導く手
キキside
「…………」
「く、う…震えが止まらねぇ…クソッ…」
アタシは、ただ待つしかない。手術を始めてもうおそらく二日目を迎えている。……全身麻酔の量は普通の人間なら耐えられてないほどに達していた。
これ以上蒼に麻酔をしたらそっちの方が致命傷だ。蒼は恐ろしいほどの痛みを抱えて、無意識下でも血圧がどんどん下がってる……ごめん、ごめんな…。
鍼灸の技術で、人間は手術時の麻酔に変わる技術を作り上げた。すでに症例が幾つもあり、絶対とは言い切れないが成功確率はかなり高い。
アタシは臓器を作り上げて、茜の脳みそを改造しても蒼の手術に踏み切れなかった。長い時間の手術が必要で、使わなきゃならない麻酔の量が多すぎるから。
その現実を変えてくれたのは、宗介だった。鍼の技術なんて一朝一夕に身につくもんじゃないんだ。アタシも、蒼の両親もどんなに頑張ったって身につきはしなかった。
麻酔が切れたこのタイミングで予定通り宗介が鍼を打てば万事解決。
……手術はあと少し…もう一つの血管をつなぐだけで終わる。地獄のように長い時間を起きて、アタシも限界をとっくに超えてた。
――これを諦めたら、蒼は足が動かなくなる。……でも、命は繋げる。……足を諦めるべきか、宗介を待つべきか…。
刻一刻と判断のリミットが近づく。
ふと、顔を見合わせた昴たちがアタシを見て微笑む。ああ、頼むよ。旦那様達。
「しっかりしろ、宗介。お前じゃなきゃダメなんだ。いつもみたいに自信満々でやればいいんだよ。」
千尋が宗介の右腕を掴み、背中に手を回してそっと支える。
「そうだね。……蒼が帰ったら俺たちの仲間入りだろ。宗介ならできるって信じてるからね」
慧が宗介のフラフラする頭を支えて、しっかり視点を定めるために首を固定する。
「宗介、頼む。蒼を助けてやってくれ。腹に力を入れろ。足の裏全体で地面を踏み締めて…そうだ。宗介なら絶対にできる」
昴が宗介の左手を持ち、鍼を蒼に近づける。
深呼吸を繰り返した宗介は、目つきが鋭くなる。集中力が極限に達し、手の震えが止まって……蒼に毫鍼を入れた!
「…あっ…キキさん!血圧、戻ってきてるぞ!!」
「よし、よしよし!!宗介!よくやった!」
「はぁ…はぁ…はぁーーーー…」
顎から汗を垂らした宗介は、蒼が逝きかけたショックで頭の毛が真っ白だ。こんな短時間で髪の毛って白くなるもんなんだな…どういう原理なんだろ。あとで研究させてもらお。
蒼の父親が血圧計をチェックしつつ、血液を巡らせるための機械を蒼に取り付ける。母親は輸血パックを次々に用意してくれて、アタシに必要な道具を正確に手渡してくれる。
本当に優秀な二人だな。医院の医者はみんなダウンしちまったのに、ピンピンしてるし。アタシが院長休む時は代わりになってもらおうかな。……医師免許取ってもらおっと。
目を閉じ、再び開く。スコープの中の視界は極限に狭く、長時間の手術でアタシ自身の視覚も限界を迎えようとしていた。目が酸欠状態でチカチカしてる。
もしかしたら手術後に脳出血するかも。脳圧が随分前からおかしいもんな。
蒼じゃなくアタシがあの世に行く羽目になるかもしれん。
それでも、いいよ。
蒼は、この世で生きていくための理由をくれた。死体処理しかしてなかった汚れたアタシを、正義の味方であるお医者さんにしてくれた。
本物の絶望を知った、高校卒業のあの日。この手が握りつぶしたのはラブレターだけじゃない、あの子の可愛い恋心だけじゃない。
アタシ自身の心も、ぺちゃんこにしたんだ。そうじゃなければ、生きていけなかった。
くしゃくしゃになって、アタシ自身が忘れたふりをして。見向きもしないそれを見つけてくれた。
やさしく、ゆっくり一つ一つの皺を伸ばして、粉々になったアタシの心のカケラを一つ残らず丁寧に集めて、繋ぎ合わせて、人としての形に戻してくれたのは蒼だった。人の臓腑をわける化け物のアタシに…何にも気にせず触ってくれた。
ねぇ、蒼。帰ってきてくれよ。アタシは蒼を諦めないって言っただろ。ずっと頑張ってきたんだから、ちょっとくらいご褒美くれるだろ?
『ありがとう、キキ。大好き』って、言ってくれよ。
蒼の声で聞きたい。アタシの全てで、アタシの生きる意味そのものの…アンタの声を聞かせてほしい。
「……ほ、縫合、終了。しっかり消毒して、傷パッドで覆って、無菌室に運んで。…点滴で抗生物質と、あと………」
どさり、と音がして真っ暗闇に引きずり込まれていく。
耳がなんか音を拾ってるけど、わんわん響いてよくわからん。
でもそうだな…やっと、責務を果たせた。約束を果たせた。
蒼……アタシ、やったよ。
━━━━━━
「おわー、真っ暗だなー」
目が覚めると、真っ暗闇の中だ。とりあえず歩いてみるけど…うーん、こりゃまずいな……死んじゃったかな。
このあと蒼は何回かまた手術しなきゃならんのだけど。そのあとはリハビリして、脳波測定やら精密検査のオンパレードの日々だし…血を取りまくったチルドレンたちは大丈夫かな?
ぶっ倒れた医者達がいるし、問題ないか。ビシバシ鍛えたしな。
しかし、歩けど歩けど何も出てこない。何にも見えない。……ちょっと怖い。
「……誰かいないのー?」
焦燥感に駆られて、呼びかけてみる。
音のエコーで、洞窟かトンネルの中みたいなところにいるんだと判断した。
あれだな、穴熊の有名な物語がある。今潜ってるトンネルの中は人生、ここを抜けたらその終わりってヤツだ。読む人によって解釈が変わるけど。本当に死後はこんな感じなのか?あれを書いた作者はすごいなぁ。
確かに、人生ってのはこんな風に闇の中を探って生きていくようなものだったな。何にも目印がなくて、何にも道標がなくて。
手を伸ばしても、覗き込んでも何も見えやしない。不安だし、怖いし、絶望で真っ暗闇だったよ。
ここが地獄の一丁目ってんなら、ウチの親もいるのかね?いや、できれば戻りたいな。蒼にまだ褒めてもらってないし、アタシが死んだら悲しむだろ?
でも、仕方ないか…最後に蒼を助けられたんなら本望ではある。みんなも、閻魔様も多少は目を瞑ってくれるかな。
たくさんたくさん、人を殺して、バラして…悪い事をしてきた。でも、蒼のお陰で同じくらい人の命は救ってきたはずだ。
蒼が生きてれば、蒼が居てくれれば…身の回りにいる人はみんな生きていける。千尋はタバコばっか吸ってたから肺が心配だし…慧は何回怒っても強心剤を多用してて…あいつ、いつか心臓発作起こすぞ。
昴は…不摂生だな。寝てるところをここ一年は全く見てない。
三人とも心配だけど、みんな蒼が居ればそれもなくなる。医者は必要ないか。
「アタシも、蒼に会いたかったな…」
一目でいいから、蒼の綺麗な琥珀の瞳に見つめられたかった。優しい微笑みで「キキ」って言われるたびに綺麗になっていくような気がして、気持ちよくて、幸せになれるんだ。
会えない日は恋しくて仕方なかったし、手を繋いで横にいられる日は心の底から満たされた。
アタシが、唯一自分自身を好きになれる場所だったんだ。でも、そんなことだけじゃなくて。
胸が、きゅうきゅう音を立てて萎んでいく。痛い…心が痛いと、手足の先まで痛くなるの、なんなんだろうな……。
「蒼に会いたい。蒼と手を繋ぎたい。蒼に……頭撫でて欲しかった…もう会えないなんて寂しいよ……う、うっ…」
足が震えて、立てなくなる。お尻を地面につけて、自分の膝を抱いてわんわん泣いた。
……子供みたいだ、恋しくて泣くだなんて。死ぬのよりも、蒼に会えなくなることが怖い。
鼻を啜って、顔を上げると…目の前に一枚の羽がひらひらおっこちてくる。
真っ白で、綺麗な羽だなぁ。蒼に生えてるなら、きっとこんな風な色だろう。
「――キキ!」
「おわ!?」
誰かに抱きしめられたその瞬間、暗闇が弾け飛び、真っ白な光が広がっていく。
あったかい、いい匂い………アタシが呼んだから来てくれたの?
「キキ…キキ!しっかりして。だめよ、あなたも連れて帰るからね…」
「あは、蒼…帰り道の途中だろ?アイルビーバックってか?師匠にそっくりだな。ずびっ」
「キキのおかげでしょう…?こんなに無茶させて…ごめんなさい」
眉を下げて、揺らぐ金色の綺麗な瞳から雫が溢れる。蒼は何してても綺麗だな…真っ白な光は…暗闇を明るく染めていく。黄色、ピンク、朱に染まり、やがて朝焼けのように青白く染まっていく。
――ゴールデンアワーが来たんだ。
「アタシはアタシのためにやった。蒼が死んだら嘘つきになっちゃうもん。
アタシは蒼を諦めないって言ったでしょ?約束を守りたかったんだ。
……蒼がいなくなるなんて、無理だよ。アンタの旦那だけじゃなくてアタシだって…アタシだって……」
「キキ…しー、しー…。体力を使わないで…もういいの、ちゃんとわかってる。こんなボロボロになってまで、私を助けてくれたのはキキだって事。キキ…私の大切なキキ……」
ぎゅうぎゅう思いっきり抱きしめられて幸せで仕方ない。
あぁ…嬉しいな…蒼はもう、大丈夫だ。
生き返りの夜明けって感じかなぁ?神様もなかなかにくい演出だな。
明けていく空の色が、とてもとても優しい色に染まっていく。星が瞬いているのに白い雲が流れて、濃い色が緩やかに白を混ぜてパステルカラーになってきた。
なんて綺麗なんだろう……千尋が言ってたのは本当だったなぁ。蒼の心の中の色は、きっとこんな感じだろう。
蒼のふくふくした手に頬を包まれ、瞼を閉じる。こんな風に触れあったのは、本当に久しぶりだった。
蒼が倒れてからの一年が走馬灯のように駆け巡る。長い、長い一年だった。
「キキ。私が貴方のお婿さんを産むからね。貴方が望んだ通りに。……宗介の血が入るけど、いい?」
「あっは!やっぱそうだよな?あはは!いいよ、宗介頑丈だし。顔はいけてるし……声もいいよな」
「うん……。キキ、本当に本当にありがとう。大好き……」
蒼の甘い囁きに、アタシの眦から熱い雫が溢れる。……これが聞きたかった。
なんて幸せなんだ。こんな気持ち、生きててよかっただなんて、アンタに出会えなきゃきっと思えなかった。
「アタシも大好きだよ、蒼…」
精一杯の力を振り絞って囁く。蒼の香りの中に全てを放り出して、アタシは眠りについた。
━━━━━━
千尋side
「おつかれ。交代の時間だぞ、昴」
「あぁ、今オムツを変えたところだ。下剤を飲まなくても腸が元気だからちゃんと出してくれてるよ」
「おしっこのパックもそろそろかな?」
「あぁ、看護師さんがくる時間だからお願いしてくれ」
「わかった」
蒼の手術が無事終わり、約一ヶ月が経った。キキの病院に入院せずファクトリーの中で安静にして、ようやく無菌室を出られたところ。
蒼の傷の治りが早いって事が幸いして、全身ミイラ状態だったが包帯の面積が少し減った。
俺たちは一年前に蒼が動けなくなってからできなかった介護を、今現在毎日ウキウキしながらやっている。
……特に、昴が一番イキイキしてるな。
蒼の横にベッドごと移動してきて、一度も目を覚まさずに…同じく寝たきりなのはキキ。蒼の手術を無事済ませて、手術室で倒れてそのままずーっと眠っている。
蒼のご両親が慌てて処置を施し、倒れた医師たちを叩き起こして、命の危険も有ったけど…なんとか持ち直して、今はただ穏やかな表情で眠っている。
「じゃ、あとは頼むぞ。夕方には子供達を連れてくる」
「あぁ、慧がご飯作ったから、みんなで食べてくれ」
「わかった」
満面の笑みを浮かべた昴は、オムツが入った袋を抱えて部屋を出ていく。一抹の不安が頭をよぎる……オムツは捨てるよな?流石のヤンデレといえ、無いよな??……うん、無い無い。
キキの点滴はまだ大丈夫そうだな。一通りキキの様子をチェックしてから、蒼のベッドのそばに座る。
酸素マスクはまだ外せないが、調子が良ければ今日外れる予定だ。
そろそろキキにも起きてほしいな…蒼はこんな満身創痍な状態だけどさ、そろそろ目を覚ます気がするんだ。目覚めてすぐに会って欲しい。一番の功労者だから。
昨日は蒼の手を握ったら握り返してくれたし。そのせいで大騒ぎして、蒼のご両親に怒られたけど。ふふ。
「蒼、俺だよ…千尋だ。今日は外はいい天気で雪もすっかり溶けて、気温も高くなって。……暖かすぎて春みたいだよ。
蒼が外に出られる頃には花見ができるといいな。」
「……」
すう、すぅと規則的な呼吸音。それに沿うように心電図の機械音が響く。
静かな室内は蒼が生きている事実を耳からも、目からも認識させてくれる幸せに満ちていた。
あの日が、最期だと思っていた。失われた全てを持ち帰った蒼は…こうして生きていてくれる。
皮膚は柔らかく暖かくて、頬は血色がありほんのりピンク色をしている。
食べ物じゃなくて点滴や直接胃にカロリーを入れているから…一年伏せってしまってから減った体重は増えていないけど。
この部屋でお弁当をねだられる日もきっと来るだろう。
「緑川さーん、看護師の北野でーす」
「開いてますよ、どうぞ」
「あ!今日は千尋さんでしたか。こんにちはー」
「こんにちは、よろしくお願いします」
「はぁーい♪おっ!いっぱいおしっこ出てますね、優秀優秀!30分後に変えましょうか」
「ありがとうございます」
ニコニコ笑顔でやってきてくれた看護師さんは、ダスク壊滅後に入院していた病院で出会った看護師さん。キキの病院に転職してきてくれた人だ。他にも数人いるけど、蒼の事情を伝えてもよし、とされていたのは全部で四人。
みんな蒼が子供を産んだ時に必ず同席していた看護師さんたち。
もう、彼女たちとも長い付き合いになったな…。目尻に刻まれた皺の数だけ患者さん達に微笑みかけていたのだと思うと、頭が自然に下がった。
「そういえば銀聖さんがいらしてましたよー。千尋さんをお迎えにいらしたとか」
「えっ!?仕事で問題かな…付き添いの代打を頼まないと…」
「宗介さんがいらっしゃるってさっき…」
「おう!噂をすれば俺ありだ!千尋、交代だぜ」
「すまん、千尋…。相良がまた問題持って来やがって、俺じゃどうにもならん。会社に来てくれるか」
ドアを潜るのに、背が高いから頭を下げつつ入ってきた宗介と、後ろで顰め面をした銀が現れる。仕方ないな、それは。
「宗介、さっき昴がオムツ変えたばかりだがあと30分後くらいにおしっこのパックを変えてくれるって。一応、一緒にお掃除してくれ。」
「あいよ。次の交代は慧か?」
「あぁ、夜中に来るから。夕方にはスバルが子供を連れてくるし、それまで頼む。銀、行こう」
「あぁ…」
ファクトリーの廊下を歩きつつ、鼻歌が出てくる。スキップしてしまいそうだ。
「千尋…お前、大丈夫なのか?」
「え?何が?」
怪訝な声色で銀に聞かれて、にやけた顔を取り繕わないまま振り向く。
俺の顔を見て片眉を跳ね上げ、銀は呆れた顔になった。
「宗介だよ。あいつ…蒼が起きたら夫になるとかなんとかってお前ら妙な事言ってるが…」
「あぁ、そうなるだろうな。」
「蒼はそうしねえって言ってただろ」
「銀、蒼は『死ぬまではしない』って言ってただろ?今は一度死んだようなもんだ。あの時、確かに蒼は一度死んでいる」
「…………」
「蒼は宗介を迎えるよ、間違いない。宗介は蒼の命に関わる瞬間に必ず助けている。俺たちは随分前からずっと一緒に暮らそうって言ってたんだ」
「……いいのか?その…」
「いいとか悪いとかじゃなくてさ。蒼がどうしたいかだけが俺たちの判断基準なんだ。
常識なんか知らないよ。早く目が覚めないかな…蒼の声が聞きたい」
「それは、そうだが…。お前がいいってんなら、良いけどよ」
二人で銀の車に乗り込み、手術室でも流れていたユーロビートが流れ出す。銀もちゃっかりデータもらってたな。
「銀、俺の娘に手を出すなら決闘が必要だからな?」
「ぶっ…な、何言ってんだ!?オメーの娘はまだちっこいだろ!?」
「……俺はこういう勘は外したことがない。ボコボコにしてやる」
「………なんなんだよ全く……」
銀が車の窓を開けて、温かい空気を車内に入れてくれる。
まだ、冬だっていうのに…体がポカポカして、口の端が勝手に上がってしまった。
「…もう少し開けてやるよ」
「あぁ……気持ちいいな」
「禁煙しろよ?タバコよこせ」
「もう、捨てたよ」
「そうか」
ニヤリ、と笑って銀は車を走らせる。強い風を受けて、俺は溢れてくる涙が止まらなくなった。
少し湿った冬の風は、それを吹き飛ばしてくれる。
蒼の最期の涙は最後にならなかった。蒼に持たせた俺の心は…蒼と一緒に還った。
だって、こんなにも全てが輝いて見える。空の青さも、木々の色も、街ゆく人でさえカラフルでいろんな色に溢れて…何もかもがすごく綺麗なんだ。
無限に溢れ出てくる涙を堪えもせず、俺はただ目を瞑って――風に流した。