第1章:継承された暗号
図書館の古い時計が、午後八時を打った。
夜間開館の終了時刻まで、あと一時間。私は図案を館内用の中性紙の封筒に入れ、カウンターの引き出しにしまった。明日、改めて詳しく調べることにしよう。
書架の間を巡回していると、三階への螺旋階段の踊り場で、さっきの少女と再会した。月明かりに照らされた横顔は、まるで古い肖像画のように美しい。
「あのね、お姉さん。おじいちゃんに会いたいの」
少女は階段の手すりに腰掛けながら、ふらふらと足を揺らしている。生きている人間なら危ないのに、と思ってしまう仕草だ。彼女の足は、真鍮の手すりをすり抜けている。
「おじいちゃんって、その図案を描いた人?」
「うん。ジョヴァンニ・モンターニャ。この図書館を建てた人のひとり」
私は思わず息を呑んだ。図書館の設立に関わった技術者の名前を、祖母から聞いたことがある。
「工女さんたちに、新しい織り方を教えてくれた人……」
「知ってるの?」少女が嬉しそうに身を乗り出してきた。「私の名前はマリア。おじいちゃんの孫なの」
マリアは立ち上がり、階段を駆け上がっていく。その姿は、階段に描かれた月明かりの帯のように揺らめいていた。
「おいで。おじいちゃんがよく本を読んでた場所、知ってるの」
私は躊躇なく、マリアの後を追った。
三階は郷土資料室になっている。明治時代からの地域の記録や、織物産業に関する資料が保管されている場所だ。昼間は研究者が訪れることもあるが、この時間帯は普段、誰もいない。
「ここ」
マリアが指さした場所は、三階の窓際の小さな書斎だった。円形の窓からは、街の明かりが見える。かつて織物工場だった建物のいくつかは、今でもその姿を残している。
窓辺の古い木製の机に、一人の男性が腰掛けていた。さっきの老紳士とは違う人物だ。中年のイタリア人という風貌で、深い思索に耽っているように見える。机の上には古い手帳が広げられ、その傍らにはジャカード織機のパンチカードが積み重ねられていた。
マリアが駆け寄る。「おじいちゃん!」
男性――ジョヴァンニ・モンターニャは、ゆっくりと顔を上げた。端正な顔立ちに優しい微笑みを浮かべている。まるで古いセピア色の写真が動き出したかのようだ。
「マリア、見つけてきてくれたのかい?」
「うん。この人が持ってるの」
ジョヴァンニは私に視線を向けた。瞳の奥に、どこか懐かしさのようなものが揺らめいている。
「君は……中原つむぎの孫ではないかな?」
今度は私が驚いて目を見開いた。祖母の名前を、この人が知っているなんて。
「はい。中原つむぎは私の祖母です。でも……どうして」
「目の色だよ」ジョヴァンニは静かに答えた。「琥珀色の瞳。つむぎさんと、そっくりだ」
祖母は私が幼い頃に亡くなった。記憶にあるのは、機織りの音と、優しく温かな手のぬくもりだけ。写真で見る祖母は、確かに私と同じ琥珀色の瞳をしていた。
「図案を見せてもらえるかな?」
私は封筒から図案を取り出した。ジョヴァンニの手元に差し出すと、月明かりがまた不思議な模様を描き出す。今度は、まるで光の糸が空中で織りなすように、複雑な幾何学模様が浮かび上がった。
「やはり、まだ生きていたんだ」ジョヴァンニが囁くように言った。「光を織り込む技術が」
「光を織り込む技術」
その言葉を繰り返しながら、ジョヴァンニは手帳のページを繰った。古びた紙の上には、幾何学的な図形が幾重にも重なって描かれている。それは私が持っている図案と、どこか似ている。
「見てごらん」
彼は手帳を私に差し出した。図形の間に、細かな数式が書き込まれていた。イタリア語と日本語が入り混じっている。
「これは、糸の配置を数式で表したものだ。普通のジャカード織りとは違う。光の屈折率を計算に入れて、織り方を決めていく」
「光の……屈折率、ですか?」
「そう。布を織るということは、実は光を制御することでもあるんだ。糸と糸の間隔、織り方の密度、そして何より大切なのは、糸が光を受け止める角度」
マリアが私の肩越しに手帳を覗き込む。「難しいお話、始まっちゃった」と小さく呟いた。
「この技術は、君のお祖母さんと一緒に研究していたものなんだ」ジョヴァンニは懐かしそうに微笑んだ。「つむぎさんは、伝統的な織物の技法に、驚くほど深い理解を持っていた。特に多重織の技術は、彼女の右に出る者はいなかった」
祖母の機織りの姿が、かすかに蘇る。幼い私は、機を織る音を子守唄代わりに眠りについた。あの音の中に、光を制御する秘密が隠されていたのだろうか。
「でも、なぜ光を織り込もうと?」
「それはね」ジョヴァンニが答えようとした時、図書館の古時計が九時を打った。閉館の時刻だ。
「あ」マリアが残念そうな声を上げる。「もう終わりの時間」
ジョヴァンニは静かに立ち上がった。その姿が月明かりに溶けていく。
「また来てくれるかい?話の続きがある。そして——」彼は消えかかった手で机の上のパンチカードを指さした。「これも、持っていってほしい」
私はパンチカードの束を手に取った。ずっしりとした重みがある。図案とともに、これも謎を解く鍵になるのかもしれない。
「明日、また」マリアが手を振る。「わたし、ここで待ってる」
部屋の明かりを消し、螺旋階段を下りながら、私は持っているものを確認した。古い図案、パンチカードの束、そして新しい謎。祖母が遺した何かが、この図書館で眠っている。
外は月が昇り切っていた。図書館のステンドグラスに月明かりが差し、床に色とりどりの影を落としている。私はその影絵の上を歩きながら、静かに考えていた。
光を織るということ。
それは単なる技術なのか、それとも——。
カウンターに戻り、かばんに荷物を詰めながら、私は決意していた。これは図書館司書としての仕事を超えている。でも、祖母の遺したものだ。その謎を、この手で解き明かしたい。
私は最後にもう一度、図案を広げてみた。月明かりに照らされた幾何学模様が、まるで私に何かを語りかけるように、かすかに光を放っていた。