『速記者、恋わずらいになる、死す』
ナルシスは、美しい青年でした。ギリシャの光源氏と呼んでもいいくらいに。
しかし、ナルシスの人となりは、そこを語られるべきではありません。
ナルシスは、日々、速記をしていました。
すばらしいです。
神の中でも、速記の神が最上であるように、人の中でも、速記者が最上です。あと、小説の中でも、速記小説がね、ええ。
ナルシスは、日々、森で速記をしていたのですが、森の妖精たちから恋い焦がれられていました。あんまり受け身系では聞かない言葉です。
ナルシスは、この、恋い焦がれられるのが嫌いでした。速記のじゃまです。ちゃらちゃらしたえせ速記学習者に見習わせたいです。
森の妖精たちの中でも、最も熱を上げていたのが、エコーでした。ちなみに、森の妖精の中で一番の器量よしです。
ナルシスは、このエコーが、一番嫌いでした。美人嫌いとかそういうことではありません。日がな一日、速記もしないで、自分の周りをうろうろするのが、理解できなかったのです。そうですよね、本当にナルシスのことが好きなら、問題文を朗読してあげるとか、ガリ切ってあげるとか、気を引く方法はあるはずなのに。ガリ切ってあげる、が、わからない?これだから平成生まれは。
エコーは、ナルシスにうとまれて、毎日追い払われるのですが、森の中で一番大きな樫の木の下で体育座りをしながら、ナルシスのことを考えて、一人にやにやしているのでした。
ある日、都合の悪いことに、これ以上都合の悪いことは起きないだろうというくらい都合の悪いことに、そこに女神ヘラがあらわれたのです。
ヘラは、夫ゼウスが、森の妖精と浮気をしているといううわさを聞いて、現場を押さえるために、森を訪れたのでした。
ヘラはエコーに、夫の所在を尋ねましたが、エコーはこれに全く気がつかず、にやにやしながら、ナルシス様って本当にすてき、みたいなことをつぶやき続けたのです。
ヘラは怒りました。お前のようなやつは、人から話しかけられたときに話しかけられた言葉を繰り返すことしかできなくしてやる。
迷惑な方ですが、逆らえません。エコーは、自分の思ったことを口にすることができなくなりました。
次の日、エコーは、いつものように、森の中で速記をするナルシスのことを探し、見つけ、遠巻きに見詰めていました。
声をかけようとしましたが、何も言えません。夢ではなかったのです。でも、悪夢です。
ナルシスは、エコーの気配を感じ、誰かいる?と尋ねました。
エコーは、いる、と答えることができました。
ナルシスは、声の主がエコーだとわかると、あっちへ行けと言って追い払いました。
エコーは、行け、と答えて、泣きながら樫の木の下まで行き、何も食べずに、体育座りをしたままやせ衰えていきました。
これを知った復讐の女神ネメシスは激怒しました。人を愛せない者は、自分だけを愛するがいい、といって、呪いをかけたのです。
これは…、ひどいと思います。ナルシスが、エコーよりも速記を大切に思うのは、自由ではないでしょうか。ま、こんなところで文句を言っても始まりませんし、ネメシスに目をつけられたくはないので、このくらいにしておきますが。
そんなわけで、呪われてしまったナルシスは、なぜだか水が飲みたくなりました。わかりやすく言うと、カマキリが、ハリガネムシに操られて、入水したくなるのと同じ理屈です。わからない?大概にしなさいよ、平成生まれ。
ナルシスは、泉の水を飲もうと、泉の上に顔を出したその瞬間、電気が走りました。比喩ですよ。
何ていい男なんだ…。ナルシスは、泉に映った自分の美しさに、これまでに感じたことのない感動を覚えました。
これは、復讐の女神ネメシスの呪いではあるのですが、ナルシスは、もともと美しい青年なので、無理もないといえば無理もないのです。ナルシスの美しさを何かに例えれば、白プレスマンです。美しいですよね。
ナルシスは、そのまま、恋わずらいをわずらいました。何も食べられなくなってしまったので、日に日にやせ衰え、これはもうだめだなというとき、エコーがふらふらとやってきました。
とっくに死んでしまっていたと思いましたか?誰もそんなこと言っていません。うそだと思うなら読み返してください。それほどでもない?じゃ、続けましょう。
ナルシスには、エコーが、エコーその人ではなく、
泉の中の美しい人に見えています。
あなたが好きだ…。そう言ってナルシスは息絶えました。
エコーは涙を流しながら、ナルシスと同じ言葉をつぶやき、後を追うように息絶えました。
ナルシスのなきがらの後には、白いプレスマンのような、ヒヤシンスが咲きました。
教訓:ヒヤシンスは、「シャー芯っす」がなまったのだという。