【閑話】フェロモンの香水2
第百二話【閑話】香水 2
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蒼side
「ねーえ、すごかったねぇ。店員さんすごく真剣で、わたし感動しちゃった」
「そうだな…」
「うん…」
「すごいな…」
あれっ?なんだか三人とも元気ない。
どうしたのかな?
香りを作るのに時間が欲しいとのことでクレジットカードを先に作りに向かってるんだけど、みんなくっついたままで凄く歩きにくい。
今日は子供達のお洋服を買いにちょっと遠出してショッピングモールでお買い物しているんだけど。私達のクレジットカードも作りたいし。
香水調合をしてくれるお店を見つけてワクワクしてたのに。
「どうしたの?思ったのと違った?」
「いや、香りって大事だよなと思ってさ。蒼の香りが言葉は違えど、最終的に嗅いだ香りが全く同じだったんだ。
匂いの移り変わり…ノートの変化がすごくて。俺たちの恋心みたいで…切なくなってしまった」
昴がつぶやいて、二人がうんうん頷いてる。
私は言葉が出てこない。ただただ顔が熱くなってしまう。
「あ、ネイルサロンだよ。…なんかあれだね、黒いね」
慧がしょんぼりを断ち切るように元気な声で伝えてくる。
うーん、これは掘り下げない方が良さそうかな。慧の話に乗っておこう。
「わぁ、ほんとだ。こういうイメージのお店は大変なんだよ。粉が出るから、掃除を本当にこまめにしないとなの」
クレジットカードカウンターの手前に真っ黒なネイルサロンがある。
中に区切られたブースは白いカーテンが覆ってるけど…壁も床も、受付カウンターも黒い。
これは苦労しそうな作りだなぁ。
入り口脇にたくさんサンプルが置いてあって、看板には《飛び込み歓迎》の文字。
「蒼、やってきたらいいんじゃないか?自分で利き手をするのが億劫だって言ってただろ?」
千尋に言われて、思い悩む。ケアだけなら15分くらいだし…。
「んん?うーん。ケアだけなら入れるかなぁ。他のお店に行くのも、お勉強になるから行きたいけどねぇ」
ちょこっと覗くと、床を磨いてる女の子。長い髪を一つに縛って、黒いエプロンをしてる。
ハッと気づいてこちらに駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませ!」
「あの、今日は予約空いてますか?ハンドケアだけなんですが」
「今すぐはご案内できないのですが、30分後でしたら可能です!いかがでしょうか」
お店の中は微かな笑い声と、会話がさわさわと響いている。
懐かしい。こういうの…。いいな、複数スタッフがいるサロンの特徴だ。
「カード作ってくるのでちょうどいいかもしれません。いいかな?」
振り向いて三人に尋ねると、みんな同時に頷く。
「じゃあお願いします。また後で来ますね」
「かしこまりました!お待ちしております!」
店員さんに笑顔で手を振られて、ふりかえす。
「お店の周りにある爪の形のは…見本なの?蒼も作ってたよね。すごいね、あんな小さいスペースにいろんな絵が書いてある」
「そうだよー。わたしもたくさん持ってたでしょう?予約の合間に作るの。チェーン店は回転率が命だから、休憩もご飯食べる暇もなくて…あれを作るのも大変なの。」
「それで蒼は泣く羽目になったんだね」
「そうなの。でもそれも楽しい思い出になったよ。慧のお陰で泣かなくなったし」
「へへ…それは良かった」
慧が照れながら耳を触ってる。
ピアスがなくなっても変わらない癖がかわいい。
「なんかいいねぇ。普通のデートみたい。こういうのした事なかったなあ」
るんるんしながら言うと、成茜を片手に抱いた昴が手を握ってくる。
「楽しいか?」
「うん!」
ニコニコしながらようやくクレジットカードのカウンターに着いた。ここに来るまで長い道のりでした。
「いらっしゃいませ、本日はいかがなさいましたか?」
「カードを作りたいのですが…空いてますか?」
「もちろんでございます。こちらへどうぞ」
笑顔の店員さんが椅子を出してくれて、みんなで並ぶ。…なんでじゃんけんしてるの?
ピースをわきわきしながら千尋が横にかけて、がっくりした二人がその横に並んで座る。
私の隣を取るのに、いちいちじゃんけんしてるの?…何年経っても可愛い旦那さんたちなんだからもう。
クレジットカードの種類を選択して、年収や個人情報を書き込んでいく。
わたしの年収怖い。ゼロが増えた。個人店なりにまぁまぁ稼いでいたのに…この数字は確かに税理士さんが必要だね。
私は小さくため息を落とした。
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「招待制のカードとか…完全にステータスカードだよねぇ。怖いなぁ」
「とりあえずのカードは出来たからいいだろ?」
「インビテーションが来たら後で作り直しでしょ?めんどくさいんだね。こう言うものって」
「まぁな…職業柄嘘は書けないし」
みんな苦笑いしてる。クレジットカードは年収によって作れる種類が変わるけど、みんなお揃いの可愛いカードを一旦作った。ステータスカードはめんどくさいけど…招待状が来るらしいからそれ待ちかな。私はこのままでもいいけどどうなんだろう?税金対策になるかな。
でも、これで通販もできる。現金で一括だと持ち歩くのも怖いし、昴と千尋が警察辞めて良かったかもね…。秘匿部署の人達はみんな苦労されていることでしょう。
「じゃあ終わる頃に迎えに来るね」
「あんまり高いもの買いすぎないでね?」
「心配するなって。楽しんでおいで」
「また後で」
子供を抱いた三人に変わるがわる頬にキスされて、ネイルサロン入り口で迎えてくれたスタッフさんに席に案内してもらう。
懐かしい匂い。歯医者さんのような、シンナーのようなつんとした匂いはネイルサロン独特のものだ。
リクライニングチェアに座って、受付してくれた子と違う女の子が出てくる。
長い髪を緩く巻いて、濃いめの化粧…とくに目元がキリリと引き締まったアイラインで強調されている。マスクをするから目の周りが濃くなるんだよね、メイク。わかる。
「よろしくお願いします、今日はハンドケアでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
にこりともしない女の子はちょっと不機嫌そうだなあ。ファイルの動かし方も雑な感じで、お道具を載せたワゴンが掃除されていない。
わかる。忙しいんだよねぇ…。
ファイルがシュッと通った指先に痛みが走る。うーん、なるほど。皮膚避けがちゃんと出来てない。
怪我になると昴達がびっくりするし、あんまり言いたくないけど。
「あのね、スキンダウンちゃんとしないと、皮膚が擦れて痛いよ…」
「あっ、ご、ごめんなさい…もしかしてお姉さんネイリストですか?」
「うん、そうです。元、だけど」
「そうなんですね。すいません…」
スキンダウンをしてくれるんだけど今度は引っ張りすぎてる。うーんうーん。
「あの…そこまで力を込めなくていいの。うるさくてごめんなさい。でも…」
ネイリストの手を取って、角度をつけて皮膚をにゅっと上げる。
「下げるだけじゃなくて、こうした方がいいよ」
「…すご…うわ、すごい!ちょ、ちょっと教えてください!私研修を碌にしてなくて、クレームばっかりで…お客様なのにすみません!あの、こう言う時はどうしますか?」
不機嫌で光のなかった目に輝きが灯る。
みんな本当はこのお仕事が好きではじめたのに、忙殺されてやりがいを見失って、苦しみながら働く時期が必ずある。
私も先輩に救われた事があるから、ちょっとだけなら…いいかな?
「こういう時はね、こうして、こう…あと、ニッパーはどこの使ってるの?」
「光です。スクールの時からずっと使ってて」
「jrか…これもいいんだけど、あなたの手のひらの大きさだと内海のイクシアの方が合ってると思うの。刃先が4mmなのは変わらないし、とんがり具合が動かし方にもあってる」
「そうなんですか!?わぁ…次のセールで絶対買います!あの、あの…お姉さんは筆何使ってますか?」
次々に繰り出される質問に私もワクワクしてきちゃう。ニコニコしながら答えているといつのまにか他のネイリスト達も集まってきた。
「ちょっと!あんたお客さんに何してんの!」
「店長!お客様が凄いんですよ!私知らないことばっかりで…店長よりすごいですよ!」
「ほほう、なるほど?」
さっき床を磨いていた店員さん。店長さんなんだ。偉くなってもお掃除できる人は凄いんだよね。みんな素直でいい子達ばかりだ。
「外のサンプル私が作ったんですけど、どうでした?」
伺うように言われて、素直に答える。
「デザインはすごく可愛いんだけど、曲線のラインがちょっとぶれ気味かな…太いし。筆の使い方が間違ってるなぁと思った。ごめんね」
「そ、そうなんですよ!!私も悩んでるんです…」
店長さんが自分のワゴンから細筆を持ってくる。
「これ使ってるんですけど…」
「いい筆だけど、使い方のコツがあるの。毎回ジェルを取るたびに拭き取って形を整えて、根元まで含ませたらダメ。先端だけにつけるの」
「えっ!?習ったのは全体に含ませて…ってやり方でした」
「それだと根本のジェルが引っ張られて多く取られちゃうし、筆先じゃなくて中間あたりに雫が溜まるでしょ?」
「そうなんです!!!」
他のスタッフさんがネイルチップを装着したジグを持ってくる。
「あの、あの!ちょっと書いてください!デモ見たいです!!」
「私でいいの?」
「お姉さんがきちんとした方なのはわかります。ぜひ、お願いします!」
女の子達に頭を下げられて、苦笑いを返す。ここまで言われてしまったらもうやるしかない。
「わかった。じゃあ、よく見てて。細筆は側面を使うの。筆の扱き方だけど…」
私の手元に顔が集まってくる。私もこうやって先輩に教わってたの。懐かしいな。楽しかったな…。
微笑みながら筆と口を動かした。
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千尋side
「遅いな…何かあったのかな」
「どうする?」
「女性しかいなくて入り辛いんだよな…なんか蒼が入ったブースにみんな集合してるが…」
蒼のハンドケアが終わる頃に粗方買い物を済ませて集合したんだが、中々出てこない。
どうしたんだろう。
中からわぁ!と歓声が上がる。
女の子達がわちゃわちゃしてるのが白いカーテン越しに薄く映ってる。何してるんだ?
「ん?あっ、お迎えが来ちゃった…」
「はっ!?すみません!!お客様なのに…あわわ…」
チラッとカーテンに割れ目ができてリクライニングソファーに座った蒼が苦笑いしてる。スタッフの子達がみんな集まって取り囲まれてるけど、何事だ?
「蒼…?」
「すみません!まさかネイリストの方だと思わなくて…私たち教えていただいてしまったんです。手分けしてケアしよ。そっち手伝って!」
「はいっ!」
開かれたカーテンの中で蒼の両手にスタッフさんが分かれてサクサクと作業し始める。
数人がこちらに駆け寄ってきて、眉を下げて頭を下げる。
「すみません!あの、中へどうぞ」
「男が入っても平気なのかな?」
「大丈夫です!今は貸切なので。椅子に座ってお待ちください」
蒼の近くに椅子を置かれて、大人しく三人で座る。子供達はぐっすり寝てるから、大丈夫だとは思うけど。
「すぐ終わりますから!」
「本当にごめんなさい!」
蒼の手に張り付いた子達が作業しながら謝ってくる。
「いいよ、ゆっくりどうぞ。蒼はまた何かしたな?」
「えへへ…」
カーテンを完全に開いて、女の子達がまた集まってくる。
「蒼さんは巻き爪の資格はどちらで取ったんですか?」
「パートナーでとったよ。今種類増えてるけど原価が高いから、結局はBSに戻してたの」
「確かに…ジェルできるからって導入したけど材料が高いから、料金も高くなってしまって。
巻き爪メニューが全然出なくなってしまったんです」
「高すぎると専門店には負けちゃうよねぇ。でもビフォーアフター写真を撮って、お客様の感想を載せたりすれば集客はできるよ。悩んでる人は必ずいるから。最初は原価ギリギリでモデルさん募集してもいいの」
「そっか…ありがとうございます!」
「あの!蒼さんみたいに都会で開業するとしたらどのくらいお金が必要ですか?」
「家賃もそうだけど、全体的な支出は大きくなるから…顧客さんを作るまではお店で数年働かないと。連れ出したら裁判されちゃう事あるから、ちゃんと面接の時に話して…」
蒼にネイリストの子達がみんなで質問してる。そういう事か。
「蒼が先生してるのかな」
「そうみたいだな。蒼は個人店開いていたベテランだし」
「駅前のいい場所だったもんなぁ。あれが維持できるんだから。顧客さんの数もすごかったし…」
ニコニコ微笑みながら質問に答える蒼が楽しそうにしてる。お客さんで来たのに、面白いことになってるな。
次々に出される質問、迷いなく答える蒼。
見ていて痛快で面白い。話の内容は全然わからないけど…みんなキラキラした目で真剣にしてる。
いいな、こういうの。蒼はこんな風にしてたんだな。
「完了しました!お待たせして申し訳御座いません!」
ぺこりと頭を下げたスタッフさんに微笑みを返す。
「大丈夫だよ。綺麗にしてくれてありがとう」
蒼がリクライニングチェアから降りて、爪をみてる。
「私も久しぶりに人にしてもらって嬉しかったなぁ…ありがとうございました」
「こちらこそです!!色々聞いてしまってすみません。今日はお代は結構ですので!」
「えっ?ダメダメ、ちゃんとしてもらったんだもの。お支払いはします」
「えぇ、でも…お客様なのにデモまでさせてますし…」
「いいの。楽しかったから。だめだよ、チェーン店は厳しいの知ってるんだから」
スタッフさんがしょんぼりして、レジに立つ。それを見て俺たちも席を立ち、入り口で待つ事にした。
奥から出てきた数人がネイルファイルやらオイルやら、それぞれ持ち寄ってわちゃわちゃしながら蒼に渡してる。
面白いな。どこに行っても予想外のことが起きてしまう。
「ありがとうございましたぁ!」
スタッフ全員に見送られて、蒼が手を振りかえしてる。結局紙袋いっぱいに何かしらをもらってきてしまってるんだが。凄いな。
「何かたくさん貰っちゃってるな?」
「こんなはずじゃなかった…」
「蒼だから仕方ない」
「そうだねぇ。楽しそうだったね」
「うん…みんないい子だったなぁ。楽しかった!」
蒼の周りはいい子しかいなくなるってこと、いつ気づくのかな。本人がこうだからそうなるんだぞ?
「香水が出来たそうだから、取りに行こう」
蒼が手を繋いでくれて、最初のお店に戻っていく。蒼の爪先がツヤツヤしてる。
「つやつやになってるな。元々綺麗だけど、もっと綺麗になった。桜貝みたいですごく可愛い」
爪先にキスすると、蒼が真っ赤になる。
「千尋は本当にもう…頭がのぼせちゃうよ…」
反対側の手は小競り合いの末に慧が勝ち取っていた。
「もー。順番にして。喧嘩しないの」
「「はい…」」
蒼に怒られてしゅんとしてる二人を笑っているうちにお店に到着した。