優しい時間
慧side
「蒼…大丈夫?」
「……ん、へいき…」
枕の上に頭を乗せて、頰を上気させたまま瞼が開く。タオルで額の汗を拭いて、こぼれ落ちた涙を唇で吸い取る。
とろけた色の瞳が微笑みの形にゆらめいて、輝くような色に変わった。
「かわいい…蒼…かわいいね…」
「慧はなんだか甘やかしすぎじゃない?可愛いしか言ってなかった」
「そうかな…わかんない。蒼に触ると、最近頭の中が空っぽになるんだ」
とりあえず、お布団を被せて蒼の体が冷えないようにしとこう。久しぶりに使った道具たちを集め、俺は顔が熱くなっていく。
……若干記憶にない…これ、使ったの?ホントに?
ガシャガシャと拾い集めて、ボックスに突っ込んで、顔を覆う。
俺、もしかして暴走した?蒼が体の調子が良くなってから、すごいことばっかりさせてる気がする。ヤバい…これは良くない。
「けーいさん…寂しいよ」
「はっ!?今行きます…」
慌てて枕元に戻ると、蒼がお布団の中に入れてくれる。両手で頭を抱えられて、ふわふわの胸元が顔を包んできた。
柔らかくて…あったかくて…蒼の匂いがするそこは、天国としか言いようがない。
身じろぎをすると、首輪についた鎖がチャリ、と音を立てた。
「ごめん、首輪はずそ。忘れてた」
「やーだ」
「へ?な、なんで?寝るのに邪魔でしょ?」
「寝るのには、邪魔ですよ?でも、私は外したくないの」
「……はっ、そ、そうですか……」
「んふふ……」
満面の笑みが、蠱惑的なものに変わっている。くっ…可愛い。まだ、足りないってことだな……。
「ちょっとだけ休憩ね」
「うん」
「あっそう言えば、最近ちょっと落ち込んでる気がするんだけど……大丈夫?」
「うん…」
蒼に抱えられながら、目を瞑る。
仕事の上でも問題が多発して結構なストレスを抱えてたけど、それはどうにかなった。翠の反抗期が来てて、ちょっとへこんでたけどこの前思いっきり喧嘩して仲直りはできた。
千尋の冷静で大人な対応を見て、自分の未熟さを痛感していたのに。蒼を傷つけたんじゃないかと思うと目の前が真っ暗になる様な気がする。心配までかけて……。
「そ、そんなことより…俺ちょっと記憶が飛んでる。酷い事しなかった?」
「してないよ?いつもより優しすぎるくらいだったもん」
「ほっ…そっか…よかった」
蒼が額にキスしてくれて、真上から笑顔が降り注いでくる。なんだか、自分が子供になってしまっている気がする…何もかもを蒼にぶつけてしまっているようで、甘えているようで…やるせ無いのに安心している。
「ねーえ?慧はこの首輪、いつ加工してくれたの?最初は革の縁が切りっぱなしだったけど、今はずっとつけてても痛く無い。切り口が滑らかになってるでしょ。」
「え、よくわかったね…」
蒼の首につけた黒革の首輪は、結構なお値段だったのにちゃんとなめされていなかった。蒼に初めてつけた日に擦れて赤くなってしまったから、加工してツルツルにしたんだけど……気づいてたの?
「んふ。あとねぇ、お道具も一度使って微妙だったものはすぐ変えてるでしょう?段差がありすぎるものとか、ゴツゴツしすぎのとか」
「ん…そ、そりゃ蒼が嫌な思いしたら俺が嫌だし…」
「んふ…んふふ…ふぅ……」
なんだか蒼がご機嫌だな…ニコニコしてるけど、いや…なんかおかしい。ちょっと悲しげな表情が混じってる……どうしたんだろう?
「私ね、死にかけて戻ってきてから何もかもが幸せなの。ううん、旦那様たちに出会ってから…幸せでしかなかったってずーっと思ってる」
「……そう、かな」
「そうだよ。私の事が好きなんだなぁ、って何を見てても感じるの。この首輪もそうでしょ?生活の全部に気遣いがあって、優しさがあって…愛されすぎてて涙が出ちゃう。
私は、……こんなに大切にされてたのに、それを手放そうとした。」
「――蒼…」
耳の中に響く心臓の音が速くなって、体が震えてる。抱きしめたいのに、蒼が放してくれない。
「慧…死ぬつもりだったでしょう」
「…………」
「赤ちゃんを作るときに飲んでた薬、ずっと、ずっと飲んでたって聞いた。心臓に負担かけて、私が死んだ後何年持つかわからなかったって……」
「……ごめん」
蒼の腕に力が入る。ぎゅうっと押しつけられる柔肌は、赤く染まっている。
俺が悲しませてるんだと思うと、胸が締め付けられて苦しい。
「わかってたの。慧は多分、無理だって。私の事が好きすぎるもの。心が繊細で、壊れやすくて…だからこそ優しいって私が一番よく知ってる。……わたし、良かった…。生き延びられて、本当に良かった。
慧を失わずに済んで、良かったって本当に思ってるんだから…大切な大切な慧が落ち込んでるのに『そんなこと』なんて言わないで…」
「ごめ、ん…」
蒼の言葉に耐えきれず涙が自分の目に滲む。
お互い何も言えないままボロボロ泣いて、胸が苦しくて仕方ない。
蒼が悪いんじゃない、俺が弱かっただけなんだ。宗介は泣きながら俺を殴ってくれたけど…辞められなかった。
俺は自殺をしようとしていた。だって…蒼がいなくなった後の自分なんて……想像すらできなかったんだ。
「キス、したい」
「ん……」
さっきとは違う、哀しみの涙に濡れた蒼の頰をさすって、唇で触れ合う。
ごめん、ごめんね…そんな顔させて。
「ん…もっと、」
蒼が両手を首に絡めてくる。しゃくりあげながら深く唇を重ねて、蒼がもっと、と求めるたびに触れ合う頬でお互いの涙が混じる。息が苦しくなって、限界を超えてようやく二人して唇を離す。
少し離れてるだけなのに、唇から蒼の熱が失われていく事が、切なくて仕方ない。
やっぱりネジが飛んでるのかもしれない。ちょっとクールダウンしないとまずいな。
「ふは…はぁ…びちょびちょだねぇ」
「いっその事お風呂入らない?汗かいたし、夜中の3時だし…みんな夜泣きしなくなったから…大丈夫だと思うけど」
「うん。…じゃあ、一緒にお風呂入りたいな」
「よし、じゃあスイッチ入れてくるから、待ってて」
「うん」
俺は慌ててパジャマを着込み、蒼の部屋を飛び出した。
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「冷静になれる筈もないのであった」
「ん?どしたの…?」
「いや、こっちの話。そう言えば、結構前に翠と言い合いの喧嘩したんだ」
「知ってるよー、ドアの外で聞いてたから。それで落ち込んでた?」
「なっ!?う、嘘でしょ?…あっ、そう言えばあの後千尋とデートしたって言ってたな…まぁ、そうです。解決はしたけどさ」
「うふふ、そう。翠のストレス発散にもなったし良かったと思うよ。……千尋もストレス発散してたけど、最近は色々あったもんねぇ」
「くっ…いいな。俺も蒼と出かけたいな」
「次はお外でデートする?」
「……うーん」
蒼と二人、先日入れ替えたばかりの大きな湯船につかる。我が家は、亡くなった千尋のご両親のためにバリアフリーになってたから、お風呂もそれなりに大きかったんだけど…一人で入る事が殆どなくて結局大きいものに変えた。
最近では子供達に蒼とのお風呂タイムを譲っていたけど、この時間なら独占できる。
蒼に思いっきり甘やかされてメンタルが安定した子供たちは夜泣きもしなくなって、夜の時間を中止することも無くなった。
外でデートするのもいいけど、お家の中なら他の人や何かの危険を察知する必要がないし…蒼も緩み切ってるからかわいいし…家でくっつくのが好きなんだけど、時々は刺激が必要だろうか。
俺にはまだ心の余裕がない。蒼は長生きしてくれる事が確定したし、キキに怒られながら俺も体の回復はしてるし、幸せな日々だけど。
夫が一人増えたからなぁ…しかも、新人とは言え蒼に恋してた年数は一番長いし、人としても出来上がっていて…正直ライバルにすらなっていないと思う。
ただ蒼に縋って、依存している俺とは違う…宗介は大人だから。男としても、人としても尊敬の対象だった。
昴も千尋もそうだけどさ、あの人は別格だ。
「おでかけはいいとして……宗介とは、仲良くしてるの?」
「え?仲良く…うーん?仲はいいとは思うけど。手出しされてませんよ」
「……えっ!?…な、なんで?」
蒼は両手をぐーんと伸ばして、そのまま後ろ手に俺の首にかけてくる。
……あの、おっぱいが見えてます。
「んふ…あの人は、少年だから。慧と同じで私の事が好きすぎて手が出せないの」
「俺と同じか。…俺は手出ししてるけど」
「なんだろうねぇ。不可侵の女神とか呟かれると、どうしていいのか分からなくなるの。そろそろキキのご期待に添えたいし、ちゃんと夫婦になりたいんだけどね」
「意外だった。初日に手出ししてるかと思ったのに」
「みんなあまり知らないだろうけど、宗介は大人なのにずっと子供なの。私と同じで『こう』と決めたらなかなかそれを変えられないし……一人に慣れさせちゃったからね、私が」
「……そっか」
「慧はヤキモチ焼いてるの?」
「うん、ごめん。千尋はわかりやすいくらい協力的だし、昴もなんだかんだ甲斐性があるでしょ?俺は宗介より子供だからなぁ…大人の余裕が欲しいよ」
「うーん?うーん、でも、私は今のままで変わってほしくないけど」
「依存しまくりで、それこそ俺はメンヘラになりつつあるけど。いいの?」
「慧は私を傷つけないでしょ?あの子と一緒にしないで。……やっぱり一発入れてくるべきだった。」
「会ったんだよね」
「うんそう。でも茜にお腹つねられてたし『まだわかってないのね?体に教え直さなきゃ』って言われてたから、相当やられてはいるみたいだけど」
「……そ、そうなんだ?」
「……翠は慧のことを選んで生まれてきてくれたの。私も次はそうしたいなぁ。私の旦那様たちは…二度と手放したくない。昴の『絶対来世も追いかける』っていう根性が欲しい」
「そんなに…?」
「うん…またハーレムになっちゃうのはダメな気がするけど、こんなに好きになって手放せるわけがないじゃない?
慧は子供だっていうけど、私の方が子供なの。」
「そう…かな。うぅん……」
蒼が腕を下げて、くるりと振り返る。両手を握って、ニコッと笑った。
「私も同じ気持ちだよ。今の慧と。お互いが向き合っているなら、執着も、依存も、苦じゃないし嫌じゃない。お互いが嫌なことは絶対しないっていうラインが守られてるのに『いいのかな、大丈夫なのかな』って不安に思わなくていいの。」
「……うん」
「人それぞれの心の形があって、自由で…二面性…ううん、みんなが色んな顔を持ってて、時には大人になって子供になって、全部の自分が曝け出されちゃう。それも全部を受け取れるし、受け止めてくれると信じてる。
それが愛ってやつじゃないですかねぇ?」
「ぷっ、語尾どうしたのさ。でも、そうだね。そっか。俺、蒼のオムツ変えるの無理だと思ってたんだよ。でも、すごく楽しかった…なんだろうね、あれ。昴や千尋ははわかるけど、蒼の全部がこれで見れたんだと思うとこう…気分がいいというか、なんというか」
「……う、う……」
「ちゃんと勉強してて本当に良かったよ。おばあちゃんになったらまたしてあげるからね。お風呂も上手だったと思うし!将来も安泰だなぁって…蒼?」
「……………………」
顔を覆って、蒼が耳まで真っ赤になってる……どしたの?
「流石にオムツは恥ずかしいの!茜に…無駄な事してって怒られたけど、気力使って寿命は縮まったかも知れないけど!……くっ」
「あ、そうなの?蒼…気を張ってたのか…家では自力でしてたもんね」
「キキのおかげもあるけど、おむつの世話をさせたくなかったの。うぅ…恥ずかしい…」
そんなに恥ずかしがることだろうか…子供のおむつを変えるのと変わんないと思うけど……あれ?これ、もしかして…。
「蒼って、俺たちに恋してるってことじゃない?」
「それは、そうですけど」
「違うよ。そうじゃなくて…なんで言えばいいんだろう。女性として見て欲しいというか、そういう恥じらいがあるというか…」
「……そう、ですけど」
「わ、そうか…そうなんだ……」
ドキドキしながら蒼の体を引き寄せる。向かい合わせでお湯の中でくっついて、胸の鼓動を伝え合った。
俺も、そうだよ。蒼にずっとずっと恋し続ける。ママの顔も、恋人としての顔も、お仕事をしてる間の顔も…全部が愛おしい。
「……ちょっと…心配だったの。私は旦那様達に全部を見せたわけでしょう?その……女として見てもらえないんじゃ無いかって」
「え?どうして?毎日ウキウキでお世話させてもらってたけど、そう言う欲求が衰えたことはないね。俺だけじゃないと思うけど」
「…たしかに、みんなその…ちゃんと出来てる」
「そりゃそうでしょ。今まで通り蒼に触れられるだけで幸せなんだから……蒼こそ何も心配しなくていいよ。全部が知れて、本当に嬉しかった。恥ずかしがってるのも可愛いけど、蒼の事ならなんでも知りたい」
「……そぉ?」
「うん」
蒼を膝の上に乗せる。若干の抵抗はある。散々触れ合った後なのに、際限なく欲しくなってしまうのはずっと変わらない。
「……お元気ですね」
「えぇまぁ」
「もう一回お風呂、入らなきゃじゃ無い?」
「そうだね。蒼が寝てたら入れておいてあげるよ。お風呂も手慣れたものですから」
「……ふふ……じゃあ、首輪、またつけてくれる?」
「うん……今度は頭が空っぽにならない様にします…」
おでこをくっつけて、間近でお互いの目を覗き込む。言葉にしなくても何を言いたいのか、何をしたいのかが伝わってくる。目を閉じて蒼の唇に触れ、裸のままで抱きしめあった。