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第3章:記憶を紡ぐ

新堂さんが研究所から持ち込んだ機材が、図書館の一室を埋めていく。レーザー光源、光学素子、センサー類。古い木の床に、現代科学の装置が並ぶ様は何とも不思議だった。


「光弾性効果を計測します」新堂さんが機材を調整しながら説明する。「織物に光を当てた時の応力と、光の振る舞いの関係を見るんです」


私は祖母の手帳を広げ、記述と図案を照らし合わせる。すると、三階の窓からマリアが身を乗り出してきた。


「お姉さん、面白そうなことしてるね」


私は微かに頷いた。新堂さんには見えない存在に応答するのは、まだ慣れない。


「準備できました」新堂さんが声を上げる。「まず、オリジナルの図案通りに織ったサンプルから試してみましょう」


レーザー光が織物を貫く。透過光は、スクリーン上に複雑な干渉パターンを描き出した。


「これは……」新堂さんが眉をひそめる。「通常の織物なら、もっと単純なパターンのはず」


「何か問題が?」


「いいえ、逆です。この複雑さは、意図的に設計されたとしか思えない。織物の構造自体が、光を制御する装置として機能している」


新堂さんがパソコンでデータを確認していると、背後でジョヴァンニの姿が現れた。彼は実験の様子を静かに見つめている。


「でも、不思議なのは」新堂さんが続ける。「この織り方だと、普通は布として成立しないはずなんです。糸の張力や密度が、物理的に無理のある数値なのに」


その時だった。実験室の光が、わずかに揺らめいた。


「あ」マリアが小さく声を上げる。「おじいちゃん、何か始めるみたい」


ジョヴァンニが、ゆっくりと実験装置に近づく。彼の手が、レーザー光源の前を横切った時——。


「!」


新堂さんが驚きの声を上げた。スクリーン上の干渉パターンが、突如として変化したのだ。


「信じられない。まるで、光が……踊っているみたい」


それは確かに、ただの干渉縞ではなかった。パターンは生き物のように蠢き、次第に規則的な形を作り始める。まるで、何かのメッセージを伝えようとしているかのように。


「これ、プログラムできますか?」私は新堂さんに尋ねた。


「ええ、でも相当複雑になりそう。現代のデジタル織機でも、この通りに再現するのは難しいかも」


「昔の織機なら?手織りの」


新堂さんは考え込むように、データを見つめた。


「理論上は可能かもしれません。人間の手の感覚で、糸の張力を微妙に調整していけば。でも、それには並外れた技術が必要でしょうね」


ジョヴァンニが静かに頷いた。「そう、つむぎさんはその技術を持っていた」


もちろん、その言葉は新堂さんには届かない。だが、彼女は何かを感じ取ったように、ふと実験室の空気を見回した。


「琴音さん。この織物、もう一度作れないでしょうか」


「え?」


「現代の技術と、伝統的な手法を組み合わせて。データは取れましたから、あとは——」


新堂さんの言葉が途切れた。開け放った窓から、風が吹き込んでくる。カーテンが揺れ、レーザー光が作る影が、壁の上で不思議な模様を描いた。


その模様は、どこか懐かしい。


「一度、工場を見に行きませんか」と新堂さんが提案した。


レーザー光源のスイッチを切ると、実験室は穏やかな昼の光に包まれた。窓際には、ジョヴァンニとマリアの姿がまだ残っている。


「工場には、古い手織り機が保管されているんです。使えるかどうかはわかりませんが」


時計が正午を打つ。日曜日、図書館は午後から開館だ。私は一瞬考えて頷いた。


「ちょっと待ってください。持っていくものがあります」


祖母の手帳を手に、私は三階の書庫に向かった。古い手織り機の情報なら、この中にもあるはずだ。


「ねえ」マリアが後をついてくる。「おじいちゃんが、地下に行けって」


「地下?」


図書館に地下室があることは知っていた。でも、ただの収蔵庫のはずだ。


「倉庫の、一番奥」マリアが身を乗り出すように言う。「機織りの音が聞こえる場所」


私は立ち止まった。確かに、祖母の機を織る音を、どこかで聞いた気がする。夢の中だと思っていたその音が、地下に——。


「琴音さん?」新堂さんの声が階下から聞こえた。


「はい、すぐ行きます」


私は手帳を手に、急いで階段を下りた。マリアは三階の窓辺に残り、ジョヴァンニの傍らで手を振っている。


工場までは歩いて十分。坂道を下り、川に沿って歩く。工場の赤レンガの壁に、初夏の日差しが反射していた。


正門脇の小さな扉を開けると、懐かしい匂いが漂ってきた。繊維と油の香り、木材の温もり。祖母の家を思い出させる空気だった。


「こちらです」


新堂さんに導かれ、工場の一角に足を踏み入れる。そこには、何台もの古い織機が並んでいた。ホコリを被り、時を止めたように佇む織機たち。でも、どれも丁寧にメンテナンスされている様子が窺えた。


「これが、一番古いものです」


新堂さんが案内したのは、一際古びた手織り機だった。フレームは木製で、所々に真鍮の金具が光る。側面には、何かの刻印が。


私は息を呑んだ。


《G・M 1924》


ジョヴァンニ・モンターニャのイニシャルと、あの図案と同じ年号。


「これは——」


その時、工場の奥から、かすかな音が聞こえた。


カタン、コトン。


懐かしい機織りの響き。


私は思わず、その方向を見た。新堂さんも、同じ方を向いている。


「あれ?誰か作業してるんでしょうか。日曜日なのに」


音は確かに聞こえている。でも、工場の奥は薄暗く、人の気配はない。


まるで、誰かの記憶の中で、機が織られているような——。


「琴音さん?」


私は早足で音の方へ向かっていた。気がつけば走っていた。工場の通路を抜け、備品置き場の向こう。音は、あの場所から。


そこには、もう一台の織機があった。


工場の奥で見つけた織機は、他のものとは明らかに違っていた。


フレームは黒檀のように艶のある木材で作られ、糸を通す櫛は真鍮の輝きを失っていない。織り途中の反物が、静かに光を帯びている。


「これは……」新堂さんが声を潜める。「設計が現代的です。でも、このフォルムは間違いなく大正時代のもの」


私は織機に近づいた。反物に触れようとして、指が止まる。この布の模様は、間違いなくあの図案と同じものだ。それも、織りかけのままで。


「誰が、これを?」


工場長の岸本さんに電話で確認したが、この織機の存在は知らないという。長年この工場で働いている職人さんたちも、見たことがないはずだと。


「でも、どうやってここに?」新堂さんが首をひねる。「しかも、織りかけの状態で」


私は祖母の手帳を開いた。ページを繰っていくと、この織機とよく似たスケッチが見つかる。《光織機・改造図》という書き込みがあった。


「これ、光を計測する装置が組み込まれてる」新堂さんがスケッチを覗き込んで言う。「当時の技術では考えられないような精度で」


カタン、コトン。


また、あの音が聞こえた。


今度ははっきりと、この織機から。でも、綜絖そうこうは動いていない。音だけが、どこからか響いてくる。


「聞こえましたか?」新堂さんが周りを見回す。


「ええ」


「まるで、誰かが織っているみたいです。でも——」


その時、私は気付いた。音は織機から聞こえているのではない。床下から、響いてきているのだ。


「新堂さん、この下に何かあります?」


「えっと」彼女は工場の図面を取り出した。「地下通路です。かつて図書館と工場をつないでいた地下道の跡が」


マリアの言葉が蘇る。『地下の、一番奥。機織りの音が聞こえる場所』


私は思わず、新堂さんの腕を掴んでいた。


「図書館に戻りましょう。確認したいものがあります」


「え?でも、この織機は?」


「地下からのアプローチが必要かもしれない」


工場を後にする時、私は一瞬立ち止まって振り返った。織機に残された反物が、夏の日差しを受けて、かすかに波打っているように見えた。


それは、まるで誰かが、私たちの後を追うように——。


図書館に戻ると、午後の開館時間が始まっていた。


「地下の鍵を借りてきます」


私は司書室に向かい、古い鍵の掛かった木箱を取り出した。札に「地下収蔵庫」と記されている。箱を開けると、真鍮製の大きな鍵が二本。


「琴音さん」新堂さんが小声で言う。「この地下通路、図面上では工場まで続いているはずなんです。でも、途中で崩落があったとか」


「はい。戦時中の空襲で、一部が壊れたって聞いています」


地下への扉は、図書館の裏手にある。普段は使わない倉庫の中を通り抜け、石造りの階段を下りていく。


懐中電灯の光が、湿った空気の中で揺れる。


「気をつけてください」私は新堂さんに声をかける。「床が所々、歪んでいます」


地下室は予想以上に広かった。古い書架が並び、木箱が積み上げられている。空気は澱んでいるが、カビ臭くはない。除湿機が効いているようだ。


「あの奥です」新堂さんが工場の図面を照らしながら指さす。「工場への通路につながる場所が」


通路の突き当たりに、煉瓦積みの壁がある。その手前で、新堂さんが足を止めた。


「ここからです。図面上の工場地下との接続点は」


私は壁に懐中電灯を向けた。煉瓦の隙間から、かすかな光が漏れている。


カタン、コトン。


「今度ははっきり聞こえます」新堂さんが耳を澄ます。「機織りの音、間違いない」


私はゆっくりと壁に手を当てた。煉瓦は冷たく、そして——わずかに振動している。


「この壁、後から造られたものです」新堂さんが図面を確認する。「元々は、アーチ型の通路だったはず」


その時、背後で気配を感じた。振り向くと、マリアが立っていた。


「見つけたね、お姉さん」彼女は嬉しそうに言う。「おばあちゃんの、大切な場所」


「おばあちゃんの?」


私は思わず声に出していた。新堂さんが不思議そうな顔をする。


「琴音さん?何か?」


説明する暇はなかった。マリアが壁の一点を指さしている。


煉瓦の一つが、他とは違う色をしていた。


異なる色の煉瓦に触れると、驚くほど簡単に抜け落ちた。


中は空洞になっていて、古い金属の筒が収められていた。表面には、うっすらと錆が浮いている。


「筒の中に何か入ってます」新堂さんが覗き込む。「取り出してみましょうか」


蓋を開けると、巻物のような布が出てきた。そっと広げていくと、それは一枚の織物だった。月明かりのような青白い色調で、幾何学模様が精緻に織り込まれている。


「これ、光ってる?」新堂さんが息を呑む。


確かに、織物は自分自身で淡い光を放っているように見えた。懐中電灯の光を消しても、その輝きは消えない。


カタン、コトン。


機織りの音が、さらに大きくなった。


「この壁、動きそうです」新堂さんが煉瓦を調べている。「この列全体が、後から嵌められたもの。つまり——」


私たちは黙って見つめ合い、頷いた。二人で煉瓦に手をかける。


すると、壁の一部がゆっくりと、まるで扉のように内側に開いていった。


向こう側は、予想以上に広い空間だった。


天井近くの通気口から差し込む光が、不思議な風景を照らし出している。部屋の中央には、先ほど工場で見たものと同じ織機が置かれていた。周囲の壁には、鏡のようなガラス板が何枚も設置されている。


そして、織機の前には誰かが座っていた。


「あ」私の隣でマリアが声を上げる。「おばあちゃんだ」


それは確かに、私の知っている祖母の姿だった。若かりし日の中原つむぎが、静かに機を織っている。その手元では、光の糸とも見える何かが、布へと紡がれていく。


新堂さんにも見えているのだろうか。彼女は息を詰めたように、その光景を見つめていた。


「これが、光を織るということ」新堂さんが囁くように言った。


祖母の姿は次第に薄れていったが、織機の上の布だけは、かすかな輝きを放ち続けていた。


部屋の隅に、ジョヴァンニが立っているのが見えた。彼は静かに頷き、何かを指さす。


古い実験ノートと、革表紙の手帳が、整然と並べられた棚。その横には、見覚えのある図案が貼られている。


「これは単なる地下室じゃない」新堂さんが言う。「研究施設だわ。光の性質を、織物で実験していた場所」


私は祖母の手帳を開いた。その日付のページには、こう記されていた。


『光は時を運ぶ。織物は、その通り道となる』


新堂さんは実験ノートを手に取り、ページを繰っていく。


「驚きです。これは間違いなく、現代の量子光学に通じる実験記録」彼女の声が興奮を帯びている。「しかも、織物の構造を使って光を制御する、まったく新しいアプローチ」


私も祖母の手帳に見入っていた。日本語とイタリア語が交互に現れるページの間に、見慣れない記号の羅列がある。


「これ」新堂さんが覗き込む。「ブラッグ反射の式ですね。結晶構造による光の回折を表す基本的な」


そこで彼女は息を呑んだ。


「まさか。織物の構造を、光の回折格子として使おうとしたのかも」


「回折格子?」


「光を特定の方向に曲げる装置です。普通は精密な溝を刻んだガラスやプラスチックを使うんですが」新堂さんは織機の方を見やる。「彼らは織物で同じことを試みた」


ジョヴァンニが静かに近づいてきた。彼は新堂さんの肩越しに、実験ノートを覗き込んでいる。


「でも、なぜ」私は尋ねた。「どうして織物で?」


「それがね」新堂さんがノートのページを示す。「織物には重要な利点があるんです。構造を自在に変えられる。しかも」


彼女は織機の前に立ち、手を伸ばした。


「生きている、とでも言うべきでしょうか。この織機、見てください」


糸を通す櫛が、かすかに振動している。まるで、呼吸をしているかのように。


「祖母は言っていました」私は思い出しながら言う。「機は織り手の想いを織り込むって」


「そう」マリアが小声で言った。「だから、おばあちゃんは、時を織ることができたの」


私は思わず振り返った。マリアの向こうに、祖母の姿が見えた気がした。若かりし日の祖母が、穏やかな表情で微笑んでいる。


新堂さんは織機の構造を調べ始めていた。


「ここに光センサーが組み込まれてる。当時としては、信じられないほど精巧な」彼女が機械の裏側を指さす。「そして、これは——」


その時、部屋の空気が変化した。


壁に設置された鏡のような板の一枚が、突如、淡い光を放ち始めたのだ。


鏡のような板から放たれる光は、ゆっくりと強さを増していった。


「これは、特殊なガラス」新堂さんが板に近づきながら言う。「光の反射と透過を制御できる、特殊なコーティングが施されている」


光は次第に形を変え、まるでスクリーンのように、何かを映し出し始めた。


最初はぼんやりとした影だったものが、徐々に鮮明になっていく。そこに映し出されたのは、この同じ地下室。でも、様子が違っていた。


実験台の上には新しい測定機器が並び、壁には図面が貼られている。若かりし日の祖母が織機に向かい、その横でジョヴァンニが何かを書き留めている。


「これは……記録映像?」新堂さんが困惑したように言う。


「違います」私は直感的に答えていた。「これは、今、起きていること」


祖母が織る布から、かすかな光が放たれている。その光が部屋中の鏡に反射し、複雑な光の経路を作り出していく。


「そうか」新堂さんが息を呑む。「織物が作る光の干渉パターンを、これらの鏡で増幅して」


「時を織る」私は祖母の言葉を思い出す。「光は時を運ぶ」


新堂さんは実験ノートを開き直した。


「ここに書いてある。光の干渉パターンを特定の形に制御すれば、時空の歪みを作り出せる、と」


「でも、それは理論上の話では?」


「いいえ」新堂さんが首を振る。「彼らはやり遂げた。この織機と鏡のシステムで、実際に時空を操作することに成功した」


鏡に映る光景は、さらに変化していく。


祖母の織る布が完成に近づくにつれ、部屋全体が不思議な輝きに包まれていった。まるで空間そのものが、光を織り込んだ布地のように波打っている。


「これが」新堂さんの声が震えている。「量子もつれの大規模な制御。現代の最先端技術でも、まだ実現できていない」


その時、鏡の中の祖母が顔を上げた。彼女は真っ直ぐに、この方を見ている。いや、私たちの時代を見通すように。


「つむぎさん」新堂さんが思わず声をかけた。「あなたは、この瞬間を予見していた?」


祖母はゆっくりと微笑んだ。その表情は、幼い頃の私の記憶そのものだった。


「おばあちゃんが言ってるよ」マリアの声が響く。「『光は、記憶を運ぶ』って」


鏡に映る祖母の口が、確かに動いていた。声は聞こえないのに、その言葉が私の心に直接届く。


新堂さんは実験ノートに見入っている。「これは単なる時空の操作実験じゃない。彼らは——」


「記憶を織り込もうとしたんです」私は祖母の手帳を開きながら言った。「光の中に、人の記憶を」


手帳の最後のページには、詳細な織りの図案が描かれていた。それは先ほどの図案とよく似ているが、より複雑で繊細な模様だ。


「これが最後の実験」新堂さんがノートを読み上げる。「織物の構造に量子状態を保存する。つまり、人の意識や記憶を、光の干渉パターンとして織り込む」


鏡の中の光景が変化する。祖母の織る布が完成に近づくにつれ、部屋の空気が揺らめき始めた。まるで水面のさざ波のように、時空そのものが波打っている。


「だから」私は理解し始めていた。「だから死者が見えるの」


「どういうことです?」新堂さんが振り向く。


「この街で死者が見えるのは、この実験の結果なんです。祖母たちは、記憶を光の中に保存することに成功した。そして——」


「その記憶が、街中の織物に染み込んでいる」新堂さんが言葉を継ぐ。「まるで、巨大な記憶装置のように」


ジョヴァンニが静かに頷いた。彼の姿が、より鮮明になっている。


「でも、なぜ?」私は尋ねた。「どうして、こんな実験を?」


鏡の中の祖母が、織機から立ち上がった。彼女は何かを言おうとしている。その時、マリアが駆け寄ってきた。


「お姉さん、見て!」


織機の上の布が、かすかに光を放ち始めていた。


織機の上の布から放たれる光は、淡い真珠色をしていた。


それは祖母が織った布と同じ模様。でも、完成していない。織りかけの部分が、まるで私たちを待っていたかのように開かれている。


「この織物」新堂さんが近づきながら言う。「さっき工場で見たものと同じ構造です。でも、こちらの方がより——」


「生きている」


私の言葉に、新堂さんは静かに頷いた。


鏡に映る過去の光景で、祖母が何かを語りかけている。その口の動きを必死で追う。すると、マリアが通訳するように言った。


「『記憶は、人と人をつなぐ』」


「『だから、私たちは織物に記憶を託した』」今度はジョヴァンニの声。「『この街の、すべての人々の記憶を』」


新堂さんは実験ノートを、私は祖母の手帳を開く。二つの記録を重ね合わせると、彼らの真の目的が見えてきた。


「戦争が近づいていた」私は手帳を読み上げる。「この街の記憶が、失われることを恐れて」


「そして」新堂さんがノートのページを繰る。「技術を守るためでもあった。織物の技術、人々の記憶、そして——」


「人と人とのつながり」


祖母の口が、そう結んでいるのが分かった。


この実験は、記憶を永遠に残すための挑戦だった。織物に織り込まれた光は、この街で生きた人々の記憶を保持し続ける。そして時として、死者として私たちの前に現れる。


「だから祖母は」私は理解していた。「だから、最後まで織り続けた」


手帳の最後のページをめくると、細かな文字で書き込みがあった。


『織物は、光を運ぶ。光は、記憶を運ぶ。そして記憶は、魂を結ぶ。私たちは、この技術を未来に託す』


その時、織機が小さく震えた。


織機の振動が大きくなり、光が脈打つように明滅し始めた。


「織機が、稼働しようとしています」新堂さんが驚きの声を上げる。「でも、どうして」


私は織機に近づいた。綜絖が上下し始め、機を織る音が響く。でも、誰も織っていない。まるで織機自体が、意思を持っているかのように。


「織りかけの部分」新堂さんが指さす。「模様が、自動的に紡がれていく」


光の干渉パターンが空中に浮かび上がり、それが織物の模様となって布に定着していく。物理的には不可能なはずの現象が、確かに私たちの目の前で起きていた。


「お姉さん」マリアが私の袖を引く。「おばあちゃんが、『続きを織って』って」


鏡に映る祖母が、織機の前に座るように手招きしている。


「でも、私には——」


その時、ジョヴァンニが近づいてきた。彼は実験ノートの一節を指さす。


新堂さんが読み上げる。「『織物は記憶を紡ぐ。しかし、それを完成させるのは、生きている者たちの手によってのみ可能となる』」


「琴音さん」新堂さんが私を見る。「あなたなら、できるはずです」


私は迷いながら、織機の前に座った。祖母が幾度となく座った場所。懐かしい木の感触が、手のひらに伝わってくる。


「でも、私は織り方を」


「大丈夫」今度は祖母の声が、直接心に響いた。「あなたの中に、織る記憶はある」


確かに。幼い頃、祖母の膝の上で織機を動かした記憶。その感触が、体の中で蘇ってくる。


私が綜絖に触れた瞬間、織機全体が柔らかな光に包まれた。


「まるで」新堂さんが囁く。「量子状態が同期するように」


そう。この織機は、過去と現在をつなぐ装置なのだ。祖母たちの記憶と、現代の技術が、一つに融合する場所。


私は静かに、織り始めた。


織機を動かす度に、光の波が広がっていく。


それは通常の機織りとは明らかに違った。私の手の動きに合わせて、光そのものが糸となって織り込まれていくような感覚。綜絖が上下するたびに、記憶の断片が布地に定着していく。


「驚くべき現象です」新堂さんが測定器を確認している。「量子もつれの連鎖反応が、織物の構造に沿って拡大していく」


でも、私にはそんな専門的なことは分からない。ただ、確かに感じるのは、織物の中に込められた想い。


布に触れる度に、様々な記憶の断片が浮かび上がる。


工場で働く人々の姿。

市場でにぎわう街の風景。

祭りの太鼓の音。

そして、この図書館で本を読む人々の穏やかな時間。


それらすべてが、光となって織り込まれていく。


「紡いでいるのは、記憶の地図」ジョヴァンニの声が響く。「この街に生きた人々の記憶が、光の干渉パターンとして保存される」


鏡に映る祖母の姿が、だんだりと鮮明になってくる。彼女は私の手の動きを見つめながら、静かに頷いている。


「おばあちゃんの想いが」マリアが織機の傍らで言う。「お姉さんの手を通して、完成するの」


その時、不思議なことが起きた。


私の織る布から放たれる光が、部屋中の鏡に反射し始めたのだ。それは幾何学的な模様を描きながら、次第に大きな渦を形成していく。


「これは」新堂さんが息を呑む。「時空の歪みが」


光の渦は部屋全体に広がり、過去と現在の境界が溶けていくような感覚。


鏡に映る祖母の姿が、実体を持ち始める。ジョヴァンニとマリアの姿も、より鮮明になっていく。彼らは、確かにここにいる。


そして私は理解した。


死者が見えるのは、決して幻でも超常現象でもない。光の干渉パターンとして織物に保存された記憶が、現実の時空に投影されているのだ。


科学と魂が、一つになる瞬間。


織物が完成に近づくにつれ、部屋の空気が変化していった。


光の渦は天井まで広がり、まるでオーロラのような輝きを放っている。その中で、過去の光景が次々と浮かび上がる。


街の古い風景。

市場でにぎわう人々。

工場で働く職人たち。

図書館で本を読む子供たち。


それは単なる映像ではない。その時を生きた人々の想いや感情までもが、光となって空間に満ちていく。


「記録装置が振り切れそうです」新堂さんが驚きの声を上げる。「これほど大規模な量子もつれは、理論上でしか」


私の手元で、最後の一節が織り上がろうとしていた。


その時、祖母が私の傍らに立っていた。幻想でも幻でもない。光学的な投影でありながら、確かな存在感を持って。


「ことね」祖母の声が、直接心に響く。「織物は、時を超える」


私は黙って頷いた。織機を動かす手が、自然と正しい動きを見出していく。それは遺伝子に組み込まれた記憶のように、体が覚えていた動作。


最後の一撃。


機を織る音が響き、光のパターンが織物全体に広がった。


完成した織物は、静かな輝きを放っている。そこには、この街の記憶が、光となって織り込まれていた。


「これが」新堂さんが近づいてくる。「量子記憶装置としての織物」


「いいえ」私は答えた。「これは、魂の記録」


祖母が微笑む。彼女の姿は、若かりし日の姿から、私の知る晩年の姿へとゆっくりと変化していく。


「記憶は、永遠に残る」ジョヴァンニが言う。「この織物が存在する限り」


「でも」私は尋ねた。「なぜ、私にだけ見えるんです?」


「見えるのは、あなただけじゃない」祖母が答える。「この街の織物に触れる人は、誰もが少しずつ気付いている。記憶の存在に」


確かに。この街の人々は、どこか特別な雰囲気を感じ取っているように見える。古い建物に残る記憶や、街角で感じる不思議な既視感。


それは織物に織り込まれた光が、街全体に染み渡っているから。


「さあ」祖母が織機を指さす。「これで、私たちの実験は完成した」


光の渦が徐々に収束していく。でも、織物の放つ光は消えない。


それは、永遠に記憶を紡ぎ続ける。

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