意してあります。避難所で窮屈な思いをするより、快適な生活をお約束します。ウイルス研究の設備も整っています」
「……」
博士は迷っているように、爪で机をコツコツと叩いていた。
窓の外では、津波で破壊された町から煙が上がり始めたようだ。ガスが漏れたのか、あちこちで火災が発生しているようだ。
「もしも俺が言う未来が嘘だったら、笑い話になるだけじゃないですか。お子さんたちの安全を最優先に考えてください。せめて1週間後の物質化のアナウンスまででもいいですから、俺と行動を共にしていただけませんか?」
博士はじっと子供たちを見つめた。莉子ちゃんと悠真くんは、静かにお菓子を食べながら俺たちの会話を聞いている。
「わかりました。一緒に行かせていただきます。どうせ家もなくなってしまいましたし」
博士は、ふっきれたように微笑んだ。決断の早さに、俺の方が拍子抜けしてしまった。だが、のんびりしている時間はない。
「では、今すぐ、研究道具やサーバーのデータ、ウイルス関連の資料などを集めてください。この研究所に、今後、戻ってこられるかはわかりません」
俺は時間を確認した。14時過ぎ。第二波津波が来るのは16時。どちらにしろ、その後しか嶺守島へは渡れないが、早めに移動した方がいい。まだ、この研究所は非常用電源で電気が使えているが、いつ止まるかわからない。
「それから、今後、大手サイトは全て繋がらなくなります。必要な情報や連絡先等があれば、全てノートPCにダウンロードするか、今すぐ印刷してください」
「わかりました。では神崎さん、申し訳ないけど、そこの本棚の上から2列目は全て持ち出したいんです。段ボールに詰めてください。私は他の準備をします」
「あ! 言い忘れるとこだった。実は、もう一人、仲間がいまして、西側の岬で合流する予定なんです。IT・通信技術に長けている奴で、今後の活動に欠かせない仲間です」
「仲間……ですか?」
「非常事態になったら岬で合流することになってるんです」
博士は少し不安そうな表情を見せた。
「信頼できる方なんでしょうか?」
「はい。技術力は確かですし、これまでの打ち合わせでも誠実な対応をしてくれています」
悠真くんが、お菓子を頬張りながら聞いてきた。
「お友達が増えるの?」
「そうだね。これからは、みんなで力を合わせて、頑張らなきゃいけないんだよ」
「わかりました。子供たちに危害を加えない人であれば、問題ありません」
博士は研究室から必要な機材を集め始めた。
ノートPC、外付けハードディスク、研究ノート。そして、重要な試薬サンプル。
「この試薬は絶対に必要ね」
博士が小さな冷蔵庫から試験管を取り出し、クーラーボックスに移し始めた。
「ウイルスの研究資料ですか?」
「はい。まだ基礎研究段階ですが、将来的に新種のウイルスが出現した場合の対策研究に役立つはずです」
とても頼もしい言葉だった。
2時間かかって、段ボール4箱とクーラーボックス2つに荷物をまとめた。しっかりものの莉子ちゃんは、この2時間で宿題を済ませ、マイペースな悠真君はお昼寝をしていた。
途中、15時過ぎに大西洋岸にも隕石の欠片が落ち、アメリカの東海岸、ヨーロッパの沿岸部も巨大津波が襲ったとの情報が入ってきた。ポトマック川を遡上した大津波は、ワシントンD.C.も沈めたらしく、NASAの発表も無くなった。そのニュースを横目に、桐島博士は黙々と作業を進めていた。
最後に桐島博士は、研究所長宛の手紙を書き始めた。
「一応、書置きを残しておきます。私が無事であることと、緊急避難していることを伝えるために」
「他の研究者も一緒に避難した方がいいですか?」
博士はハッキリと首を振った。
「それは無理でしょう。彼らにも家族はいますし、今の話を信じてもらうのは困難です。それに……」
博士は少し言いにくそうに続けた。
「論文の賞を多くとっている私に対して、普段から風当りが強かったんです。これからの生活で、信頼して仲間にできるかというと……」
俺は内心、安心した。成人男性は少ない方がいい。それに、確かにさっきから、誰も博士に声をかけにこない。象牙の塔には、ドロドロとした嫉妬や派閥争いがあるのかもしれない。
「わかりました。さぁ、出発しましょう」
「ママ、莉子たちお出かけするの?」
「僕も行く! 苺大福、買ってね」
子供たちはワクワクしている。緊急時だが、二人を見ていると本当に癒される。
研究所を後にして、山道をくだり西側の岬に向かった。
途中、辛うじて開いている道の駅やコンビニに立ち寄り、できる限りの生野菜や卵、牛乳などをかき集める。予定より大災害が早まったので、生鮮食品の備蓄が全く無いのだ。
買い出しに来ている数人の人たちは、カップ麺や菓子パン、水やお茶のペットボトルを慌ただしく箱買いしていた。俺はレジ横に苺大福を見つけて、1個800円の高級品だったが、迷わず6個とも購入した。備蓄に、苺大福は無いから助かった。
車に乗る前、俺は青空を見上げて、改めて決意を固めた。
博士と子供たちを連れて、SilentKeyと合流する。
この人たちと共に、諦めずに生き抜く。
それが、救えなかった人たちへの俺なりの供養だ。
いつか、みんなのことを、大事な仲間だったみんなのことを、笑いながら話す日を迎えるんだ。