反転
千尋side
一枚一枚、たくさんの写真を整理しながら、クラシックの流れる温かな室内でコーヒーを口にする。
外はぼたん雪が降り出した。
今年の雪は早いな…。俺と娘の誕生日の来月ごろ降るのが普通だが。
慧は蒼のベッドの横で最初に出会った頃の長さに切った髪をとかしてる。
肩までの長さが…久しぶりでとてもかわいいな。懐かしいよ。
昴は俺の横で子供たちに絵本の読み聞かせをして、穏やかな時が流れていた。
長男の成茜、次女の翠、三女の葵。
三人とも、大きくなったな。子供を全員夫と同じ誕生月に産むなんて…蒼は偶然だって言ってたけど…本当かな?いまだに真相はわからないけど。
ダスク壊滅から10年が経った。
子供達三人もしっかり言葉を理解できる年になっていて、よかったと思う。長男の成茜が9歳、次女の翠が7歳、三女の俺の娘…葵が4歳だ。
俺たちは長期休暇をとってもうすぐ一年たつ。社長は銀と交代する予定で動いてるし、もう逃げられないだろうな。今のところ昴が責任者をしてるが、動かしているのは実質銀だ。
キキはしばらく前から日本に滞在してくれている。毎日誰かしらが家を訪れて、蒼の顔を眺めては帰っていく日々。
蒼は、もうすぐ…最期を迎える。
三十歳を無事超えて、五年。
蒼は数々の伝説を残して全ての表舞台から引退した。
一年前に体が突然動かなくなり、倒れたんだ。
レースからも、テレビからも、雑誌からも、会社からも…全ての社会から忽然とその姿を消した、蒼の行方を追い続けている人たちがいる。
俺たちの家はセキュリティが高いし、郊外にあるからな。マスコミもここまでは来られない。銀達が目眩ししてくれてるから、本当に穏やかな日々だ。
残りの余生を、蒼は自宅で過ごしたいと言った。
自宅のリビングからは車が見えるし、水道も近いから世話をしやすい。
蒼の部屋からここに居場所を移して、俺たちは看病を続けた。
キキが予見した症状よりもずっと軽く、足は動かないが喋れるし排泄も自分で出来る。
キキのおかげでこうなったんだ。最後を迎える頃に喋れるなんて思ってもいなかった。
何もかも介護したってよかったのにさ。昴は物足りないと時々こぼしてる。キキの病院で介護の実施訓練を何年もしていたが、殆ど役には立っていない。
キキは…『自分以外の医者にも見せるべきだ』と自分からセカンドオピニオンを申し出た。
名だたる名医達を、自分のコネを使って何人も何人も呼んでは診せて。蒼に何かできるんじゃないかと努力してくれた。
その誰もが〝今の状態が奇跡だ、ありえない〟と言うもんだから…キキの顔がどんどん苦くなって、蒼はキキの素晴らしさが証明されたと喜んでた。
今もまだ、方々を周って蒼のために奔走してくれている。
「そして、彼らは星になりました。おしまい」
昴が絵本を読み終えて、みんなが俺の座ったソファーに移ってくる。
「写真の整理か?」
「ああ。ずいぶん溜まってるからな」
「…そうだな、沢山撮ったな…慧、交代の時間だ。千尋を手伝ってやってくれ」
「うん。蒼、昴と交代するからね」
ベッドの上の蒼は、目を瞑ったまま。
体を起こしてくれと言われて数日前からそうしてる。眠っていたり、起きていたりを繰り返してるがじっと動かずにいる。
「蒼…唇を湿らせようか」
昴がガーゼを手に取り水分を含ませて蒼の唇を湿らせ、リップを塗り込む。
加湿器では追いつかなくて、数時間ごとに湿らせてるんだ。
もう、自分では水分補給はできない。
体に必要とされていないから、点滴も外している。
最期に向かって、蒼は走り出してしまった。
「あ、懐かしいね。これは成茜の生まれた時…翠の生まれた時…葵の生まれた時」
「こっちは最後のレースだ。蒼は結局勝ち逃げだったな」
「あそこまでのし上がるとはねぇ。この前あの人も享さんもお見舞いに来てくれたし。蒼は流石に興奮してたな…。
産休も挟んでたのにずっと勝ち続けてたもんね。見てこれ、土間さん良い顔してる」
「本当だな。野菜の収穫…毎年これだけ大根あっても足りなかったな…結婚式の写真が紛れてる。茜も良い笑顔だ」
庭の野菜は毎年大根だけになった。
今年の収穫はおそらく消費できないだろうな。庭に植ったままの大根達は雪を被っている。ほんの少し、鬼おろしを食べたのが蒼の最後の食事だ。
結婚式の時の写真は、光に満ちてる。
蒼と二人で写った写真は、控え室で撮影したのかな?ファクトリーで撮った茜の写真は儚い笑顔だが、良い顔をしてる。
今の、蒼みたいに。
「千尋パパ、僕この人知ってる」
「そうなのか?覚えてるんだな」
「うん、ママも教えてくれたし。茜ちゃんでしょ?」
「そうだよ。成茜は賢いな」
「へへ。」
「慧パパー!わたしも!わたしも撫でて!」
「翠、こっちおいで。お膝の上に座って良いよ」
「やった!」
慧に言われて翠が膝の上に乗って、頭を撫でられてる。
「ちひろぱぱ、わたしも」
「ん、おいで。成茜は?」
葵が俺の膝の上に乗ると、成茜は頬を赤らめて首を振る。
すっかり思春期だな。素直じゃないのがまたかわいい。
成茜は昴の顔と色・蒼の声と仕草を受け継いでる。翠は蒼の色と顔つきで目だけが慧に似てる。
葵は白い髪の毛に赤い目のアルビノだ。先祖返りってやつかな。茜にそっくりなんだ。俺の顔を引き継いでるけど。中身は蒼と一緒で天才肌。
3人とも、大切な家族だ。
蒼が産んでくれた、俺たちの血を分けた…蒼と同じ天使たち。
ついこないだまで蒼が授乳している横に座って、一心不乱に乳を飲む葵を見ていたはずなのに…おかしいな、数年間の記憶がまるで数日かの様に思える。
こんなに時が進むのが早いなんてさ。俺は、何もかも…受け止めきれないままだ。
「蒼が目を開いたぞ」
子供たちを抱えて、蒼の傍に寄る。
ぱちぱちと瞬いた蒼は、儚さが体・目・気配に滲んでいる。
スネークがずっと言っていた死の匂い……芳しい蒼の香りは、その匂いに変わっていた。
「ん…明日、私いくね」
「「「……」」」
「そんな顔しないで。私の部屋から日記を持ってきて欲しいの。母子手帳も」
必死で体を動かし、頷いてリビングを出る。 冷えた空気の廊下を過ぎて、蒼の部屋の扉を開いた。
ずっと変わらない、蒼の部屋。暖房を入れていないのに、暖かい。
当番の度にここを訪れた。思い出がたくさん詰まっている最愛の人の部屋だ。
蒼の香りに満ちた室内。昴が勝手につけた棚におかれた、ハードカバーの日記を三冊手に取り三人の子供の母子手帳を上に重ねる。
壁に手をつき、衝撃をやり過ごすために四肢に力を入れた。
泣いちゃ……ダメだ。まだ、蒼は生きてる。生きてくれてる。最後の言葉を残すために…。
胸が痛い。臓器を握りしめられている様な、じっとしていられないほどの強烈な痛みが走り抜ける。
胸の中の痛みは、一年前からもうずっとそこに巣食って、根を張った。痛みは弱くなったり、強くなったりを繰り返して…消えることはない。
だって…蒼をこんな早くに失うと誰が想像した?覚悟なんか、出来るわけがなかったんだ。
この前三十六歳になったばかりなんだぞ。たくさんの夢を叶えていたって、全てを成し遂げていたって、まだ…まだ早いだろ。
神様も蒼のことが好きだから、連れてっちゃうのか?蒼の羽根を取り上げないでくれよ。俺たちの天使を諦めてくれないか。何度も願ったそれは、誰も聞き届けてはくれなかった。
現実は、変えられない。寿命を伸ばしたキキが泣き叫んで資料の山で暴れたって、スネークが何日も寺にこもって祈祷をしてくれたって…何も、何も未来は変わらなかった。
蒼の覚悟は正しかった。
そんな事、わかってるんだ。
背筋を伸ばして、深呼吸をする。
名残惜しい気持ちで蒼の部屋を出て、足を必要以上に踏みしめながら、廊下を歩く。
リビングの扉は…いつか蒼がはにかんだ笑顔で飛び出してきた時のままだ。ドアノブを握ると、そこから電流のような痛みが広がった。
「蒼、持ってきたよ」
「ありがとう」
蒼は俺が差し出した日記と母子手帳を受け取り、微笑みながら一つ一つの背表紙を撫でる。……まるで、命を吹き込むかのように。
「青が昴、黄色が慧、白が千尋のために書いたものだよ。私がいなくなった後に、読んでね。書けるだけ先まで書いてあるから。毎日それを読んで、この先の未来をちゃんと生きて欲しいの」
それぞれの日記を蒼から手渡される。慧も昴も手が震えてる。抑えられるわけなんか、ない。
「母子手帳は後で渡してあげて。それから、子供たちのお誕生日ごとに私の手紙が届くように手配してあるから。毎年、パパ達と一緒に読んでね」
母子手帳も夫三人で分けて、それらを握りしめる。
俺がもらった日記の白いカバーは、しっかり年月の流れを受け止めて…角が丸くなってる。
蒼がずっとずっと描き続けていた日記だ。これを手にしてしまう日が来たんだな。
「それから、これを宗介に」
蒼が背中から、真っ黒なハードカバーの小さな日記を取り出す。
「旦那さんたちには、見てほしくないの。ごめんね」
昴が受け取り、頷く。
宗介が渡したと言っていた日記だな。
中に書いてあるだろう言葉は、俺たちにとっては致命傷だろう。今の現状では、特に。
「みんな、ママのところに来て…」
子供達が待ちかねたようにベッドに上がって、蒼に抱きつく。
「ごめんね、ママ、明日いなくなるの」
「どこにいくの?」
「ママ…」
「やだぁ…」
「葵…ママの言うこと、ちゃんと聞いて欲しいな」
ぐずり出した葵は蒼の真剣な眼差しを受けて、静かになる。小さいながらも何かを感じてるんだな。
「いい子ね…。成茜、パパたちと、妹達のことをお願いね。パパたちが落ち込んでたら、キスしてあげて」
「…ぼく、キスはちょっと…」
「ダメなの?ママのお願いでも?」
「……わかった…」
「ありがとう。翠…あなたも。パパたちをたくさん愛してあげてね」
「うん…」
「葵…ごめんね…まだ小さいのに…」
俺の子を抱きしめて、蒼が眉を顰めて目を閉じる。
「まま、いかないで」
「うん…ごめんね…葵…大好きよ」
「わたしも、だいすき!」
顔を覆ってしまった蒼を、夫三人で子供達ごと抱きしめる。体に残った水分が少ないから、蒼は涙を流せない。心が泣いているのは、わかる。
俺も心の中が枯れてしまいそうだ。
「ごめんなさい…本当に。長生きするって、言ったのに…」
「そんな事言わなくて良いよ。蒼は一生懸命頑張った」
「そうだな。蒼は悲しまなくて良い。笑っていてくれ」
「そうだ。蒼の笑顔が好きだから…天使みたいな、その笑顔を愛してるからな」
「ふふ、もう。相変わらずだね…。
もう少し、眠って良い?後、もう一回だけ起きられるようにしておきたいの」
「わかった。みんなを呼んでおこう」
「うん、お願い…ね…」
蒼が瞳を閉じて、再び眠りにつく。
昴が脈を取り、大きなため息をついた。
「各所に連絡。キキを呼んでおこう。」
「「了解」」
「おう。邪魔するぜ」
リビングのドアが開き、宗介が姿を現す。
「宗介…ちょっと前まで目が覚めてたんだ…間に合わなかったな」
「いや、さっきからいた。流石に邪魔したくねぇ」
昴が、真っ黒の日記を宗介に手渡す。
「検閲…しねぇのか?」
「するなと言われたからな。今見たら宗介を殺しそうだ」
「ふ、それも良いな。俺も死にてぇ」
宗介の顔が暗くなっていく。日記を握り締め、項垂れた。
「宗介、蒼の傍にいてくれ。みんなに連絡するから」
「あぁ…」
ソファーに座り、写真を片付けて、しまっていたソファーを並べていく。
これからみんなで集まって、蒼を看取る事になる。蒼がそう望んでいるから。その準備をしなければならない。
スマホをタップする指が重い。いつからこんな風に体が重く感じてたっけな…もう、わからない。
「相良、明日だ。あぁ。いや、もう…あまり喋れないと思う…あぁ」
「キキ?蒼が明日だって。うん。そこに誰がいる?…うん、うん」
「銀。今電話できるか?」
『ま、まさか!!』
「蒼がさっき目覚めてな。明日だそうだ」
『…く…そったれ……』
電話の向こうで、銀がうめいてる。
忙しい中でも銀は、数秒だけでもかならず蒼に会いに来ていた。
……毎日、毎日。
碧いその瞳に蒼の姿を焼き付ける様に優しい色で、今まで一貫して口にしなかった彼の想いを伝えるかのように…ただ見つめ続けていた。
『組織のメンツで集まって良いのか?』
「うん。そうする予定だよ」
『わかった。後の連絡はこっちでやる。今晩は旦那たちで過ごしてくれ。明日の朝、行く』
「ありがとう。待ってるよ」
『あぁ』
スマートフォンを放り出して、ソファーに蹲る。
この日が来ることはわかっていた。
延命がうまくいっていたし、最初の予定からは過ぎていたが…俺たちは幸せになり過ぎてしまった。
子供を産んで、俺たちがこの世に留まるように完全に準備を済ませてしまった。
蒼がいなくなった後のことを思うと、頭がおかしくなりそうだ。
いや、もう…おかしいのかもしれない。体が震えて、力が入らない。
蒼を失いたくないのに、何もできない。
「なぁ、蒼はいま力を溜めてる状態だ。耳は聞こえてる。喋ってやれよ。朝までそうして過ごそうぜ」
「…そう、だな…」
宗介は真っ黒なクマを抱えて、ひどい顔だ。
慌てて髭を剃ってきたのか、顎が赤くなってる。宗介も何か感じたのかな。クローンの子達のように。茜を送った蒼のように。
「蒼、最後は俺にもなんか言ってくれよな。日記は受け取った。昴の検閲も珍しくなかったぜ。愛してる」
蒼の頬にキスをして、宗介がソファーに座る。
「おい、子供はこっち来い。あいつらに時間をやれ」
「宗介パパ…泣いてるの?」
「まだ泣いてねぇよ。あっためてくれ…寒くて死んじまいそうだ」
「おへやはこんなにあったかいのにー?そーすけぱぱ、かぜひいたの?」
「葵…心が寒いんだ。くっついてくれるか」
「うん!」
子供を三人とも抱きしめて、宗介がキツく目を閉じる。
「クソっ…お前らそっくりじゃねぇか。ちくしょう…ちくしょう……」
成茜が顔を盛大に顰めた宗介の頬に唇で触れる。早速実践か?昴に似てるな。
「成茜…珍しいな」
「ママがそうしろって。」
「そうか…こっち来い。お前も大きくなったなぁ」
3人夫で蒼を取り囲み、溜息が揃う。
最近、ため息が癖になりつつあるな。ヤキモチに代わる新しい習慣になってしまった。
「何を喋れば良いのか、わからんな…たくさん、たくさん蒼と話をしてきた」
「そうだな。布団の中でもな」
「蒼が起きてたらそう言うのやめて!って言ってるよ?」
三人でかすかに笑い、何百回も口にした『愛してる』を囁く。蒼の瞼がほんのわずかにぴくり、と動いた。
交代で、蒼との思い出を繰り返し言葉にして伝える事にした。
出会った時のこと、初めて作ったお弁当、鬼おろしを気に入っていたこと、俺の卵焼きが大好きだったこと。クッキーが大好きで、何度食べても毎回飛び跳ねて喜んでいた事。
蒼から返事が返ってこなくても、頭の中の蒼がちゃんと微笑んでくれる。
戦争の指揮官をしたこと、身の回りの人たちを何度も救い上げたこと、たくさんの愛を交わした夜の話、車の話、レースの話、組織のみんなや茜の話…。
新婚旅行で行った聖地は一人で何回も行っていたな。スネークと桃の結婚の話や、雪乃とキキの女子会、実はストーキングしてたんだ、なんて暴露までして。
さっきまで何を話したらいいのかなんて言ってたのに、話し出したらいつまでも、いつまでも話が尽きない。
たった…10年。蒼が俺たちの時間をその期間を何百倍にも圧縮して、毎日毎日事件だらけで、ハラハラドキドキして、蒼に恋して、家族になって…子供を産んでくれて。
俺たちの愛の物語を、いつまでもいつまでも紡ぎ続ける。
一つ一つがキラキラ輝いて、一つ一つがかけがえのない思い出。本当に幸せだった。
あんなに尊い時間を過ごすことは、今後なくなってしまうだろう。
子供がいても、仲間がいても…蒼がなければ何もかもが色褪せてしまう。
怖いよ。でも、蒼が覚悟したことを受け止める。
そして、望まれた通り、生きていく。
蒼が俺を迎えにきてくれる、その日まで…。
━━━━━━
空に広がった黒の帷が、蒼い清洌な色に変わっていく。夜明けが来てしまった。
黒と、青と、白と、黄色と、赤と…ゴールデンアワーと言われる静かな朝に、蒼の吐息が続いていた。
ずっと降っていた雪は止んで、真っ白な世界が広がっている。……茜が、迎えに来たんだな。
「蒼の意識が戻ったぞ」
宗介の声で、ソファーからみんなが立ち上がり、集まってくる。
俺たち三人は蒼の手に手を重ね、目線を合わせる。
そうなる気はしていたよ。蒼の代名詞とも言える、この時間に…蒼が旅立つって皆、分かってた。
とろけるような琥珀の瞳が、俺たちを順番に見つめて、瞬く。
「昴…私を見つけてくれてありがとう。全部の始まりは昴だった…出会えてよかった。愛してる」
「俺も、愛してる。迎えを待ってるからな。今世でも、来世でも、その次でもだ。どんな姿でも、必ず会いにいく。蒼見つけて見せる。」
こくり、と蒼が小さく頷き、昴が優しく唇に触れた。
「慧…首輪とピアスは棺に入れてね…持って行きたいの。すごく、楽しかった。
愛してる」
「俺も…ずっと、ずっと愛してるよ。首輪の話はやめてよ…。新しいの買って、お迎え待ってるね」
ふふ、と蒼が微笑み、慧がそっと唇を重ねる。
蒼が俺の目と視線を合わせてくる。
逃げ出したい気持ちを抑え、蒼の目線を受け止めた。
「千尋…月が綺麗ですね…」
俺の心が、命がぴたりと時を止める。
お月見をしたあの夜が、蘇った。
静かな月明かりに照らされた、蒼が重なる。夜露に濡れた草木の香り、夜の静かな気配と蚊取り線香の匂い。全てが明瞭に再生されて息が止まる。
あの時俺を暖めてくれた同じ言葉は今、どこまでも体を冷たくしていく。
俺の心の余命も、今日が最期なんだとようやくわかった。一緒に心を連れてってくれるんだな。……嬉しいよ。
全部、全部持っていってくれ。俺の命は、蒼だけのものだ。
『月が綺麗ですね』の返答は、本来『死んでもいい』って言うのが正しい答えだ。今の心境ならそのまま答えたいけど…やめとくよ。次に会った時に言いたいから。
止めていた息を吐き、蒼の言葉に応える。
「ずっと、綺麗だったよ…」
ふんわり微笑んだ蒼に、しっかりキスを落として温かい唇を離す。二度と触れることのないその唇に力がこもり、引き締められる。
蒼が宗介を見る。キリリとした真剣な表情だ。
「あとはお願いね。宗介。約束を守って。あなたに全てを任せます」
「バカ。愛してるって言えよ!」
蒼の眉が下がる。困ったような、甘えるような微笑みだ。宗介にしか見せない笑顔に、胸がずきりと痛んだ。
「ごめん…大好きだよ…」
宗介が目を瞑り、頷く。
「みんなも、ありがとう。キキに会えなかったのは残念だけど…幸せだったって、伝えて」
三人でぎゅっとその手を握り、蒼の瞳を見つめた。
琥珀の色が褪せていき、焦点がブレる。
光が段々と収束して、瞼が閉じていく。
瞼が閉じ切って、涙が、一粒……こぼれ落ちた。
「あ、蒼…蒼…」
「蒼…」
「あおい…」
返事は返ってこない。微笑みを浮かべたまま、蒼の背から羽が大きく広がって、そして消えていく。
俺たちの瞳の光も、心の色も、全て小さなその手に抱えて…蒼が羽ばたいていくのが頭の中に浮かんだ。
――その刹那、スキール音が響く…。
中庭から一瞬見えた、救急車?何故…今になって?
「――今すぐにドアを開けろ!!!」
キキの声…?バタン、バタンと車のドアが閉まる音がする。
宗介が慌ててリビングのドアを開けて、そこにキキが飛び込んできた。
顔面蒼白で、汗びっしょりだ。
「蒼っ!!ふざけるなッ!!!アタシはまだ待てって言っただろ!?クソッ…くそぉっ!!!」
「……邪魔するぞ」
キキの後に、土間さんに蒼のご両親が現れた…。
「…心配蘇生だ!」
「「はい」」
ご両親二人が蒼にかけられた布団を剥ぎ、手に血圧計を巻いて、キキが横にした蒼にまたがる。
「うらぁっ!」
小さな拳が蒼の胸を叩き、キキは心臓マッサージを始める。
お母さんが蒼のパジャマを剥いで、お父さんが持って来たAEDを装着する。
「離れろ!3.2.1」
ドン、と鈍い音の後、キキが再び蒼にまたがり、カウントがなされる。
……何を、してるんだ?
「…微弱に回復!マッサージ継続!」
「説明をしておきましょう。あなた」
「あぁ…その、私は蒼のち…父です。これから蒼をファクトリーに運び、手術を行います。救急車には旦那様、宗介さんが同乗してください。他の皆さんは、バスで移動されてください」
優しげな印象から一変した彼は、真剣な眼差しで俺たちに告げてくる。
心臓が急激に動き出す。頭が回らない…落ち着け、落ち着け。
「ま、待って…どう言う事?」
「蒼を……?」
「静かな最期だったのに…どうして」
「さいごじゃない!!最期じゃないんだよ!!!!!!!!!!!」
キキが顔を真っ赤にして、涙を振り撒きながら叫ぶ。
「アタシが何のために、誰の為に必要のないノーベル賞なんかもらったと思ってんの!?アタシは言ったはずだ。蒼を絶対諦めないって!!!旦那達が諦めてんじゃねぇ!!考える暇があったらさっさと運ぶんだよ!!!!」
「き、キキ……まさか……」
蒼に酸素マスクをつけて、お父さんが抱えて運び出して行く。土間さんが救急車に乗り込み、エンジンをかけた。
「……蒼を、絶対に死なせない!!!」
キキの叫びが響き渡り、救急車のサイレンが鳴りだす。本能的に俺たちは走り出して、キキと共に救急車に飛び乗った。
2024.06.19改訂版新規投稿