五十九話 雅 惨
雲の上、天高くに位置するこの雲から見える景色を遮るものは何も無い。視線の先、遥か遠くに、でも手を伸ばせば届きそうな地平の線。
気づけば伸ばしていた手をそっと下ろす。
天と地の狭間の境界線。何よりも美しいその場所が、僕は好きなんだ。
僕の背中を睨み猛烈な苛立ちを向けるのは。
「どこ見てんだよ、おいっ!
テメェの相手はこの私だぞ。その無表情、イラつくぜ。
格下だと思ってナメてんだろ」
「少し乱暴な口だね、マイルドに行こうよお嬢さん」
「っるせぇんだよ、スカし野郎」
「今一度尋ねるけど後悔しないでね」
彼女には悪いけど一方的な戦いになることを許して欲しい。そればかりか僕たちでは戦いにすらならないのは君が悪いよね。
権利とは強者によって行使される。天地がひっくり返ろうと地平線はそこにあるように、これは決定付けられている。
「私は天草」
「僕は明乃森」
名乗りを終えればいよいよ戦いが始まる。
緑のビキニアーマーの天草ちゃんは黒髪のポニーテールを揺らして半歩、左足を前に出す。
両手で握られた黒鉄の槍先をこちらに向けてどっさりと構える。
研ぎ澄まされた意識は空気を張り詰めて、空間に緊張を生む。
その眼孔は槍と同じくらい鋭く、それだけで息が苦しくなるような威圧感を纏っている。
ただし、それは相手が一般人だった場合の話。
睨まれて萎縮するのは被捕食者の証明だよ。
「蝕め刺し殺せ。黒槍啜舌鼓」
「それじゃぁ、始めるよ。
雨ニモマケズ風ニモマケズ。その足、大地に根を張る大樹の如く。その心が映す情景は真である。
心象投影 大獄四場」
詠唱と共に走り出した天草ちゃんは槍を握っている手に力が入る。
グッと体に力が入り、沈み込むように体勢を低くしながら槍を突き出す。
(ブォン!)
槍の先端下部が横一線に開き、中から蛇のように先の割れた赤い舌がチロチロと姿を見せた。
しかし、その槍が届く前にこちらの場面が整う。
「『緑湖平濫』
荒波立てずに制すが誉れ」
雲の上の花園から一転、場面が変わるとそこは湖。
どこまでも続く灘らかなエメラルドの水面が広がる。
「なんっ!?」
(ジャパァァンッ!!)
地面が水となり、必然的に彼女は落ちる。水面が乱れて波が立つが状況は何一つとして変わりはしない。
波打つ波紋は綺麗な円を描いて音も無く広がっていく。
心の揺らぎ、情緒の乱れが足元をすくう。
水に飲まれてジタバタともがき足掻く。
しばらくすれば落ち着きを取り戻して立ち泳ぎになる。
どちらが優位かは明らかで、彼女は水の上で抗う術を持っていない。
僕は波紋を立てずに水面を歩いて近づき手を差し伸べる。実際の手では無く、言葉を。
必需の術を伝える。
「足掻くなら今のうちだよ、天草ちゃん。
心·技·体、そのどれもが欠けている君が戦いの場に戻るには、何かそれを補う能力を身につけるしかないよ。今この時にね」
後悔に沈む哀れな子羊に手を差し伸べる僕ははたして天使か悪魔か。
決して彼女をいたぶって戦いを長引かせている訳では無い。必要な事だからやっているに過ぎない。そのために塩を送るのははなして傲慢だろうか。
否、清廉にして潔白。
「言われなくてもやるさ。
そのニヤけた面を苦しみで歪めてやるまではへこたれねぇ」
すると、動きを止めて水の中に沈んでいく。
プクプクと水中から空気が浮き上がって割れる。
水中深くまで見えるほどに澄んだ湖で、彼女は身動きせず静かに沈む。
聖気に反応してか、再び水面が揺らぐ。
「童質改変。
『皺寄相手開口』
腸抉って度肝抜いてやるよ」
そそり立ちめくれ上がるのは闘志に燃えた魂のベール。
両手に現れた口からさっきと同じような蛇の舌がチロチロと飛び出る。
両手が水面に触れると瞬く間に固まっていった。水中までは固まっておらず、水面だけが黒く固まっていた。
それを足場にして水中から飛び出す。
「よぉ、這い上がってきたぜ」
その瞳はどこまでもまっすぐだ。僕を倒す事に一直線で、そのためならなんでもやりそうな意志を感じる。
次の世界をご覧にいれよう。
『憤慨騰地』
緑の湖は溶岩地帯へと変貌を遂げた。
グツグツと赤い溶岩が赤い飛沫を巻き上げる。
(ジュっ!)
「!?」
彼女の足先が焦げる。
突然の場面変化に戸惑いながらもさっきと同じように溶岩に両手を乗せる。
(ジュっ!)
「ァッチィ!」
直ぐに離した両手は酷く腫れ上がっていた。
そして黒い足場が形成されていた。
しきりに首を傾げれば、ふと思い立つも朝はそれを許容しない。
一向に勢いを止めない溶岩は黒い足場を侵食していく。
足場を形成していくが、間に合わない。
ここはそういう場所じゃないからね。
「くそっ!この!なんでだよっ!」
腫れ上がった両手は既に形を保てていない。
手首足首、前腕大腿が溶けていった。
「何とか言えよこの野郎っ!!」
ふつふつとその体は飲み込まれた。
「んはっ!!」
気づけば雲の上の花園へ。
「やっと起きたね」
跳ね上がるように飛び起きた彼女は自分の手足を見る。
「何が……起きてんだ」
五体満足の自分の状態に混乱は増していく。
「あそこは精神世界だからね。
もう一回行くかい?それとも降参しとく?」
「あ、ああ。降参だ。
私じゃお前に勝てねぇよ」
「それじゃぁしばらくここで静かにしていてね。僕はここを離れるから」
「けっ。どうせマスターアダルトの所にでも行くんだろ。邪魔するつもりもねぇし逃げるつもりもねぇよ。
だがよぉ、強ぇぞ。うちのマスターアダルトは」
「問題無いよ。問題にすらならない」
「はっ。意味わかんねぇ」
「それじゃあね。行ってくるよ」
確かに僕じゃ、手が余りそうだね。
それと、誰も欠けなきゃいいけど。
野呂間 VS 竜胆。
「貴様らが聖童師の貞操を奪っていったんだろう。このケダモノが」
「ご、ごめんなさいっ!
でも仕方がないんです。ボ、マスターアダルトが決めたことなので、私はそれに従うだけです」
「口答えはいらない。吸血鬼と交わす言葉を俺は持ち合わせていないからな。
死んで詫びろ」
「で、でも…指示されて嫌々やってるわけ━━」
「吸血鬼は大人しく殺されればいいんだよ」
「覚悟は……してますよ。殺す覚悟も。殺される覚悟も。
殺されるなら抵抗するだけです。今まで通り」
見た目とは裏腹に案外図太い精神的しているようだな。はは、吸血鬼はそうでなくちゃな。
そうさ、吸血鬼はみな害虫だ。無害そうな見ためっちゃでも結局はそういう生き物なんだ。
俺はそれをよく知っている。
『喚き散らせ。愚獣武装』
身体中を獣の毛が覆い、手足の爪が太く鋭く伸びる。手足を地面に着けて戦闘態勢に入る。
「あ、あなたの方がよっぽどケダモノじゃないですか。あ、ごめんなさい。つい思ったことを……」
ふん。そんなことは分かってる。俺だってこんな姿が嫌いだ。だからこそ、やれるってもんだ。
その全てをお前にぶつける。
「覚悟しろ。一度狙いをつけた獲物にはどんな事があっても噛み付く。それが獣の在り方だ。
この姿になるとよ、気性が荒くなっちまうんだよなぁ。
ブチのめすぜ!!このアバズレがぁ!!」
覚悟の宣言を唱えると四肢は爆発する。
吸血鬼を狩るために一直線に懐へ飛び込む。
鋭く研ぎ澄まされ剥き出しになった四肢の爪で急所を穿つ。体全体が他者を屈服させるための武器。
空中で一度丸く縮こまった体はそのままで、一瞬脚だけを伸ばして空中を蹴り、さらに加速する。
反応される前に首を切る。
首元に迫り、右手を振りかざす、
(パチィンっ!!)
『凹凸』
首を掻っ切ってるはずの右手は首まで届かず、あまつさえどこからともなく取り出した鞭に弾かれた。
「くっ」
光沢のあるエナメル素材で出来てるような黒鞭。乗馬で使われている鞭のような、先端が平べったいやつだ。
「そうか。お前が『処女狩り』か。いや、もっと正確に言うと『聖童師殺し』」
聖童師を引退して言った奴らが口々に呟いていたのがお前だったのか。
あいつらは全員こいつに。
「飛びっきりの害虫じゃねぇか。これなら躊躇いなく殺れるってもんだ」
俺があいつらの仇をとってやる。
「それは否定しませんけど、先に手を出してきたのはそっちじゃないですか。
そんなので無抵抗で殺られるマヌケはいませんよ。狩るつもりで来て狩られる方がマヌケなんです」
間違っちゃいねぇ。吸血鬼の中にわざわざ自分から狩られにいくやつなんざいねぇよ。
ましてや殺しにくる相手に情けをかけるやつもいねぇ。
「確かにそれはそうだ。だがなぁ、お前ら吸血鬼は存在しちゃいけねぇんだよ」
「……今、肯定しましたね?
私の意見に同意しましたよね」
ここに、天草に従う野呂間という絶対的な主従関係が制定された。
天草の言葉を肯定することが条件となる。
な、何が起きたんだ。だんだんと昂りが冷めていく。
目の前の吸血鬼に対しての敵対心が無くなっていく。
俺は今、どうなってんだ。
髪をかきあげると真ん中で割れて左右に別れていった。
黒髪ボブなのは変わっていないのに、さっきまでの大人しい印象だったのとは打って変わって、表情や仕草から棘を感じる。
眼鏡の奥からは鋭い眼光となって睨んできている。
「私の問いには一秒以内にハイかワンで答えな。
逆らうならその萎れたけつ穴にフックを着けてここからバンジーしてもらうかんな」
なんなんだこれは。マイクロビキニが様になっている。
鞭との相性が良い。
その蔑むような目で、その強靭な鞭で、乱暴に叩かれたい。
「だはっ!!」
なんだ今の思考はっ!!落ち着け、まだ俺はやれる。決着が着いたわけじゃない。
諦めるなんてことあっちゃならねぇ。ここで諦めたら今までを否定することになる。
こんな所で俺は終わらないぞ。
(シュっ!!)
無防備に近づいてきて鞭を振る。
その場から動けず自然と腰が下がり、自分から見下されるようなポジショニングを取っている。
ギリギリまでその半分閉じられた瞳を見て。
(パチィンっ!!)
「オラオラオラオラ!なに地面に手ぇ着いてんだよ!
誰が手を着いていいなんて言った?ああ?
根性無ぇなぁ!ケツ向けな!」
クソやろう!体が言う事聞かねぇじゃねぇか!こんなんで屈しないぞ。
なんでだよ。心の片隅で欲しがってる自分がいるのが情けねぇ。
「屈服すれば楽になんだよ。
聖気を失ったら裸で社会に出て真っ当に働いて貢献しろよ。
それがお前にできる最低限の社会奉仕ってやつなんだからよぉ」
(パチィンっ!!)
(パチィンっ!!)
もう……もう嫌だ。体がもう、俺のものじゃないみたいだ。
愚獣武装を解いた時が俺の最期だ。これだけの攻撃を無防備で受けてられるのも愚獣武装だからだ。
もう、いいかな。
(パチィンっ)
「うがっ!」
今回は大きく飛ばされたな。地面が分からない。いつになったら地面に着くんだ?
なんでこんなにも風の抵抗を受けてる?
「ははっ」
そうか。俺は雲から落ちたのか。どれだけ吹っ飛んだんだか。
地上までは数秒かな。愚獣武装なら耐えられると思うけど。
もう戻れないや。俺の心はもう落ちた。
身も心も空っぽだ。
(ズドォォォン!!)
「おい!なんか降ってきたぞ!」「なんだ?これ」「なに、なんかの撮影?」「自殺?」「めっちゃやばいんだけど」「近づかない方がいいんじゃね?」
「救急車呼んだ方がいいかな」「いや、」「これ」「どう見ても化け物でしょ」「救急車でこれ運ぶの?」「うえっ、めっちゃリアルなんだけど」「てか、どっから落ちてきたん?」
交差点のど真ん中に落ちた毛むくじゃらの化け物。
野次馬が寄って集ってスマホを取り出す。
気づけば赤信号になってなお、その野次馬が消える事は無かった。
「とうさん……かあさん。
俺も吸血鬼に殺されちゃったよ。ちくしょぉ……復讐…出来なかったなァ……。
くそぉ……くそぉぉ」
人だかりの中、野呂間は気を失い聖気も失った。




