9 大団円
夕餉の支度をしていると、犬が帰って来た。よく見ると瞼を閉じていて、そこから黒くて長い毛がはみ出していた。
猫飯をやると勢いよく飛びつき、エサ皿を揺らしてガツガツと食らいついた。体調に問題は無いようだ。
白いチューリップハットを被った旦那が帰って来て、共に食卓を囲んだ。
話題は昨日と今日の客と、今後の行商について。
元々道楽で始めた商売なので、売り上げが少なくても衣食住には困らぬのだが。
われが作ったものが客に喜んでもらえれば、なお嬉しいし旦那も生活に張り合いが出るというものだ。
翌日、朝餉を食べたあと、旦那と犬はいつものように出掛けて行った。
われも作業場へ足を運ぶ。
昨日の夕方に窯に入れた器が焼きあがり、ちょうど冷めている頃合いだ。
窯を開け、出来具合を確かめる。
「ふむ。斑が無く良い出来じゃ」
わたしは常温の緑茶を入れた水筒を肩から下げ、ハムと卵とトマトのサンドイッチを多めに詰めたケースを、小さなリュックに入れた。
今日は交差点の歩道橋を渡って、森のひとに会いに行く。行商人の旦那さんと森の奥さんがどんな姿をしているのか、この大きな鳶色の目で確かめてみたい。
門の扉を開けると、通りの向こうに前かがみのお婆さんと、人の好さそうな男の人が向かい合っていた。
「今日は仕事があるので失礼します」
「その右手に持った釣竿に見えるものは何じゃ? 帰りに古池に寄るのではあるまいな?」
わたしは裏道を通って行く事にした。
視力を手に入れ、当初は目に映る様々な情報を制御出来ずにいた。今では少し落ち着いて、無駄な情報を排除する事が出来ていた。
交差点の信号は青だったが、構わず歩道橋を上って行く。周りにいた人たちは不思議そうにわたしを眺めていた。
階段を数段飛ばしながら頂上まで上った。歩道橋から見える景色と涼しい風が心地いい。
帽子が飛ばないように、顎紐を軽く絞った。
通路の中央に白いチューリップハットを被った彫りの深い男の人がいた。
ブルーシートの上に湯呑や皿、マグカップなどの焼き物を並べていて、足元には、目が無い犬がいた。
「おや、この間のお嬢さん?」
男の人はキョトンとした表情で言った。
わたしは小さなリュックからサンドイッチケースを取り出し、ふたを開けた。
塩気を含んだハムとトマトの瑞々しい香りと、砕いたゆで卵の甘い香りが広がった。
「ハムサンド以外をどうぞ」
男の人はゴクリと喉を鳴らし、卵とトマトのサンドイッチを両手につかみ、同時に口へ運んだ。
「ふむ。素材の味を最大限に引き出している。そして口の中で蕩けるように解けていく」
わたしは足元の犬にもハムサンドをあげた。ガツガツと食らいつき、あっという間に無くなってしまった。
「奥さんにハムサンドを食べてほしいから、森に寄せてもらってもいい?」
「もちろんだ。妻も喜ぶ」
男の人はスマートフォンを取り出して連絡してくれた。森の入り口で、出迎えてくれるそうだ。
下りの階段を降りると、落ち着きのない様子で森の奥さんが待ち構えていた。
巫女のような袴に襷を掛けた美しい女性だった。
知的で凛とした顔立ちをしているが、幼さも少し残る可愛らしい一面も覗かせていた。
「ハムサンドは何処じゃ? 卵とトマトもあると聞いたぞ」
あまりの勢いに圧倒されながら、わたしはケースを開け、サンドイッチを差し出した。
「好きなだけどうぞ。この間、持て成してくれたお礼よ」
「承知した。それでは遠慮なく戴くのじゃ」
森の奥さんは最初にハムサンドをよく噛み締め、じっくりと味わった。そして卵とトマトとハムの三種類のサンドイッチを同時に頬張り満面の笑みを浮かべた。
「このハムの濃厚な塩気と卵の旨味、そしてトマトの瑞々しい酸味。それらを包み込むしっとりもっちりとした生地が堪らぬ」
気がつくと、足元には目が無い犬が尻尾を振ってすり寄って来た。お腹が空いているのだろうか。
「こら、さっき朝餉をやったところじゃろう。食べ過ぎは毒じゃ」
森の奥さんは犬の頬を両手で挟んで言った。
その時、わたしの瞳から大粒の涙が止めどなく流れ出した。
目と鼻が充血し、喉の奥がつき上がるように息が苦しくなった。
「どうしたのじゃ? 何か悪い物でも食ったのか?」
突然泣き出したわたしに、森の奥さんは戸惑い、抱きかかえてあやすしかなかった。
私は六時に仕事が終わると、その足で古池公園へ向かった。
ダビデの奥様謹製の美しい釣竿を使いたくてウズウズしていたのだ。
正直仕事に身が入らなかった。しかし今日だけは大目に見てもらおう。
古池の畔で軽く振り被り、竿を伸ばす。
スー、とん、とん、とん、と小気味良い音が鳴り、気分が高揚した。
へび口に釣り糸を結び付け、ウキ止めと重りを付ける。そして桐箱からダビデの奥様謹製の毛鉤と球形のウキを取り出して、糸に取り付けた。
大きく深呼吸をしたあと、毛鉤を池に放った。
少し水中に沈めてウキの具合を確かめ、毛鉤に生命を与えるような感覚で、小刻みに竿を操作する。
「フッフッフ。じっくり罠に嵌めるのも面白いが、敵をそそのかし掌で転がすのもまた一興だな」
悪代官のような笑いを浮かべ、私は黄金の鯉が食らいつくのを待った。
遠くの方で、のんびりとした般若心経が聞こえて来た。