30年の恋
宗介side
「おい……おいって、蒼!」
「何ですか」
「おま…どうしたんだよ?プレス押しのけて…明日休みだからレストラン行くって言ってただろ?着替えもせずにどうしたんだ」
「……宗介、さっきの女の人、誰?」
「……あ?女…??」
完全にご機嫌斜めな蒼を追いかけ、ホテルのエレベーターに飛び乗る。表彰式の後にプレスインタビューすっぽかすなんて初めての事だ。
「……金髪の、おっぱいボインの人!危うく口にキスされるとこだったでしょ!」
「……??あっ、あー!!書類出しに行った時の話か…あれは車検のスタッフだ。お前まさか、妬いてんのか?」
ぷくっとほおを膨らませた蒼は、自分の部屋のロックを開けて俺を室内に引っ張り込む。
そのまま抱きついてきて、ぎゅうぎゅうに絡みつかれた。
「キスなんかさせねぇよ。何でそんな怒ってるんだ?今までこんな事なかっただろ」
「おっぱい押し付けられてた。あの人、今回のレースの合間合間でうちのブースにやたら来て、宗介にくっついてるでしょ」
「んぁ…そう、かもしれんな」
「宗介は困った顔してるけど突き放さないし、私…私……」
大きなため息をお互い落として、蒼の頭からキャップを外す。
蒼はナーバスだが、俺はヤキモチまでやいてもらえる様になったのか……。ちょっとだけいい気分になってしまう。
他の女なんか気にもしちゃいねぇのに、可愛い奴だな。
「すまん。次からちゃんと距離をとる。嫌な思いさせたな」
「子供みたいだって思うけど、わかってるけど嫌なの!宗介はまだ私に手出ししてくれてないし」
「……うっ、そ…それはだな」
真剣な顔の蒼ににじり寄られて、嫌な汗が背中を伝う。
手出ししたくないってんじゃねぇんだけどな…こう、整理がつかないと言うか…。制御できる自信がねぇと言うか。
「どうして私に手を出さないの?私は女神なんかじゃない。旦那様が三人もいたのに宗介まで手に入れて、知らない人にヤキモチ妬いて…今日はたくさん失敗した。宗介がフォローしてくれなきゃ…コースアウトする所だった。ただのわがまま女なのに」
「そんな風に言わなくていい。手出ししてぇのは山々なんだが、どうしてもストッパーがかかっちまうんだ。30年だぞ?お前に恋してから。……人生の殆どがお前で埋まってんだよ。もうちっと待ってくれんか」
「……明日お休みなのに?」
「……う……」
「もうすぐサマーシーズンで日本に帰るのに?独占できるの今だけなのに??」
「う…う……クソッ。」
蒼がヤキモチ妬いてる女にくっつかれたってこんな気持ちになりゃしねーよ…心臓がうるせぇ。はち切れそうだ。
力尽くで蒼を引き剥がして、尻を抱えて持ち上げる。ソファーに降ろして、ご機嫌斜めな奥さんの膝下に足をついた。
こうなったら許しを希うしかねぇ。
「あのな、その…一回手出ししたら蒼を壊しそうで怖い。愛してるから、ちゃんと大切にしたい。優しくする自信がねぇんだ」
「別にいいのに。壊せばいいでしょ」
「蒼……」
「レースがどうとか、私の体がどうとかそんなの聞きたくないの。宗介がしたくないって言うならそれでもいいけど、私はしたいの」
「…………」
蒼はこんな風に駄々をこねるのは本当に珍しい。当番の時だって手出ししない俺を見て理解してくれてたはずが、レースの後だからな…興奮しきってんだろうな……。
「お前さんが機嫌が悪ぃ時は、大体腹が減ってる時だが。…飯食って冷静になってくんねぇか?な?」
「……確かにお腹は空いた…」
「だろ?今日はちゃんとした和食の飯屋にしようと思ってたんだ。俺があのオネーちゃんと話してたのは、その店を予約したかったから。お前のためだよ」
「……そう、なの?」
「あぁ、そうだ。仕事だっつって、俺がお前以外のために働いたことあったか?向葵のサポートだって全部断ってただろ?」
「……確かに、そう…」
「不安にさせたのは俺の甲斐性のなさだ。そこは本当に謝る。
だが、お前のレーサーとしての評判を落とす様なことはするな。…プレスには具合が悪かったって伝えて、ルームサービス取って、部屋で大人しくしてよう。明日行くはずだった店に連れてってやるから」
「…………ごめんなさい」
「ん、待ってろ、土間に連絡しておく」
「はい」
ソファーに横並びで座って、蒼がひっついてくる。肩に手を回して引き寄せてやると、大人しくくっついてじっとしてる。……あぁ、体温が高い。こいつ生理前だったな…PMSもあんのかこりゃ。スケジュール把握を怠ったのも俺のミスだな。
「土間、蒼を捕まえた。」
『どうしたんだ!?蒼は具合でも悪いのか?』
「そう言うことにしておいてくれんか。」
『…本当に具合が悪ぃ訳じゃねぇんだな?』
「あぁ。俺のせいでちっとお冠なんだよ。悪さしちまってな」
「宗介」
「しっ、いいから。」
「……」
『はぁ、まぁ仕方ねぇな。どうせ明日は休みだ、しっかりご機嫌取りしてくれよ。頼むぜ旦那4号』
「へいへい。プレスには上手く言ってくれよ、後は頼んだ」
『おう』
通話を切って、スマートフォンを放り出す。ガラケーでいいのになぁ、メッセージはめんどくせぇから使ってねぇし。
「何で私のせいって言わないの」
「俺のせいだからだよ」
「そんな……違うでしょ?私が勝手にヤキモチ妬いて…」
「それが俺のせいだっての。お前を不安にさせたのも俺のせいだ。……生理まで少しだろ?PMSもあるんだよ」
「……あ……でも、でも……」
「ドライバーのメンタル管理も俺の仕事だし、お前の旦那としての義務だ。……悪かったな、本当に……」
「宗介……」
両手で蒼を抱きしめて、頭のてっぺんにキスを落とす。
こんな風に不安にさせるならさっさと抱いてやりゃよかったんだ。やっちまったな。
「飯食ってゆっくり風呂入って…お姫様扱いしてやるから。機嫌直してくれるか?」
「……うん」
「しかし何だな、お前のヤキモチは激し目だな?」
「ごめんなさい……」
「文句じゃねぇよ。気分がいい。」
「……うー、ごめん…宗介…」
「蒼にゃ悪いが俺は過去最高の気分だ。ヤキモチ妬いてくれたんだ。あの蒼がだぜ?ふっふ…」
ソファーの脇にあるメニュー表をとって、ずらっと並ぶルームサービスの食事を眺めた。
「……むーうー、むー」
「食いたいもんあるか?」
「宗介」
「俺かよ。んー、じゃあメニューはお任せでいいか?」
「うん……」
蒼を抱えたままメニュー片手にルームサービス用の電話をかける。
「hello」
「hi. im calling from nine oh one. I'd like to room service?」
『Yes.sure』
コース料理だと腹一杯になっちまうからな…サラダと、フルーツと…鶏肉…デザートも頼んどくか。後は酒かな…シラフじゃ無理だからな…。
『We'll have that up to you by 7pm.』
「ok.thanks」
受話器を置くと、蒼がもじもじして俺の服の上でのの字を書いてる。
「あの、あの……」
「軽めにしとかなきゃ吐くからな」
「ん…うん…」
「風呂は?先に入るか?」
「う、うん…」
「勝負下着は?持ってきたか?」
「うん…ってバカ!!」
持ってきてんのかよ…マジか。
真っ赤な顔した蒼が風呂場に飛び込む。俺も顔が熱いんだが。
「蒼、着替え持ってくるからな。風呂は一人で入れるか?」
「……ふぁい。一人で入りたい」
「いい子で待ってろよ?」
「うん……」
ルームキーを持って蒼の部屋を出る。あー、何だかな…モヤモヤするぜ…いや、ムラムラか?。蒼の部屋は角部屋だし、横は空いてたはずだし…大丈夫だよなぁ…。
エレベーターに乗り込み、設置された鏡に映った自分を見て、目を逸らす。
……真っ赤なのは俺もかよ。
「クソ…ティーンかっての……」
━━━━━━
「んじゃ、優勝おめでとさん」
「ありがとうー。……あの、この格好でいいの?」
「さっき言ったお姫様扱いだよ。フォークも持たせねぇからな」
「そ、そう……」
窓のカーテンを開け放ち、気の利くサービスマンが持ってきてくれた蝋燭の灯りと街の光でほんのり暗い室内、ソファーの上で蒼を抱えて夕食をはじめた。
あー、わかりやすくご機嫌な蒼が居る。そんなに嬉しいのか?
蒼の目線を追って、食べたいものをせっせと口に運ぶ。
懐かしいな、ファクトリーで喧嘩した時にはこうしてご機嫌取りしたっけな。昔から距離感が近かったのにあの頃は心の距離が遠かった。今も昔も特別扱いしてんのは蒼だけだ。それだけは変わらない。
「サラダにフルーツ入ってるね…」
「苦手か?」
「ううん、すごく美味しい。おしゃれなプレートばっかりだねぇ…そう言えばルームサービスなんて初めてかも?」
「そういやそうかも知れん…レース中は腹壊さない様に、レトルトばっかりだしな」
「そうだねぇ、今回みたいにグラベルコースだとお腹にくるから食べられないし」
「あのでこぼこ道は別にいいが、カーブのショートカットで崖に半分落ちるのは何なんだ。車体のほとんどが崖から出るじゃねーか……毎回思うがWRCのレーサーは頭がおかしい」
「ちょっと、私もそれのレーサーなんですけど?」
「顔色ひとつ変えずに走ってるお前も立派な仲間だよ。……なぁ、本当に一年で引退するのか?」
サラダを口にほうばって、もしゃもしゃしながらうん、と頷いた蒼。
WRCの復帰は一年だけと決めて、残り半年。周りの奴らからも散々引き止められたが、蒼はガンとして了承しなかった。
「次はどーすんだ?」
「むぐ…チーム監督やりながら、パーツの製作工場と契約して、大企業とタイアップで車作るの」
「ついに車の生産かよ…」
「んー、それも提携だけだよ。私がやりたいのは別」
「別?」
「最終的には成茜をメインドライバーでチーム立ち上げて、F1に押し上げる。そのために大企業と提携するの。
向葵ちゃんはもう少し粘ってもらって年間優勝したらWRCのチームを任せて、私はD1やろうかなって」
「…あ?…ありゃドリフトの競技だろ?国内でやる奴か?」
「そう。FDJじゃなくてD1GPの方。決められたコースの中でお尻流しながら枠の中に車体を入れたり、煙の出し方とかドリフトのスタイルで点数稼ぐの。2台でどれだけくっつけるかを競うのもやるんだよ。」
「追走ってやつだな…追い抜き合戦はもうしねぇのか?」
「……できないと思う」
ハッとして、蒼の目を見つめる。
「どこかおかしいのか?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな…運転した後、しばらく手が痺れることが多くて。血管の繋ぎ直しがもしかしたら必要かも。となると、年齢的にはWRC参戦は厳しいでしょう。今年の砂漠はかなりきつかったなぁ」
「確かにな…レースの中ではかなりハードな部類だしな」
「ルマンの耐久レースもそうなると厳しいし…夢だったんだけどね。キキにはドクターストップかけられました。WRCでは予想以上に体を酷使していたみたい。私が事故った時に手術ができないし、レースのたびにキキを海外に呼ぶのも…あの子だって厳しくなる年齢だもの。
レース競技から完全に手を引くことはしないけど、世界参戦はしないって方向性」
「そう……か…」
「宗介は…私と一緒に来てくれるでしょう?チーム監督するから、あちこち移動するけど…ノウハウや人との繋がりを作るのは宗介に任せたい。家族で一緒にいられる時間も長くなる。……どう?」
伺う様な目つきの中に、落ち込んだ様子はない。潔いんだが何なんだか…今まで培った知識の中で活かせるものがあるとしても、舞台は限られてる。蒼の命の危険を考えりゃ旦那達は安心するだろうな……。
「……蒼の不調に気づけなかった。すまん……」
「宗介が謝ることじゃないでしょ。チームメイトとして私をずっと支えてくれたもの。…宗介は、小さい時から、ずっとそばにいてくれた。さっきも私のこと庇ってくれた。
私がこんな性格なのに、好きって…言ってくれたの、本当に嬉しかった」
顔を伏せて、蒼の顔から雫がポタポタおっこちる。蝋燭の光を弾いて、キラキラしてらぁ…綺麗だな……。
蒼を抱きしめて、頬に唇で触れる。
ちいせぇな、大人になっても小せえ。
この体で一生懸命生きてきたんだ。周りの奴らが助けてくれたって言っても、体を元に戻すのだって本当に苦労していた。
箸の上げ下げさえ難しかった手先は今や細やかに動き、しなやかな筋肉を取り戻している。
足はほとんどの筋肉を無くして、歩くのにも苦労した。
なかなか弱音が吐けなくて、俺の当番の時に朝まで泣いてたこともある。
それでも……必死で立ち上がって、いつだって笑顔を振りまいて愚痴ひとついわねぇで頑張ってきたんだ。
蒼のちいせぇ手を握って、両手で広げ、揉み込んでみる。
確かに…ちょいと動きがおかしい。
また手術したって元通りになるかなんてわかんねぇしな。手術をすればしただけリハビリが必要になる。
右腕一本なくしただけでも苦労した俺は、蒼の苦痛が手に取るようにわかる。
自由に体が動かねえ焦りや苦しみは体験しなきゃわかんねぇだろうな。
家族の前でも仲間の前でも一言も愚痴も弱音も吐かなかった蒼が…泣ける場所でいられるんだから、ますますこの手に感謝しなきゃならんだろうな。
「宗介の手、おっきいね」
「お前が小さいんだよ」
「そうかな…キキよりは大きいでしょ?」
「そりゃそうだろ、タッパが違う。小さい手で散々苦労してきたな。後少しだが、世界に蒼の存在を知らしめてやれ。
手がおかしくなったらいつでも俺が助けてやる。必ずゴールさせてやるから……遠慮すんなよ。諦めんな」
「……うん。ありがとう」
ワイングラスを一気に傾けて、もう一度蒼を持ち上げる。
窓の傍、カーテンの脇にあるボタンを押すと、自動でそれが閉まって蝋燭だけの灯りになった。
「夜景はまともに見せてやれねぇな」
「……ん?どういう意味?」
「はー……すまんが俺は手加減の勉強中なんだ。お前、自分が言ったこと覚えてるか?」
「……うん」
蒼をベッドに横たえて、触れ合うだけのキスを繰り返す。
うん、だめだ。30年の重さには、俺の理性が勝てそうにない。
「言っとくが、俺は素人童貞だからな」
「なっ!え…風俗とか?」
「あー、戦時中の話だ。お前に出会ってからしてねぇ。」
「嘘でしょ……?」
「一人ではしてるぜ?右手が友達だ」
はてなマークを浮かべていた蒼が「あっ!」と声を出す。
「右手が友達って…そ、そういうこと?」
「あぁ、そうだよ。こうなっちまったら多分理性が持たねぇ。明日のディナーにも行けるか怪しいぜ?」
「…………」
俺は気配操作の制御を解いた。蝋燭がふっと消える。みるみるうちに蒼が顔を赤くして、潤んだ目で見つめてきた。
「引き返すなら、今だ」
「……や、だ」
「本当にいいんだな?」
「……うん……」
蒼の顎を掴み、深く重ねる。ずっとずっと欲しかったものを与えられるこの時が、永遠に続けばいいと――そう願った。