サディスト
蒼side
「はっ…?!あれ…またこのパターン…?」
「おはよう、蒼。今日と明日は俺だよ。体大丈夫?」
「慧?!私いつの間に…?」
体がさっぱりしてる…慧がお布団に入ってるし…もう日が変わったの?
「まだ早朝だよ。眠かったら寝てていいのに」
「もう、時間の感覚がない…交代したのいつ?」
「夜中の0時。お風呂に入ってから交代なんだ」
慧が髪の毛を自分の耳にかけて、微笑んでる。
お部屋の中は暖房がしっかり焚かれてて、加湿器があるから喉も痛くないし…。
甘々デレデレのヤンデレ昴に二日間溶かされた頭がまだぼーっとしてる。
「お腹空いた?今ちょうどあったかいの持ってきたところだよ」
「ん…ちょっとお腹すいた…。でも私、だらけ過ぎじゃない?」
「俺の希望なんだから、蒼は大人しくしてて。外の事も、他の人のことも考えちゃダメ。」
「慧…?」
首を触られて、なでられる。ゾクゾクして、鼓動が速くなってくる。
「まだ昴のこと考えてたでしょ。ダメだよ。指輪も勝手に付け替えたから」
両手の指の石が色を変えて鎮座している。
慧の指輪。黄色い石だ。
「ね?俺だけ見ててよ。俺のことだけ考えて。お願い。」
慧の鋭い視線が突き刺さって来る。胸がキュンとしてしまう。独占欲丸出しなんて珍しい…。
「うれしいけど…ゴロゴロしてたら太っちゃうよ」
「カロリー消費してるんだから大丈夫。ちゃんと計算してる。夜食は飲み物にしたんだ。ラッシーってわかる?あれのあったかいやつ」
「カレー屋さんの?あったかいのもあるの?」
「うん。食べてみる?」
「い、いただきます…」
慧が起き上がって、お盆を持ってくる。
寝っ転がったまま肩を抑えられてて動けないんですけど…。
慧が白い液体を自分の口に含んで、そのまま唇を重ねて来る。
「…!」
ヨーグルトの香りと、マンゴーの香り。甘酸っぱいラッシーの味が喉を通っていく。あったかいトロトロの液体。
「いらなくなったら言って?」
「えっ?ちょ…んん!」
慧が一口ずつ口に含んで、私は雛鳥のようにそれを口に入れられる。
うっとりした顔でして来るから、止められない。口移しして凄く喜んでる…。
最後の一口を喉に流すと、慧が熱を差し込んでくる。
深いキスが長く続いて、だんだん慧の味になっていく。甘いままなのはどうして?慧が甘いの?
「蒼…こっち見て」
唇を離した慧が、余裕のない顔でじっくりと息を乱した私の顔をみてくる。
すごい。私の目線の端から端まで慧しか見えないようにしてる。
こんな独占欲…持ってたんだ…。
初めて手加減なしにそれをぶつけられて、ドキドキが止まらなくなってくる。
わたし…すごく、嬉しい…。
「ねーえ…そんなに見ないで…」
「それ好き。蒼がねーえ、って言うとたまらなくなる」
「そう…なの?」
「うん。好きで好きでどうしようもなくなっちゃうよ…」
首筋に唇が降りて、ちゅっと音を立てて吸われて熱が灯る。キスマークつけられるのはひさしぶりかも…そう言えば昴もつけてた。
「キスマークも解禁だからね。」
「えっ?禁止だったの?」
「そう。でも今回はそういうのなし。全部上書きする」
「ひゃっ、そこだめっ…んっ」
「やめないよ。本当に嫌なら体を2回叩いて」
「な、なに?それ?」
「セーフワードみたいなもの。SMでよく使われる。プレイを中止して欲しいって意思表示の事」
「えすえむ…するの?」
「してもいい?」
「わ、わかんない…どうしたいの?」
「俺、意地悪なこと言っちゃうでしょ?多分そっちの気がある。危ないことはしないけど、蒼を泣かせて、いじめて、ぐずぐずにしたい願望があるんだ。」
「私の旦那様はヤンデレに…SMなの…?」
「だめ。ヤンデレも今日は禁止。俺のことだけって言ったでしよ?」
「ひゃっ!」
鎖骨を齧られて、体が逃げる。
逃げた先で捕まって、両手を上に重ねて縫い止められる。
「最高…ゾクゾクする。」
「うそぉ…慧そういう感じ?」
「だめ?嫌い?怖くなった?」
不安そうな顔になった慧が眉を下げて聞いて来る。
「ううん…すごくドキドキしてる…。慧の好きにしていいよ。ゆ、ゆっくりお願いします…」
慧の表情がゆるゆる、笑顔になっていく。いつもの笑顔より、蕩けてる気がする。
「うん……すごく、優しくするから」
腕を掴んだ慧がファーがつけられてる輪っかを取り出して、私の手首にはめる。
ん?これは…手錠?
「痛くないやつ。本物は赤ちゃん産んでからね」
「わわわ…いつの間にこんなのを…」
「ふふ、かわいい。似合ってる。」
慧がじっと上から私の姿を眺めて、微笑んでる。
ニコニコしてるのはいつもと同じだけど、その中になにか…ぞくりとするような色気が見えた。
「本当に可愛いな…俺やっぱこういう趣味なんだな…」
「うぅ、そんなに…見ないで」
顎をそっと摘まれて、目線を合わせて来る。ゾクゾクするような色気が増してる。
「お腹平気?」
「うん…」
じっと見つめる慧の瞳に、暗い闇の色が引き出されていく。漆黒の黒がさらに闇を含んで、光が塗りつぶされて…。
触れ合う唇の熱さが慧の本気を伝えて、繋がれた両手で慧を迎え入れた。
━━━━━━
微睡の中で慧が私を抱えて、背中を撫でている。優しい手つきに胸が温かくなる。
あんなに冷たい目で見られたの、初めてだった。刃の上を渡るようなヒヤヒヤした感じがあって、私がそこを渡り損ねても慧が引っ張り上げてくる。
慧がいるから落ちても怖くないのに、掴んだその手自体が怖くて、優しくて…こんなの初めてだった。
「蒼…いい子。よくできたね、すごく綺麗だったよ」
「む、むー」
三日目の今日は緩急のある甘さを与えられて、私はもう溶け切ったバターみたいに液体化してると思う。
「最後は結局、私がおねだりして甘やかされてた気がする…」
「ホント?そうだった?」
……ううん、確かにいつもとは違った。意地悪も優しい意地悪じゃなかったり、冷たくされた後に甘やかされて混乱して…。
「蒼の理性をなくしたいんだよねぇ。蒼の頭の中をぐちゃぐちゃにしたい。俺は言いたくないことも言うし、冷たくして俺自身も我慢して、そのあと目一杯自分の欲望のままに甘やかすの。…ヤバいでしょ?自覚がある通り俺は危ない人だよ。飽きられないように研究した結果がこれなんだ」
「むー、むぅ…確かにすごかった」
「怖くなったらちゃんと言って。俺だけが満足したいわけじゃないから。
本当は、自分でも自分が怖い。本気で人を好きになったことがなかったんだって、蒼に思い知らされてる。
自分の際限なく湧いてくる欲望が怖い。大切にしたいのに、壊しちゃいそう…」
複雑な欲望だけど…それを全部ぶつけられて満足してしまっている自分がいる。
私だってこんなの知らなかった。
「ちょっとだけ怖いけど…慧ならいいよ。何もかも投げ出しても、慧が守ってくれるって知ってるから。私がお腹空いた時の変な癖がなくなったのも慧のお陰でしょ?慧が私を変えたの」
びっくりした顔になった慧が蕩けるような笑みを浮かべる。
「俺が蒼を変えたの?」
「うん」
「めちゃくちゃ嬉しい…へへ…」
「ん…」
鼻先にキスが落ちて、ずっとずっと黒い瞳に囚われる。光も闇も抱えた慧が愛おしい。
「日が登ってきちゃったね。夜はおしまいだ。もう少し寝る?」
「寝過ぎて頭痛くなりそう。」
「昨日も寝てたの?ずっと布団の上?」
「ううん…殆どはそうだけど…」
良いのかな。独占したいって言ってたけど。
「大丈夫。昼間の俺はちゃんと理性がある。昴とずっとしてたの?」
「ううん。ご飯食べて…縁側でコーヒー飲んで、赤ちゃんの名前考えてた。次の日はお布団から出てないけど」
「なるほど。んー。俺はちょっと行きたいところがあるんだ」
ガバッと起き上がり、布団を蹴り飛ばす。
「おでかけ!?」
「ふはっ…そうだよね、蒼はじっとして居られるタチじゃない。うん、お出かけしよ」
二人で立ち上がって、伸び伸びと手を伸ばす。
「どこ行くの?」
「ラーメン食べて、蒼が住んでたお家に行く」
「はっ…えっ?!まだあるの?」
「うん。引っ越ししたし、荷物を引き上げて引き払ったほうがいいかって話になってさ。蒼の居場所を確定させたくて」
深く頷き、慧に抱きついた。
置き去りにされて居た私の居場所を完全に引き払えるのは嬉しい。
頭を撫でられて、しわあせな気持ちを噛み締めた。
━━━━━━
「えーと、次どっちだっけ」
「そこ右折して、手前のコインパーキングに止めよ」
「了解」
慧の車に乗って、私が住んでいたアパートの近くまで来ているんだけど…運転している姿に何だかドキドキしてる。
久しぶりなのもあるし、サングラスをしてかっこいい姿なのもある。
この人本当に私の旦那さんなの?と私自身が疑問を投げかけてくる。信じられないよね?うん。
「見惚れてるでしょ」
「はい」
「ん゛んっ…着いたよ」
お互い頬を染めながら目を逸らす。
何だろう、この気恥ずかしい感じ…。付き合いだしたばっかりの恋人みたい。新婚さんだから同じようなもの?
助手席のドアが開いて、手が差し伸べられる。大きな手を掴むとそのまま抱き抱えられた。
「はぇ?何で?」
「ん?蜜月は蒼を地面につけない縛りがあるんだ。だから抱っこするの」
「うぇぇ?」
「ふふ、203だよね?」
「うん…」
私が住んでいた住宅地は人が割と多いから…抱き抱えられた私をたくさんの通勤してる人や学生さんたちがみてくる。
「恥ずかしかったら顔くっつけとけば良いよ」
「おろしてはくれないんだねぇ…」
「決まりだからね」
いろんな視線を受けて居た堪れなくなった私は顔を慧に押し付けて唸るしかなかった。
「この鍵は安全じゃないね」
「普通のアパートだから仕方ないの…」
一応、ディンプルキーなんだけどなぁ。
鍵を差し込んで扉を開く。数ヶ月足を踏み入れてなかったから、締め切った部屋の独特な匂いに満ちて…日差しに照らされた薄暗い部屋の中は、舞い散る塵に反射してキラキラしてる。
ようやく床の上に下ろしてもらえて、玄関からスリッパを出して差し出す。
「私、窓開けてくる」
「うん…」
ワンルーム、9畳の小さな部屋は廊下とは言えない小上がりのスペースにキッチンがあって、その先に寝室がある。
ベッド脇のベランダのカーテンと窓を開けて、風が吹き込んだ。
ベランダに一つだけ置いて居た多肉植物はしおしおになっている。
「ごめんね」
慌ててキッチンに戻って、コップに水を汲んで鉢に水を注ぐ。
「…よく枯れなかったね?」
肩から顔を出した慧が多肉ちゃんを見つめてる。
「多肉は水をあげなくてもワンシーズンは持つの。…しおしおだけどね」
「頑丈だね。蒼みたい」
「んふ…そうかも…さて、必要なものだけ持ち出して、あとはまとめておく感じ?」
「うん…手出ししてよければ言ってよ。荷物はそのままでいい。詰めるのも業者さんがやってくれる」
「わかった。そんなに持っていくものはないから大丈夫。座ってて」
クローゼットを開けて、奥の方にしまっておいたブーツを取り出す。これは記憶がない時になぜ持っていたか分からなかったもの。アーミーブーツだ。
施設を出る時に履いていたもので、靴のサイズが変わらないからずっと持ってたんだよねぇ。これからも使おうかな。
本も持っていこう。千尋のお家の本棚は強固で増えてもびくともしないと思う。まだ本棚にスペースあるし。
「服少なすぎじゃない?本の数はすごいね…蒼も千尋みたいに本の虫なの?」
「ふふ、今はお洋服ありすぎだよ。
本読むのは好きだよ。ファンタジー、恋愛、哲学書が好き」
「分厚いな…こんな凄いの読むの?」
「私が好きな作家さんは文章がみっちり詰まって、ものすごい文字数の人ばっかりだから。多ければ良いとは思わないけど、全部の文章が意味があって、読めば読むほど活字が頭の中で映像化するからねぇ」
「活字が映像化するのか…この人が一番好きなの?数が多いね」
「小野不由美さんと荻原紀子さんが一番好き。女流作家さんだよ。本単体ならヨースタインゴルデルのソフィーの世界、新井素子さんのチグリスとユーフラテスが一番かな。名前がわからないけど朱鷺の鍋を食べるホラーも好き」
「怖いなそれ…」
パラパラとめくり、ううーんとうなる声。
「こっちは古文みたいな文体だし…こっちは漢字がめちゃくちゃ多いし…段落詰まりすぎじゃん。ページが黒いよ。全部分厚いのなんなの…」
「んふふ、ファンになるとその黒さをみてるだけでゾクゾクするようになるよ」
「ふーむ、あとで見せて下さい」
「うん」
部屋のあちこちを開けたり閉めたりするけど、私はもともと持ち物が少ない。思い入れのあるものもほとんどないし…。
大きなキャリーケースに本を目一杯詰めて、袋に入れたブーツを追加する。くるりと見渡した部屋は五年間暮らしてきたはずなのに…知らない部屋みたいに見えた。
青いカーテンは昴の瞳みたいだと思って買い替えたもの。多肉ちゃんはお客様にいただいたもの。
自分で買ったはずのもので埋められた部屋は、いつの間にか私の部屋でなくなっていることに気づく。
もう、私の居場所はあそこになってたんだという実感が湧いた。
勝手にものが増やされていく私の部屋は、ふわふわもこもこしたものだらけになって、暖かくて居心地が良くて。
ここみたいに無機質なものは何もない。
昴や、千尋や、慧が私のために散々買ってくれたものに溢れて囲まれて、そこにいるだけで愛されていると実感させてくれる暖かいお家。
「蒼…それだけでいいの?」
「うん…ここは、私のお家じゃないって実感した。私のお家に帰りたい」
寂しい気持ちに包まれて、ぎゅっと手を握る。その手を優しく包んで、慧が微笑む。
「俺が持っていきたい物詰めてもいい?」
「いいけど…何にもないよ?」
「そんな事ない。ここは蒼のものしかないんだよ。俺にとっては宝石箱みたいだ」
るんるんした慧がクローゼットの上の戸袋を開く。あっ、そう言えばそこにも入れてたな…。
額縁に入ったディプロマの束。ネイリストの検定に合格した時にもらえるものだ。完全に忘れてた。
「これは必要でしょ…」
「うーん」
この先必要と思えないけど、どうなんだろう。
「はっ!こ、これ!アルバムじゃないの?!」
「あー、そうみたい。私の記憶にないから謎の物質でしまい込んであったやつ」
小さなフォトブックが慧の胸元にしまわれる。……なんで?
「これは俺が見てから返します。ん?何この紙束」
段ボールにごっそり入った封筒の束…あー、それは…。
「ラブレターだよね、これ」
「はぁ…まぁ…」
「よし燃やそう」
「うん、いいけど…」
チェーン店時代にもらったものだし中を一切開いてないから…うん。
「ここはこんなもんかな。他も見ていい?」
「いいよ」
ベッドに腰掛けて、多肉ちゃんを部屋に入れて、動き回る慧を見つめる。
楽しそうだねぇ。多肉ちゃん、君は連れてってあげるからね。
キャリーケースのそばに積まれていくのはさっき取り出したディプロマ、段ボールの中の手紙、慧のポケットに入ったフォトアルバム、私が使って居た百均のマグカップ…本当に要る?歯磨き粉は何でなの。
「ねぇ…」
小さなボディースプレーを持ってきた慧が問いかけてくる。
「シャネル好きなの?ブランドものこれしかなかった」
「ううん、お客さんが私の匂いに似てるって」
「ボディーミストか…」
ミストの匂いを嗅いだ後に私の服をつまんで匂い嗅いでるし…。んもう。
「確かに似てるけどもうちょい甘いと思う」
「そうなの?」
「蒼は俺たちとくっついてから匂い変わったよ。宗介さんほどはっきりはわかんないけど、林檎みたいな匂いする」
「へぇ…」
「フェロモンってやつでしょ。相性がいい人同士はわかるみたいだよ。…蒼は俺の匂いわかる?」
「うん。慧はシトラス系」
「へぇ…昴と千尋は?」
「昴はムスク系、千尋はバニラっぽい甘い匂い」
「なるほど、理解した。それっぽい気がするね」
「みんな香水の匂いかと思ったけどお風呂上がりに匂いするよね。徹夜の後もそうだったし」
「蒼もそうだよ。汗かいた後の匂いがそう」
「そ、そうなの?」
「うん」
照れながらいつものように耳を触る慧がベッドに腰掛けた私の足元に座って、頭を膝に乗せて足をかかえる。
「ねぇ…ここ、残してもいい?」
「えっ?でも家賃もったいないよ」
「一月この値段で蒼の過去が買えるなら安いもんです」
「うーんうーん」
「俺の家を引き払って余裕あるし、無駄遣いしないから。だめ?」
「うーーーん」
「蒼の匂いがする。ここ」
「くさい?」
「出会った頃と同じ、涼しげな感じのいい匂いがする。蒼の20歳から五年間はここでしょ?俺が知らない蒼がここに居る。ここをなくしたくない」
「どうしてもって言うなら…いいけど。私のお金からにして欲しいな」
「どうして?そりゃ余裕はあるけど。蒼全然使わないんだもん」
「んふふ…使わないんじゃなくて使わせてくれないんでしょ?銀行の残高怖くて見てないし、慧が残したいって言うなら私が支払いたいの」
渋々頷く姿を見て、苦笑いになる。
慧のわがままなんて珍しいから、そうしたい。
「お家、帰ろ。寂しくなってきちゃった」
「うん」
キャリーケースと段ボールを運び出した慧が戻ってきて、私を持ち上げる。
靴がないからねぇ。そうなるよねぇ。
ドアを開けようとして、外側から開かれて慧がドアから飛び退る。…だれ?
「…蒼ちゃん!!帰ってたの?!」
「…先輩」
ドアの前に立ってるのは、チェーン店時代に散々喧嘩した先輩。
最初から喧嘩ばっかりだったけどいつも真正面からぶつかってきてくれて、いつの間にか仲良くしていた唯一の人。チェーン店を辞める時に連絡先を伝えたのは先輩だけだった。
「蒼ちゃんが突然お店閉めて、携帯も連絡がつかないし…お家にも帰ってなくて…週一でここに来てたの…無事でよかったぁ…」
「先輩…すみません」
慧の肩を叩いて、降ろしてもらう。
涙をこぼしながら抱きつかれて、じんわりした暖かさが伝わってくる。
……心配してくれてたんだ。
「警察に行っても届を出すと突き返されちゃうから困ってたの」
「あー、それはあのー、はい。」
昴達のところにいたから…そうだよね。麻衣ちゃんが揉み消してたのかな。
「とにかく、私は元気で暮らしてますから。大丈夫ですよ」
「そっか…彼氏さん?…大丈夫?」
慧をチラッと見て、私の元彼を知っている先輩が小声で囁く。
「大丈夫ですよ。結婚したんです」
指輪を見せると、笑顔が溢れる。
「そうなの?おめでとう!…幸せなら良かった」
「はい、とっても。ありがとうございます」
ぎゅっと抱き合って、ため息をつく。
今日は驚きばっかりの日だ。
━━━━━━
「はい、コーヒー」
「ありがとー」
自宅に戻って、ソファーに座って、二人して読書に夢中になって数時間。ゆっくりした時間の中で、コーヒーの匂いが鼻をくすぐってくる。
「…良かったの?連絡先教えなくて」
「うん」
先輩はそうしたかったみたいだけど、私はあえて沈黙を貫き通した。
「私の過去にはもう触れないの。戻らないところだから。縁がない人は繋がない」
「びっくり発言だな…蒼ってそういう線引き厳しいんだね」
「うん。誰彼構わず付き合ってるわけじゃないですよー」
「うーん、うーん…」
唸りながら慧がコーヒー片手に隣に座ってくる。
本当は、私はすごく冷たい人だと思う。今でこそ仲間や旦那さんがいるし、みんなが大好きだけど…先輩やネイリスト時代の友人達とはもう縁を切った気でいたから。
立つ鳥跡を濁さずって言うし、私がこれから先やっていくお仕事で巻き込まれる可能性がある限りは縁を切ったほうがいい。
関わり合う気がそもそもないの。
「でも、そっか。蒼は誰でも受け入れるわけじゃないってわかって、なんか安心しちゃった」
お互いぱらり、と本をめくりながら口を開く。
目が合っていなくても、どんな顔してるのかわかる。慧は今ほんのり微笑んでるはず。
「独占欲が満たされた?」
「うん。俺さ、二面性があるんだよ。蒼とのアレコレを研究してるうちに自分の事が理解できた気がする」
「二面性か…否定はできないねぇ」
「蒼には全部見せてるからね。独占欲が強いくせに、昴と千尋が一緒に夫である事がすごく嬉しいし、蒼と俺たちで家族なのも嬉しい。三人でくっつくときに蒼を真ん中にして、左側に千尋、右側に昴、背中に俺がいて、蒼と二人に触れる位置な事にすごく満足してる」
「慧…かわいいね…」
「そうかな?夜は凶暴だけどね?」
「んふふ…それはそう。でも凶暴な慧も可愛いよ。私にだけでしょう?」
私の手から本を取り上げて、柔らかい唇が触れる。首に手を回して応えると深くそれが重なった。
「…もうちょっと我慢したかったな」
「ふふ。蜜月なんだもん、いいでしょ」
「そう?蒼がそう言うなら、いいか」
二人でおでこをくっつけて、笑い合う。
優しい夕暮れが部屋の中に赤い色を灯して、ふんわりとその色を広げていった。
2024.06.19改稿