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三の巻

 ただ、助かったとは言っても、わたしは衰弱がひどく、熱がまた出て、十日以上うなされ続けました。あまりにもひどい目にあっていたので、夢すら見ませんでした。わたしが孫楽さんに競り落とされてから十五日が経ったころ、ようやく布団から出られました。さほど揺れるわけでもない内湾の家船でも、弱った足腰には激しくゆすぶられているようによろよろします。それでも自分が生きていると分かると、嬉しくて悲しくてワケが分からなくて、ひとりでに涙がポロポロ落ちてきます。わたしは天涯孤独です。天津の所領は残らずとられ、家族はみな死に、知らぬ異国の地でひとりぼっちです。しかも、わたしはめろめろに弱っていました。

 よろよろ歩いて竹でつくった寝室を出ると、同じくらいの広さの竹の部屋がありました。竹の棚に薬壺、断ち切られた跡のある大きな古い骨、乾かした薬草や種が詰められた瓶が置いてあって、石の炉に珍しい形の鍋がかかっています。竹の机に小さな臼と茸の袋があって、竹の柄の刃物が竹の鞘に差しておいてあって、それに竹の皮の網代の衝立があって――とにかく竹を使った部屋です。竹が一番安いので、竹を見ると理由も分からずイライラして人を殴りたくなるなどの特別な事情がない限り、ピゴナ島では道具や建物に竹を使います。

 おじいさんと黒装束の剣士はどこに行ったのだろう? 薬の部屋からさらに扉があって、それを開ければ、外に出られますが、見知らぬ異国、しかもわたしを奴隷として売買した異国へ足を踏み出すのは勇気がいります。残念なことに疲弊した状態ではそうした勇気は出てきません。ふと、目をやると、水桶の隣に竹でつくった水筒が置いてあります。ズキッと左目、が入っていた痕が痛みます。ズキッは一分に一度でしたが、それが三十秒に一度、十五秒に一度、十秒に一度、そのうち一秒ごとに痛みが襲ってきて、ひいて、痛くなってをしてくるようになりました。腰が抜けて、そこにぺたんとへたり込むと、顎がかみ合わなくなるほどの痛みでついに涙が決壊しました。冬次郎さまが来られたのはちょうどそんなときです。

「先生は?」

 わたしは痛みでうずくまっていて、返事をするどころではありません。ヤットコを突っ込まれたような痛みが完全に再現されて、わたしをいじめるのです。はあ、と冬次郎さまのため息がきこえたかと思ったら、ゆっくりわたしの体を押して、顔が冬次郎さまと向かい合うようにしました。すわ、接吻か? そこまで世間は急ぎ気味にうまくできてはいません。冬次郎さまは水桶近くの竹の筒の栓を抜くと、そのにおいをかぎ、わたしに布巾をわたしてから、その目の傷痕をときどきこの竹の筒のなかの水で拭け、間違っても鏡をみようとするな、とわたしに教えてくださいました。これ以来、わたしはしばらく鏡を見ることはなくなりました。冬次郎さまのご命令ですもの。守り尽くさねばなりません。

「い、たい」

「我慢しろ」

 冬次郎さまはわたしの眼に巻かれて包帯をするする慎重かつ迅速に解いていきます。正直、自分の顔がどうなっているのか分かりません。冬次郎さまにたずねても、左目だけだと言いますし、あとで孫楽さんはまぶたの肉が紫色に渦を巻いているとしかいいませんでした。

 冬次郎さまに優しく水で疵を洗ってもらいながら、わたしは無事なほうの眼から涙がポロポロ落ち始めました。人に親切にされることのありがたさは重々承知していたつもりでしたが、このときはもう胸がいっぱいになって、冬次郎さまの胸に額を寄せて、えぐえぐしゃくりあげます。すると、冬次郎さまはわたしの頭を軽く抱いて、頭の後ろをあやすようにポンポンと軽く叩いてくださいました。世の男性方、むやみやたらに女子おなごの頭をポンポン叩くことは厳禁です。女子の髪は時間をかけて整えたもので、それを潰すようにポンポン叩くのはありえませんし、そんなことしてくる殿方は気持ち悪いです。これは冬次郎さまだから、許される裏技なのです。

 わたしが一切の食事をしていないことが、このときグーと鳴ったお腹で発覚してしまうと、冬次郎さまは舟の艫にある台所を軽く見て、

「なにも食べ物を残さずに出かけたのか? まったく」

 と、ありがたくも、外で何か買ってくると言って、出かけられました。

 四半刻――ピゴナ島の異人風に言えば、三十分後に冬次郎さまはタレをつけて赤く焼いた魚と握り飯を持ってきてくださいました。当時のわたしはまだお姫さまの気質が残っていて、お料理はしずしずと食べるものでしたが、情けないことに手が震えて、箸が持てません。すると、冬次郎さまは三又槍の小さなものを取り出して、これを使うといい、わたしにくださいました。これがフォークです。食事をするときに金属の尖った食器を使うなんて、異人たちの常在戦場ぶりには驚かされます。

 もうちょっとわたしに気が利けば、冬次郎さまにあーんをしてもらえたのですが、わたしは少しでも自分の動きを取り戻したくて、必死につたない手でフォークを握り、少しずつ少しずつ胃がびっくりしないように魚を食べます。あまり日本で見かける魚ではありませんが、さっぱりとしていて、若干しつこいタレとよく合います。

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