四の巻
「名前は?」
来ました。このときが。これこそ運命のときです。わたしの名前を初めて冬次郎さまがお知りになった記念すべき出来事であると同時に、かつて冬次郎さまの雪津家をわたしの天津家が滅ぼしたことが発覚し、復讐と愛のあいだで葛藤が始まる、ああ、かわいそうだけど、きっと幸せになれるという恋の物語が始まったのです。
「す、すみ、ひめ」
まだ、わたしはものをしゃべるための口が戻っていませんでした。
「すみひめ? 漢字で何と書く?」
……死者に、それも自分の親に文句を言うのは全く持って言語道断であり、恥知らず恩知らずとは分かっていますが、名前については発案者の父上とそれを止めずにむしろ推進した母上を恨みます。
わたしの名前は天津炭姫。すみは焼いたあの真っ黒い炭の字です。
「炭? あの、焼いたりする、あの炭か?」
はい、そうです。まったくもって言語道断です。結局、父上も母上もなくなったので、きくことはできませんが、いったいどう血迷ったら、わたしみたいな白い肌の美少女を炭呼ばわりできるのやら。まさか、生まれたときのわたしは真っ黒な炭みたいな色をしていたのでしょうか? 真相は不明です。
「名字は? あんたは〈ダイミョー〉だときいた」
そして、天津とこたえたときの、ああ、冬次郎さまの複雑な胸中を思うと、胸がいっぱいになります。なにで?と言われたら、まあ、とにかくいっぱいなのです。自分の家を滅ぼした仇のわたしがここにいる。冬次郎さまがその気になれば、わたしを斬り捨てて、死体を海に落とし、孫楽先生には「わたしはカモメ!」と叫びながら、スマトラ島のあるほうへ飛んでいったと説明することができたはずです。でも、できないのです。冬次郎さまはたとえ仇の子でも、弱っている女子に害を与えようなんてことはできない、清らかな方なのです。ああ、冬次郎さま。
ああ、それとわたしはこのとき冬次郎さまが雪津家の跡取りだったことは知りません。この後、しばらく冬次郎さまはわたしにつっけんどんな(もう、正直じゃないんだから!)態度をおとりになります。だから、わたしは嫌われたのかなと思っていました。冬次郎さまの名字が雪津であることはもっと後で知ることになります。
「あ、あり、がとう」
「ああ」
冬次郎さまはちょっとそっけない返事をして、船から出かけられました。孫楽先生がお戻りになったのは西に日が傾いてきたあたり、竹筒の薬草水を使い切ったところで、先生は、
「いやあ、負けた、負けた」
と、負けたことが好ましいかのように笑っていました。まあ、隠してもしょうがないので言ってしまいますが、先生は博打を大変好まれます。このとき、先生がハマっていたのはファンタンと呼ばれるもので、簡単に言うと、伏せたお椀のなかに小石がいくつあるかを当てるゲームです。孫楽先生は化石をすり潰したものを薬に加えるという大胆な処方でたくさんの顧客を獲得した腕のいい医師ですが、稼いだそばから賭けて負けてしまいます。もし、賭博にハマらず、しっかり貯めていれば、明国人街の坂のほう、中の下くらいの町に住めたはずです。
「ほう! 冬次郎が? ごはんを? ほう!」
孫楽先生はわたしと冬次郎さまの家が仇同士であることは知っています。なぜ、先生がわたしを買い取ってくださったのか、いまだに謎です。ずっと後になってたずねても、
「お買い得だったんじゃよ」
と、言いました。これは嘘です。そんなお金があれば、お椀に何個か賭けてしまいたいのが孫楽先生なのです。
まあ、これについてはいいほうに考えることにしました。つまり、冬次郎さまはそっけない。そんな冬次郎さまにかつての仇の娘であるわたしをあてて、冬次郎さまのなかに隠れている人間としての暖かさとか成熟とかを引き出そうとしたのだと。奴隷船で死にかけて得た教訓ですが、可能なら出来事全てをいいほうに取ることです。