五の巻
さて、わたしの言葉がそれなりに話せるようになったころ、わたしはちょっとしたおつかいに出されるようになりました。他にすることもなく、ぼーっと過ごすよりはということで、わたしにも断る理由はありません。お使いの内容は、ほとんどはお薬のお届けです。
そろそろ地理的なところをしっかり説明すべきでしょう。
わたしたちが住んでいるのはピゴナ島というオランダ領の小さな島です。スマトラ島や安南、バタヴィアなどの香辛料貿易の中継地点として栄えていて、そのピゴナ島で最も大きな都市が南部にあるこの、ジュベレです。オランダ語で宝石という意味があるそうです。それだけの価値のある港ということで、オランダ人のほかにイングランド人、明国人、日本人、そして、マレー人とマラッカ人、その他さまざまな国の人が宝石の誘惑に負けて、島に住んでいます。たいていの場合、同国人同士で住処を固めて、他の国の人には油断なく、商売はするけど、信用はしないぞ、といった感じに毎日を過ごしているようです。
明国人街はカンウと呼ばれていました。三国志の関羽です。商売繁盛を願っての名づけでしょう。カンウはジュベレ市内の東端にあり、湾に食い込むトーン岬のふもとにあります。縁の反った屋根と竹の家が斜面でごろごろしていて、高い位置にある家ほどお金持ちです。青灰色の岩棚が雲に撫でられるあたり、――つまり、一番高い位置のお金持ちはわざわざ平らに整地した丘の上に青銅の屋敷を建てていて、収入中程度の家はとりあえず囲いがある瓦葺き。低い位置は砂地に藁と竹の家をつくり、最悪はもはや海の上に丸木舟を浮かべてそこに住んでいます。
孫楽先生は中程度の高さに家を持てるほどの医師なのですが、ひっくり返したお椀のなかに石がいくつ入っているのかをあてるのに診療代を使い果たしていたので海の上に住んでいます。ただ、丸木舟ではなく、もうちょっとマシな家船に住んでいて、艫の台所を除いても、研究用、寝室とふたつの部屋があって、それにきちんと祖先の位牌も置いてあるので、家船のなかでは貴族だというのがご本人の談です。
斜面に作られた市街なので雛壇状の通りがいくつか上っています。その一番広くて栄えた通りは唐言葉の飛び交う市場のようです。値切る、怒る、売る、けなす。店の表をひたすら真っ赤な蕪で埋め尽くした八百屋があって、梅入り水を売る人がカチカチ鳴らす二枚の銅の札のせわしないのがあって、幅広の刀や細い剣をまるで罰でも受けてさせているみたいに軒に吊るした鍛冶屋があって、南蛮人たちの複雑怪奇な為替制度に立ち向かう勇気ある両替商の素早い手信号があります。買うほうは小さなキズをあげつらう強気派、いま財布のなかには銅貨が四枚しかないという逆粉飾派、口に米粒つけたままもう三日間もメシを食べていないというお粗末な同情派と分類のし甲斐のある人びとです。
幸いなことに日ノ本にいたころ、じいやから漢詩の勉強を終わらせてからでないと薙刀の稽古はさせないと脅迫されていたので、明国人たちの話していることはなんとか分かりました。ただ、ここの人たちは早口で独特な言い回しをするので半分も分かりません。先生の顧客はそんな雛壇通りを横に曲がった、狭くて暗くて住人のわたしを見る目がうさんくさい小道の先に住んでいるそうです。
ああ、それとわたしの見た目ですが、それはもう麗しの美少女ですよ。左目と髪以外は。いえ、左目はどうしようもなく、黒い簡単な眼帯をしていましたが、髪を尼削ぎにされたのは納得がいかないというか。冬次郎さまを落とす武器がひとつ減ってしまったというか。ただ、このあたりは治安が悪く、かもじ屋に売る目的で女性の長い髪を無理やり切っていく悪い人がいるそうです。それにこれからのわたしの生活を考えると髪が短いほうがいい、先生はそうおっしゃるわけです。これからのわたしの生活? いったい何のことでしょう? 小道は真ん中の溝から排水を流していて、これがひどいにおいをさせます。竹壁のボロ家と椰子の葉を葺いた長屋が続いていて、どこを歩いても干し肉を売るガラガラ声が常にまとわりつき、おのれ、姿を見せろと思っても、見つからない。そんな町です。目当ての豚肉屋につきました。明の人は豚肉が大好きです。わたしはいまだ慣れませんが、彼らにとって、なにかの宴をするときに熱い油を何度もかけて表面をカリッと焼いたあばら肉を何枚出せるかで、世間での地位が決まるというのだから、それはもう相当な熱意を豚肉に注ぎます。
豚肉屋には使用人らしい男の人が皮つきの豚の脚に熱湯をかけて毛を抜いています。店のなかには前足やあばら肉が鉤で吊るされていて、大きな白鑞の皿に豚の頭が打ち首みたいに置いてありました。
「もし。薬をお持ちしました」
使用人は手を止めず、頭を後ろにふって、そばの暗い蓆をかけただけの出入り口を指しました。そこからはさっきから「アギャギャア!」とか「ビビビビーッ!」とか変な叫びが上がっていて、皿に盛られた豚脂がプルプル震えています。豚を屠っているのかなとも思っていたのですが、わたしが近づき、
「あの、お薬――」
全部言い終わる前にサッと蓆のあいだから震える蒼白い手が出てきて、わたしは粉薬をその手に置きます。置いたというより、つかみ取られた感じです。さっきの大騒ぎが嘘のように静かになりました。しばらくのあいだ、わたしは待っていました。お代をもらわないといけないのです。
「あの、お代――」
全部言い終わる前にサッと蓆のあいだから血色がよくて震えていない、でも、さっきと同じ手が出てきて、その手のひらには銀貨が乗っていました。孫楽先生からは両面にライオンが打たれた銀貨をもらってくるように言われていたので、これでよいのでしょう。
「失礼します」
豚肉屋を出ましたが、どうもあの叫び声は豚ではなく人間の気がします。あれだけ叫ぶほどの痛みを先生の薬が鎮めたのだと思うと、先生はやはりファンタンをやめるべきですね。もっといいところに住むべきです。わたしも居候していることですし。