七十六話 天命
「聖童師と吸血鬼は天上人によって創られた異形の存在」
三芸貞歴代代表だけが知らされる歴史の一幕。
吸血鬼を創り出した者の名を。
サタン・ギルティエヴォル。
聖童師を創り出した者の名を。
ルシフェル ・エスポレヴォル。
始まりの聖童師の名を、戸津 始雨日。
その年は雨が全く降らず干ばつに見舞われた。畑は水気が無くなっていき今年の収穫を諦めようと話をするほどだった。
それから数日後の始雨日が生まれる十分前、今までの分を取り返すかのような土砂降りが地域一帯の大地を潤わせた。
そのことから始雨日と名付けられた。
その日から雨は今まで通り降り出し、豊作の年とまで言われた。
十三歳の夏、初夜を迎えようとしていた始雨日はその女と最低でも十日間は部屋に籠る心持ちで今布団の上にいる。身を清めた女が直に来る。
裸一貫で先走る気持ちを抑え、天井を眺めていた始雨日の前に突如、光り輝く彫刻像が現れた。
それは異邦人のような彫りの深い顔立ちと美しく引き締められた肉体を持って始雨日の前に降りて言い放つ。
「私の名はルシフェル ・エスポレヴォル。
君に天命を授けに来た」
温かさを含んだ声は自然と心に沁み込んでいった。
世迷言をと一蹴するつもりで起き上がった始雨日は気づけば片膝を着いていた。
本能で上下関係が構築された。
「私たちが人と関わる事は禁忌とされている。
だから見つかり次第、私は冥界に閉じ込められるだろう。それでも人を放っておけなかった、サタンの好きにさせたくなかった。
直に理解する、その身に背負った天命を。
血を絶やすな。種を撒け。
聖を持って魔を滅ぼせ、道を切り開く者よ」
その言葉を最後に、輝きは消失し同時にルシフェルと名乗った者も消えていた。
残ったのは下腹部の熱だけだった。この昂りをどう沈めようか。
襖を開けて部屋に入ってきた女の髪が月明かりに照らされる。
普段纏めているその黒髪は絹糸のような艶やかな艶を放ち思わず指を通したくなった。
通してみれば水のようにさらさらと指の間から流れ落ちていく。それがたまらなくそそられた。
白い衣は体のラインを映し出し、はだけさせれば妖艶を纏う。
(…)
不意に邪な気配を感じた。屋敷には始雨日と女の家族以外誰もいない。
少し離れた位置にある部屋に女の家族の存在をなぜか感じられた。
これはいったいなんなのか。合理的に結論づけるとするならば、さっきのルシフェルと名乗った者の影響となるだろう。
不可解は不可解を呼び寄せる。天の使いか魔の使いか。
邪な気配はこっちに近づいてきている。捉えどころのない気配がゆらゆらと迫ってきているのがわかる。
どうするのが正解か、女を布団で包み込む。
度量の大きい女は目を閉じて頬を赤く染める。
月を背にして現れたのは士気色に染まった虚ろな顔をした男だった。俺を見つけるなり目を血走らせて飛びかかってきた。
(バサっ)
「よよいおいよいっ」
こんな突拍子も無い状況に、頭ではなく心が体を動かした。本能のままに体は従う。
月明かりに照らされて空中で何かが光る。
それは命の灯火、正しくは命の灯火を断ち切る光。
両手の人差し指と親指は何かを摘み、ほんの少し何かを引っ張るように腕を広げた。
(ビィンっ)
男の首が飛び、燃えるように熱い血液が顔にかかる。
転げ落ちた頭と立ち尽くした体は塵となって消えた。
始雨日はこの時深いエクスタシーへと誘われた。今までに感じたことの無いような快楽に腰は砕けた。
人攫いの噂は聞いていた。実際に身の回りでも知り合いがいなくなっていた。
その一端を知った気がした。本能のままに男を殺した事で芽生えたのは半信半疑の正義感。
天の使いであると信じ、禁忌であることを知りながら、自分を犠牲にしてまで人間を守ろうとしたその義勇は信じるに値する。
この目で見たのだ。この目で見たものを信じると昔からそうしてきた。
倦怠感に苛まれた体とは逆に、頭は異常に冴え渡りあらゆる情報を掌握しているような全能感に陥った。
この状態が数十分続き、その間自分の置かれた状況を鑑みてこれからの人生設計を組み立てた。
その晩から数えて二十の夜を女と共に過ごした。
それから始雨日は精力的に動くようになり、いつしか名を残すまでに至った。
実体験を基にした夜の本は一斉を風靡するほどまでに名を馳せ、地位と財産を築きあげた。
十五人の妾をそばに置き、十年で計三百四十人の子を授かった。五対三対二の比率で三つ子双子一人子が生まれた。
妻との子供は三つ子と双子の五人。
これは天の使いの御業なのか、始雨日の力か。
年長組が性を知覚しだした頃、予想していた異変が起きた。
あの日以来使えなくなった超能力を子供たちが使えるようになっていた。
これにより人生設計は計画通りに消化していくこととなった。
あらゆる関係性を調べ尽くし纏めあげた。
問題は始雨日自身が超能力を知覚できていないこと。
これも考えが正しければ貞操の喪失。年長組にはそれを徹底させ、その後に生まれてきた比較的穏やかで争い事が嫌いな子たちを使い確証に至った。
繁栄の為にやれることをやった。
超能力の使い方は親子だったからかスムーズに教えることが出来た。
一つ問題があるとすれば殺されてしまうこと。今ここで死んでしまえば統率の取れていない超能力を持った子供が暴れだしてしまう。
それだけに気をつけて士気色の顔をした男たちを殺していった。
時間が経てば年長組を筆頭に組織が構築されていく。
それぞれの代表の名を冠して付けられたのが、戸津家、間壁家、應永家。
総称して三芸貞となった。
次第に全てを子供に任せるようになりしばらくの平穏が続いた。それなりに力を入れていた(家族全員を養うため)執筆活動も、ついに下半身が機能しなくなった頃に終わりにした。
自らを聖童師と名乗り、敵を吸血鬼と名付けた。
表では性の開拓者。裏では聖の開拓者。
始雨日を最も的確に表す二つ名は。
二つ名が多すぎる男。
表でも裏でも台風の目だった始雨日はやること成すこと全てが上手くいった。
あの日作った人生設計も佳境に入っていた。
そしてこれがあの日決めた人生設計の中で唯一のわがまま。これまで全てにおいて自分を殺してきた始雨日はなぜこれほどまでやれたのか、それは最後にやり遂げなければならない事があったからだ。これのために今までやってきたと言っても過言では無い。そう思えるほどのものだった。
あの日あの時、たった一度だけ味わった深いエクスタシーが頭の中にいつまでも張り付いていた。
成功の快楽や性交の快楽では到底足りない。
これまでの人生全てを上回っているあの日の色褪せないエクスタシーをもう一度体験するために。
始雨日はその日、三芸貞が造った牢屋に足を運んだ。
吸血鬼を閉じ込めている牢屋の鍵を一本握ってその牢の前まで来た。
聖童師となった全員が吸血鬼が人の成り代わりだということを知っている。
故意に吸血鬼になることを禁忌としている。
自分自身が作った禁忌を今、犯そうとしている。
牢に捕らえていた一体の吸血鬼と逃がす代わりに吸血鬼にしろとの交渉をし、長年待ち望んでいた吸血鬼へと成り代わった。
もちろん吸血鬼になった後、逃げようとしていた吸血鬼は殺した。
数十年ぶりのエクスタシーは当然のように始雨日の腰を砕いた。
当然、始雨日が聖気を纏えば事の顛末が明らかになってしまう。貞操を捨てた者がどうして聖気を纏っているのか、答えは一つしかない。
長年子供たちに教えてきた言葉。口を酸っぱくして言い聞かせた。
「心を見ろ。人を殺してるかなんてのはそれでわかる」
十年、二十年。
曾孫までもが聖童師になり始めた頃、年長組が老衰で倒れだした頃、周りは異変に気づく。
それは始雨日が七十歳を迎えた頃。
かれこれ数十年、始雨日の見た目に変化が訪れず、平均寿命を超えても変わらず生き生きとしている事。
そもそも聖気を持たないのに見た目を維持している事、全てが異常だった。
始雨日の妻は早くに亡くなっていて、妾も亡くなり次世代までもが亡くなっていて、なぜ一人ピンピンしているのか。
周りや始雨日が文句無しに認めた優秀な聖童師、それから全ての聖童師を、聖気を失った者として騙した。
戦慄している聖童師の前で言い放つ。
「蒙昧ちんけ。子が親の腹を知る道理など無い。
安心しろ。子の躾は親の仕事だ。
お前らが吸血鬼になっても俺が殺してやる」
始雨日が部屋を出ると部屋に張り詰めていた緊張の糸が解ける。否、実際に始雨日の聖気が部屋中に張り巡らされていた。部屋を出ると同時にそれは消えた。
一歩でも動けば首が飛んでいただろう。それほどまでの圧迫感を聖童師たちに与えていた。
そして誰よりも多くの二つ名を持っていた始雨日だが、吸血鬼となってからは千年以上経ってなお、たった一つの二つ名で呼ばれ続けている。
そして現代。三芸貞が集まり戸津家代表、戸津 弾十郎はその情報を開示した。
「長きに渡る一族の汚点を今、払拭するんじゃ。
色欲。吸血鬼殺し 戸津 始雨日を狩る。
害獣か益獣かで言ったら益獣になるんじゃろうな。じゃが、それは儂たちの仕事じゃろて、快楽に堕ちた古人はいらん。
死んで歴史の名に沈め」
最も偉大な聖童師であり、最も愚かな聖童師でもある。
戸津 始雨日。童質 聖糸
わざと作中では描写していませんが、始雨日の吸血鬼の殺し方は首に絹糸を巻いて切り落としました。
紙粘土を糸で切るみたいな感じです。




